うしとらの村

 

 本当は、この町から離れたくなかった。


 でも、"恐いパパ”が嫌だから何も言わなかった。


 セイラちゃんやユキヤくんと、お別れするのは嫌だった。


 "うしとらの村”になんか行きたくなかったんだ。


 「今日は大丈夫そうだな」


 パパが、ハンドルを動かしながら聞く。


 「なにが?」


 「ゲェしないからよ。あんたいつも酔うじゃない」


 隣にいたママが言った。


 「あ、そうか。でも、やっぱりダメだ」


 ボタンを押して窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。


 「こんなに気持ち悪くなるのに、どうしてママはお酒を飲むの?」


 「何よそれ? 意味わかんない」


 「だって、飲んだら酔っちゃうんでしょ?」


 「その『酔う』とは違うでしょ」


 ママがそう言うと、パパがちょっとだけ笑った。


 よかった。今日は"優しいパパ”みたいだ。


 「ねえ、本当はなんていう名前のとこなの?」


 「だから、艮だってば」


 パパに聞いたつもりだったけど、答えたのは、またママだった。


 今度住む場所は、今まで住んでいた町から見て、"うしとら”という方角にあるらしい。


 だからふたりとも、そう呼んでいたんだと思っていた。


 「昔から、艮の村という名前がついていたんだよ」


 なんだか楽しそうにパパが答えたとき、灰色の空からゴロゴロという音が聞こえてきた。


 「天気予報外れてるし」


 ママが目をこすりながら言った。


 「ああ、梅雨時だからかな。ほら、もう少し窓閉めてな。雨が入ってくる」


 そう言われて窓を半分くらい戻したけど、村に着く頃には青空が広がっていた。


 「へー、不思議な事もあるもんだな」


 「パパ、今度はあんな家に住むの?」


 ぼくは、窓の外を流れていく、藁で出来た三角の屋根を見て言った。


 「いやか?」


 「ううん。昔話に出てくるおうちみたいで好きだよ」


 「そうか、でも違うんだな。もう見えてきたぞ、起きて」


 パパが、いつの間にか眠っていたママの肩を揺らした。


 「ん……着いたの? 酒屋は?」


 「なんで先にそっちに行くと思うの? これだからトラは……」


 車が止まった場所に建っていたのは、最初の仮面ライダーやウルトラマンに出てくるような、普通の古い家だった。


 「なんかまだ眠い……というか、畑と田圃だけじゃない」


 「ここは外れの方だからね。それこそ酒屋や学校のある場所は、もっと開けてるでしょ。さ、とっとと中の片付けしよ」


 パパが先に下りてトランクを開けた後、ぼくはランドセルを、そしてママはお気に入りのバッグを抱いて外に出た。


 「そういえばあんた、描いた絵とかはどうしたの?」


 「ちゃんと全部捨てたよ。ねえ、なんでパパはママの事をトラって言うの?」


 スッとママが立ち止まり、ぼくを見つめた。


 「だから、あたしがトラだからよ」


 ニヤリと笑ったママの口の、右と左の端っこから、尖った歯が一本ずつ見えた。なんだかトラの牙みたいだった。


 「昔からお酒の事をさ、笹とも言ってたの。トラって笹や藪の中にいるでしょ、だからママみたいのを大トラって言うの。最も、それだってぜーんぶ」


 「もう、何してんのふたりとも、何の話?」


 後ろに来たパパが聞いた。


 「パパが約束を破ってばっかいるから、あたしがトラになったって話をしてたの。あと、ある程度片付いたら、この子と一緒に先生に挨拶してくるから」




 「へえ、大変ですね。授業だけじゃなく、そういう事まで」


 「いや、もう趣味みたいなもんですよ」


 先生はスコップを花壇の縁に置くと、首にかけたタオルで顔を拭いた。


 ママは、それを見てクスクスと笑った。


 「もう、本当にさっきはごめんなさい。でも、カンカン帽もよく似合ってるから」


 「いや、用務員さんと間違われるなんて、しょっちゅうですよ。ハハハハハ」


 先生がカラカラと笑うと、ママもまたクスクスと笑った。


 「それじゃ、あたし達そろそろ……えっと、何の花でしたっけ?」


 「ガザニアです」


 「ガザニアか……雨、降るといいですね」


 「は?」


 「あ、いえ、梅雨の事です。花がよく育つように」


 先生は不思議そうにママを見た後、青空を見上げた。


 「そりゃ、降るでしょ」


 「そ、そうですよね」


 「今年は何より、丑年ですし」


 「そうか……そうですよね、丑年ですもんね。フフフフフ」


 「ハハハハハ」




 「ねえ、なんで丑年だと空梅雨にならないわけ?」


 ママが酒屋さんで買ってきたお酒を飲みながら、パパに聞いた。


 「さあ、ここらの言い伝えとかじゃないの? それより、今日も呑み過ぎじゃない?」


 「ふう……ねえ、次の日曜日は本当に大丈夫なの?」


 「もう……だから今度の課長は、ちゃんと気を遣ってくれる人だって」


 「今までの課長の事だって、そう言ってたじゃない」


