コンロギ


 それは僕がまだ、地元の山裾にある介護施設で働いていた、ある秋の日の事。


 入職してからひと月程が経ち、そろそろ居室担当を任せても良い頃合いだろうと、フロア主任から新入居者のカルテを手渡された。


 そして、その調査記録表の氏名欄を見ると、子供の頃の出来事が段々と頭の中に甦ってきた。


 この仕事を長く続けていると、思わぬ形でかつての知人に再会する事が、ままあるとは聞いていたが、この場合が正にそうだったのだ。


         ※


 小学四年の秋。あれは確か学校から帰ってきた後、縁側で柿の実を齧っている時だった。


 庭先から、ひとつ上の兄が「裏山へ行こう」と声を掛けてきた。


 いつも友達と原っぱで、野球や駆けっこばかりして燥ぎまわっていた僕と違い、兄は寡黙な読書家だった。


 そんな彼からの思わぬ誘いに、僕は怪訝な気持ちを抱きながらも、黙ってその後について行く事にした。


 山道に入ると、色鮮やかな木々の葉がふたりを迎えた。


 僕はその光景に感動し、声を上げながら先を進んだ。


 たぶん兄は、そんな僕の様子を見て笑っていたと思う。その時までは。


 頂に着くと僕は草むらに分け入り、バッタだのキリギリスだのを捕まえては、自慢気に掲げてみたのだが、兄の反応は好ましいものではなかった。


 それどころか段々と僕から離れていき、平たい石の上に座り込むと、黙然と羊雲の動きを眺め続けた。


 不審に思った僕は、家に帰ると母に兄の様子を伝えたが、そこで一連の彼の行動は、父の企てによるものだと判明した。


 時折子供部屋を窺い見る父が目にするのは、机に向かい教科書を広げる兄と、その後ろで寝転び漫画雑誌を読む弟。


 親としての威厳と義務感からか、度々僕を叱責し勉強への意欲を引き出そうとしたが、徒労に終わっていた。


 ならば別角度から切っ掛けを見出してもらおうと、兄にお出まし願ったというわけだ。


 「山にはいろんな生き物がいると思ってさ。そっから理科とかに興味を持ってくれるんじゃないかって、親父と話したんだよ」


 と、後年兄は語ったが、誘った本人が大の虫嫌いだったのは誤算だった。


 居間に置かれた書棚には、兄の所有する本が並んでいたが、殆どが国語の授業で名前を知るような作家の小説ばかりだった。


 理系の本もあるにはあったが、天体や地学に限られていて、確かに昆虫類や生物関連の著作は見た覚えが無い。


 案の定、兄はそれから裏山のウの字も言わなくなった。


 だが、結果オーライということだろう。虫捕りの楽しさを知った僕は、次の日家に帰ると羊雲の空の下、虫籠を手に再び山道を登ったのだ。


 途中、崖下に出来た穴ぼこに気付くと、図書室で読んだ昆虫図鑑の一文が頭をよぎった。


 夜行性で昼間は物陰に潜んでいる……だったな。


 僕は躊躇せず穴に手を突っ込むと、泥に塗れた小さな虫を発見した。


 それは翅の模様といい顔つきといい、エンマコオロギに間違いないと思った。


 早速、一匹捕獲し幸先良しと歩を進め、頂に着き前日同様草むらに分け入ると、籠に入りきらない程の虫を捕まえた。


 ”入りきらない"は誇張ではない。だからこそ、最も気に入ったエンマコオロギだけを集めて、学校の友達に自慢してやろうと思ったのだ。


 漫画に出てくる悪役みたいな顔だな、そんなふうに思いながら虫籠に顔を近づけていると、突然目の前が真っ赤になった。


 ─あっつい!


 僕は声をあげ籠を取り落とし、その場にへたり込んだ。


 燃えている……虫達が……これはまるで炭火焼きの……。


 今起きている事が理解出来ず、ワナワナと体を震わせていると、大きな影が僕の横を通り過ぎ、炎の上に七輪を被せた。


 「おお、どっかで見た子だと思ってたんだよ」


 その作業服姿のおじさん、大石源太譲二さんが僕を見下ろしながら言った。


 彼は、僕達が通っていた小学校の用務員で、その個性的な名前を生徒達からネタにされながらも、"源おじさん”と呼ばれ親しまれてもいた。


 だが僕にとっては、"大石”という苗字の方が見た目そのままで印象的だった。


 実際体躯だけでなく、差し伸べられて掴んだ手も、大きくてゴツゴツとしていたのだから。


 「火傷しなかったか? あれはな、コンロギだ」


 コンロギ……と言った。コオロギではないのか? 


