朧夜
「ミキちゃん本当に悪い、日程組むの間違えちゃって。休みなのに」
主任が申し訳なさそうに手を合わせた。
「いえ全然。言い出しっぺは私だし。じゃ、取り敢えず、上で適当にやってますんで」
「うん。照明機材は先に置いといたし、他のもそこに乗せといたから。あと報告書の方は俺が書くから」
私は主任に礼を言い、フロア前に置かれた台車を押しながらエレベーターに乗った。
屋上に出ると、外はまだ幾らか明るく、生温い風も心地良かった。
三宝に積んだ団子に瓶子、そしてススキの代わりの菜の花等を一通り飾り付けたところで、エレベーターが開いた。
「あらかた終わっちゃったかな」
「あれ……早番じゃなかったんですか?」
「うん、俺も手伝うよ。もちろん残業手当ては付けてもらうけど」
「いいんですか? ありがとうございます!」
「いや、三月の月見もいいかなって。あと、テル子さんにも誘われたしね」
島岡さんは、苦笑いを浮かべながら言った。
「テルさんに、だいぶ気に入られてますもんね」
「いや、ミキちゃん程じゃないでしょ。じゃあ、そろそろみんな連れてくるね」
「あの……どう思いますこれ?」
島岡さんはエレベーターの手前で振り返ると、顎に手を当てて、思慮する素振りを見せた。
「うんうん、雰囲気も出てるし、とても良いと思う。ただ、団子の数が減ってるような……」
「あ、そういえば、当初の予定より少ないなとは思ってたけど、これって」
「まあ、そうだろうね。腹壊さなきゃいいけど」
島岡さんはまた苦笑いを浮かべ、というよりも失笑しながらエレベーターに乗った。
そして、次からエレベーターが開くと同時に私は入居者を迎え、同乗してきた他の職員と共に所定の位置に誘導した。
「あれ三宅君、テルさんがいないみたいだけど?」
「なんか着替えてるみたい。主任が三味線ボラと一緒に上げてくれるって」
「じゃあ、きっと……」
「おんや、待たせたかの?」
振り向くとそこには、予想通りお気に入りの赤襦袢を着て車椅子に乗った、真ん丸い顔のテルさんがいた。
時節柄か、顔の部分を満月に挿げ替えた雛人形のように見えた。
「ううん、全然。ところで団子はおいしかった?」
「うんにゃ、旨いもんじゃなかったな」
「そりゃそうだよ。食べる用に作ったんじゃないんだから」
テルさんの後ろで、手押しハンドルを握っていた主任が笑った。
「シホちゃん、ほれ出とるのう」
テルさんは自分の娘の名前を口にしたが、私は受け流し、東の空を仰ぎ見た。
「うん。朧月夜だね」
「うん。今夜は朧夜にはならなかったの」
「え……?」
その瞬間、目の前の雛人形の顔が、また挿げ替わって見えた。
それは、容貌も健啖家なところもテルさんとよく似た、祖母の顔だった。
※
マミちゃんの家から帰ると、婆ちゃんが縁側に腰掛けて、お茶を飲んでいた。
「おう……おかえり、孫よ」
「ただいま。だんだん暖かくなってきたね」
あたしは婆ちゃんの隣に座って、まだ少し赤い色の空を見て言った。
「そうじゃのう。今夜も朧夜かもしれんのう」
「でも、ここんとこお月さんを見てない気がするんだけど」
「そうじゃ。だから朧夜言うたろ」
「うん、朧月夜のことでしょ?」
「そっちの朧夜とは違う。月を忘れた方の朧夜じゃ」
そう言うと婆ちゃんは、湯呑みをお皿の上に置いた。
「なあ孫よ。この世に空が生まれて何年経っとると思う? ワシとてこの歳で記憶が抜け落ちる事もある。空なら尚の事じゃ、記憶も朧気になり、月の存在が抜け落ちる事もあるじゃろ、特にこの時期はな。記憶が"朧”になって"月”が抜けた"夜”だから"朧夜”と書くんじゃ」
「……ほぇ?」
「こりゃ、まだ難しかったかの。まあ、そのうちわかるぞ、孫よ」
お月さんみたいな顔が、ニッコリと笑った。
「ねえ……孫よってばっか言ってるけどさあ、あたしの名前わかる?」