 パパがションボリと下を向いた。まるでママに「ごめんなさい」をしているようだったけど、その顔は、ちょっと怒っているようにも見えた。


 「ほら、いつまでもそんなとこに横になってないで、ちゃんと部屋で寝なさい。今日は疲れたでしょ」


 「そうか。明日からもう学校だもんな。おやすみ」


 ぼくはパパとママに「おやすみなさい」を言ったあと、新しい自分の部屋に入って、布団の上に寝転がった。


 勉強机に置いたままのランドセルから、画用紙がはみ出ているのが見えた。


 それは一枚だけ捨て忘れていた、クレヨンで描いたパパの絵だった。


 「どぅわからあ! あーたしだって別に呑みたくて呑んでるわけじゃぬわいって!」


 「もう! そんな大声出すこたないだろう! 嫌だよ、もう」


 「何が『もう』『もう』だ! ウシじゃあるめえし!」


 また始まった。早く部屋に戻って正解だった。


 だって、ママに怒鳴られたあとのパパは、ぼくにとって角を生やした鬼みたいな"恐いパパ”になるからだ。


 だから授業でパパの絵を描く事になったとき、そのまま鬼の絵を描いたんだ。


 パパに見せたのは、セイラちゃんに言われて描き直した方の絵だったけれど。


 「本当だから……必ず」


 苦しそうなパパの声が聞こえたあと、家の中は静かになった。




 「次の日の朝から、ママはパパのことを怒らなくなったんです」


 「そうか。それは、あのお酒を呑んだからだろう」


 その日の放課後、ぼくは先生と花壇の縁に並んで座り、話をした。


 「お酒を呑んだから?」


 「うん。君のお母さんの、家族に対する考え方が変わったのさ。何か前触れみたいなものはなかったかな?」


 「まえぶれって……」


 あの夜、目が覚めてトイレに行こうと廊下に出ると、台所でふたりが横になっているのが見えた。


 丁度、柱時計が三回鳴ったときだった。でも、他にもおかしな音が何回か聞こえたんだ。


 「ひどく酔っぱらった状態の事を"ベロンベロン”というだろ。その音は、お母さんが妻として母として、ベロンベロンと一皮も二皮も剥けた時の音だったんだよ」


 「……よくわからないけど、皮がむけたら怒らなくなるんですか? でも、今までそんなことはなかったのに」


 「お母さんが呑んだお酒はね、この村の特産品でね、あれはトラだろうがウシだろうが誰にでも効く銘酒、まさに"鬼ころし”というやつだよ。ハハハハハ!」


 先生は気持ち良さそうに笑ったけど、それもぼくには、どこが面白いのかわからなかった。


 「まあ、とにかくそういうことなんだ。ふたりとも横になってたと言ったね。じゃあ、お父さんも晩酌のお供をしたのかな?」


 「はい、そう思います。あ、パパも変なんです。"恐いパパ”にならなくなりました」


 「恐いパパ?」


 「はい。嫌なこととかあっても、ぼくに怒らなくなったんです。あと、前よりも頼りなくなりました。それも皮が剥けたからですか?」


 そう聞くと、先生はタオルを首から外して両手で丸めはじめた。


 「そうかもな。でも、もしかしたらお父さんから聞こえたのは皮が剥けた音ではなく、鍍金が剥がれた音かもしれない。おや、降ってきそうだな」


 空には、この前見た灰色のとは違う、白黒はっきり別れた雲が広がっていた。


 「すごい……あんな雲、初めて見る。まるで半紙に墨汁を垂らしたみたい。なんだか牛の模様にも見えます」


 「うん。丑の年には必ず現れる雲なんだ。それに、似てるのは体の模様だけじゃない」


 どこからか、ウシの鳴き声が聞こえてくると思ったら、それも空からだった。


 「あの黒い部分が雨雲だよ。"ゴロゴロ”じゃなく"モウモウ”と鳴るんだよ」


 「もうもう……あ、そういえばパパ遅いなあ」


 「そうか、お父さんを待ってたのかい?」


 「はい。迎えに来てくれるんです。そのとき渡す物があるのに……」


 ピカッと雨雲が光った。そして、それと一緒に聞こえてきたのは、男の人の悲鳴だった。


 「ああ……今のは多分頭に直撃したんだろう。私の時みたいにな」


 そう言うと先生は、丸めたタオルをポイッと放り、カンカン帽を脱いだ。


 その頭には、二本のウシのような角が生えていた。




 あれから家に着くと、ぼくは"父の日”のプレゼントを急いで描き直した。


 せっかく角の無いパパが最初から描けたのに、今度は本当に生えてきてしまったからだ。


 でも、せっかくだからパパを真ん中にして、ぼくとママもその隣に描いた。


 ガザニアの花が咲いた花壇の前に、三人が並んで立っている。絵の中でパパは空を見ながら笑い、ぼくとママはパパを見ながら笑っている。


 「みんな良い顔をしているね。特にお母さんのニヤリとした表情が素敵だよ。まさに虎視眈々と獲物のウシを狙うトラのようだ。ハハハハハ!」


 いつか家に来た先生が、飾ってあった絵を見ながら気持ち良さそうに笑って言った。


 でもそれだって、ぼくにはどこが面白いのか全然わからなかった。




(了)

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