 ズボンに付いた土を払いながら訊くと、おじさんはニコリと笑い、ノミで刻んだような法令線を浮かべた。


 「いや違う、似てるがな。こいつらは一箇所に集めると、こうして熱を出す。山火事になるとこだったぞ」


 そう言って、器用に七輪を返して蓋をする。


 「ま、今日はおまえさんのおかげで一辺に捕れたがな」


 捕ってどうするのだろう……もしかして……。


 「食いやしねえよ。イナゴじゃあるまいし」


 おじさんは、今度は苦笑して質問に答えた。


 用途が気になった僕は、一緒に山を下りると、麓にある彼の家に寄らせてもらうことにした。


 玄関の戸が軋んだ音をたてて開くと、奥に六畳程の和室が見えた。


 おじさんは、担いでいた七輪を土間に置き部屋に上がると、戸棚から巾着を取り出し戻ってきた。


 「こいつで一杯やるんだよ。ほら、まだ大丈夫だろ」


 蓋が開くと、虫達はまだ真っ赤だった。


 そして七輪の上には鉄網が乗せられ、巾着の中身の栗が、幾つかその上に置かれた。


 「昔はな、こうして焜炉の代わりにした。だからコンロギって名がついた。だが、段々と数も減ってきてな。今じゃあ、こんな焼き方してんのは俺ぐらいよ」


 暫くすると、鼻先に芳しい匂いが漂ってきた。そして僕の口元から涎がはみ出た瞬間、切れ目を入れ忘れた栗は破裂した。


 僕もおじさんも声をあげて笑ったあと、穿るように焼き栗を食べた。


 


 それからも裏山へ行く日は続いたが、冬が来る頃には僕の興味は、また野球と駆けっこに移っていった。


 そしてクリスマスの日、プレゼントされたグラブで試合をして帰ってくると、庭には父と兄の姿があった。


 兄が嫌そうな顔をして僕を見ると物置に入り、自身へのプレゼントである天体望遠鏡を抱えて出てきた。


 父の案で、裏山へ天体観測に行く事になったのだ。


 兄は反対したらしいが、強引に押し切られたという。


 夕飯の後、防寒着を着てほっぺたを赤くしながら山へ向かう途中、見覚えのある家屋が見えてきた。


 七輪の上の栗が脳裏に浮かんだ。だがもう、あの土間には誰もいない。


 師走に入ってから間もなく、おじさんは学校を辞め、知らない街へと引っ越したのだ。


 山道に着くと、懐中電灯を手にした僕が先導する形になった。


 茂みから物音がする度に兄は体をのけ反らせ、父を呆れさせた。


 「虫じゃなく、冬眠前のヤマネか何かだろう」


 と、説明されても兄の反応は変わらなかった。


 頂に着いて、父が背負っていたバッグを下ろし望遠鏡を組み立て始めると、僕は懐中電灯を残しその場を離れた。


 "冬眠"という言葉が頭から離れなかった。


 あの虫は、コオロギみたいに冬が来たら死んでしまうのだろうか?