「そりゃ、ミチコだろ?」
「やっぱり……それ伯母ちゃんの名前だって」
「おお、そうかそうか!」
あたしは、カッカッカッと笑う婆ちゃんを放って、自分の部屋に入るとベッドに寝転んだ。
(あれ、絶対嘘だよね。だってそんなの聞いたことないもん。それとも、あたしが知らないだけなのかな? ううん、からかわれただけだよ。婆ちゃん、そういうこと好きだし。や、まって……あたしの名前また間違えてた。それだけじゃない、こないだもお母さんを大叔母ちゃんの名前で呼んでたし。これってもしかして、いよいよ婆ちゃんも……)
そんなことを考えていると、コンコンとノックの音がして、お母さんが部屋に入ってきた。
「もう、ご飯だって呼んだでしょ。お婆ちゃんもう食べちゃったから、あんたも早くして」
開いたドアの向こうから、テレビの音と一緒にカッカッカッと笑う声が聞こえてきた。
「ねえお母さん、朧夜って……」
「は?」
「ううん、なんでもない。今行く」
お母さんの後に部屋を出ると、頭の中にさっきの婆ちゃんの言葉が浮かんだ。
あたしは、ドキドキする胸に手を当てて縁側に行くと、戸を開けて夜空を見上げた。
「げっ! これは!」
叱られるのを覚悟して、ドタドタと廊下を駆けていくと、婆ちゃんは茶の間じゃなく台所にいて、お母さんと話をしていた。
「おんや、どうしたんじゃ孫よ」
「大変だ大変! 空に……東の空に月が並んで……月がふたつ並んで出てるよ!」
お母さんが、ボカンと口を開けてあたしを見る。婆ちゃんは、またニッコリと笑った。
「ほう……だから言ったろう、空が生まれて何年経っとると思う? ワシだって今、食ったのを忘れて夕飯を二回食おうとしたんじゃ。空だって忘れて、月を二回出す事もあるじゃろ」
※
「よかった、まだ残ってた」
エレベーターが開き、私服姿の島岡さんが降りてきた。
「ごめんなさい。もうすぐ終わりますんで」
「いや、片付けがまだ残っててよかったってこと。さてと……」
島岡さんは、中央に置かれた菜の花と瓶子を抱え、台車に乗せた。
「あ、ありがとうございます」
「今年は、見られると思ったんだけどな……」
「はい? あ、それ……私も思ってました」
「あとごめん、写真見ちゃった」
ステーションのテーブルに、祖母とのツーショット写真を置いたままにしていたのを思い出した。
「いいんです。というか、島岡さんも見るかなと思って持ってきたから」
「そう……でも、本当に顔の輪郭がそっくりだね。あれ、例の夜に撮ったの?」
「そうです、記念に。昨日、テルさんの荷物整理してる時に思い出して」
「そうか……テルさんは、あの写真まだ持ってた? 去年の月見に三人で撮ったの」
「ありましたよ! あとで見ます?」
島岡さんは、照明器具のコードを巻く手を止めると、今度はポケットの中を探りはじめた。その後ろ姿は、若干震えていた。
「ハンカチ……ですか? ごめんなさい、今持ってないです……」
「え……いや、なんとか大丈夫そう……あれ? ねえ、ほら」
「はい? あ……」
それから私達の視線は、東の夜空に惹きつけられた。
「ミキちゃんは、何で見られると思ったの? テルさんの事があったから?」
「それもありますけど……最近、月を見ていないような気がしてたから」
「うん、俺も。今夜だってそうだった。これって、今まで忘れていた反動でもあるのかな……」
そこにふたつ並んでいたのは、この時期にしては珍しく明瞭な満月だった。
「これ、あったけど……」
「ありがとうございます。大丈夫です」
私は、差し出されたハンカチを受け取ったあと、もう一度"ふたりの婆ちゃん”を見上げた。
結局その晩は私にとって、朧月夜になったのだ。
(了)
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