 それともテントウムシやアリみたいに、眠って冬を越すのだろうか? 例えば、この石の下で……。


 足下にあったのは、初めてここに来た時兄が座り込んだ平たい石だった。


 僕は石の下に指を潜り込ませると、思い切り力を入れた。


         ※


 「ふーん。そんな事があったのか」


 と、フロア主任が、大石さんのいる居室を出た後に言った。


 「はい。まあ、十年以上も前の事ですから、いくらか記憶違いもあるでしょうけど、生活歴からしても間違いないですね」


 「じゃあ、ここはあの人の家の跡地になるわけか。しかし、天涯孤独な身だったんだな」


 ステーションに戻ると、カルテを取り調査記録表を読み直した。


 年齢が、一昨年亡くなった祖父とそれ程変わらなかった事にも驚いたが、特に目を引いたのが、寝たきりの原因が書かれた疾病歴だった。


 ─こいつで一杯やるんだよ


 「程々にしとけばよかったのに……」


 「にしても、体動や意思表示が出来ないうえにあの体だ。俺らだったら何とかなるにしても、女にはきついぞ」


 「日中は人がいるから大丈夫だとしても、問題は……」


 「夜勤帯だろうな」


 だが、幸い僕がいたフロアの女性職員は皆、卓越した介護技術を持ったベテランで、身体介助等も卒なく行なえたとみえ、心配は杞憂に終わったかと思えた。


 そして、季節が秋から冬に差し掛かったある夜、事件は起きた。


 「ヘビが? 大石さんの背中の下から?」


 「そう! シマヘビ!」


 薄暗い朝、早番で出勤すると、当直明けのミドリさんが青ざめた顔で言った。


 「丁度ね、体交の時に体を横にしたら、こうニョロニョロと」


 「マジっすか? そりゃビビりますよね」


 「本当! あたし昔から爬虫類苦手だもん!」


 問題の本質はそこではない気もしたが、逃げたヘビがまだ建物内に潜んでいては、差し障りがあるのは確かだ。


 午前中、各フロアの男性職員が業務の合間を縫って探索を試みたが、ヘビは何処にも見当たらなかった。


 「これで、忘年会で盛り上がるネタがひとつ増えただろう」


 誰もが主任の言葉通り、楽観的な捉え方に切り替えた後で、第二の事件が起きた。


 「は? トカゲ?」


 「そう! 普通のニホントカゲ! 横にしたら、こうシュバシュバッと」


 早番で出勤すると、明けのハツエさんが何故か愉快な調子で言った。


 「二回も続くような事じゃないよなあ……」


 「いいや、まだ続くんじゃないかしらね」


 「どうしてですか?」


 「昔と比べて、この辺りも拓けてきたでしょ。駅前に大きなデパートが出来たり、うちみたいな施設が出来たりで、あたしらオバサンが子供の頃とは大違いよ。そんでもって次はあそこ」


 ハツエさんは食堂のカーテンを開け、窓の外を見上げた。


 「ああ、宅地になるんでしたっけ」


 「うん。だから開発に邪魔な石とかも除去されちゃう。そうすると、冬の間その子が眠る場所も無くなっちゃうでしょ」


 「その子って……」


 介助席の横のスツールには、一匹のニホントカゲが乗っていた。


 「それでね、ヘビだのトカゲだのダンゴムシだのが、代わりになる場所を求めて山を下り、目先にある建物に入り込んだ。そこでようやく辿りついたのが」


 「"大きな石”の様な体の下……」


 「そういう事じゃないかしら」


 「なるほど…………あ、ダンゴムシもいたんですね」


 ハツエさんの推論は、数日後のフロア会議でも取り上げられた。


 その結果、大石さんの体位交換は、冬の間左右の側臥位のみで行う事となった。


 そんなこんなでまた数日が過ぎ、世間がクリスマスで賑わう夜、第三の事件が起きたのだった。


 日付が変わる頃、夜勤者だった僕がステーションで経過記録を記入していると、その足下へ何やら跳ねてくるものがあった。


 摘んで見ると、それは見覚えのある黒い虫だった。


 「エンマコオロギがなんで……いや、コイツは」


 数分前に行った、巡視の際での体位交換を思い出し、懐中電灯を片手に大石さんのベッドへ向かった。


 「やべ……仰臥位にしちゃってる。ごめんね、またちょっと動かすよ」


 と、目を瞑る大石さんに小声で語りかけると、石のような体の下に指を潜り込ませ、力を入れた。


 「これは……ほんのりと暖かい……」


 背中の下にいた虫達は、秋の陽のようなオレンジ色の光を放っていた。


         ※


 「ふーん。そんな事があったのか」


 と、兄が天体望遠鏡を組み立てながら言った。


 「まあ、十年以上も前の事だから記憶違いもあるだろうけどさ。しかし、ここだけは変わらないね」


 薄闇の中に見る平屋建ての木造校舎は、あの頃のままだ。


 玄関口に目を向ければ、箒を掃く"大石のおじさん”の姿だってありそうな気さえする。


 「望遠鏡もプレゼントだったの?」


 「ああ、自分へのな。あいつはあんまり興味ないみたいだ。その辺はおまえに似たのかな」


 校庭の真ん中で響いていたキャッチボールの音が止んだ。


 近寄ってくるふたりの少年の左手には、共に父親からのクリスマスプレゼントが嵌められている。


 「本当に昔の俺達みたいだな」


 と、兄が感慨深げに言った。


 キャッチボールをしてくれた事なんて、一度もなかったはずなのに。


 「ほらいるよ。先生!」


 声のした方を見ると、懐中電灯を手にした少年を先頭に、校門から数人の子供達が入ってきた。


 全員四年一組の生徒で、兄の教え子達だ。


 「おお、みんな来てくれたか。でも、ちょっと早いな。これ食べてからにするか……ごめん、失敗したんだ」


 と、兄が申し訳なさそうにリュックから出した巾着には、バラバラになった栗が詰められていた。


 そして皆で、その切れ目を入れ忘れた焼き栗を食べ終えた頃には、辺りはすっかり暗くなり、いよいよ天体観測が始まった。


 「あれ? さっきの虫みたい」


 最後に望遠鏡を覗いた少女が言った。


 夜空には、平たい石の下に見たコンロギの最期の灯みたいに、青く燃えるシリウスがあったのだ。




 (了)

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