プレゼント
「サハラ砂漠って……何?」
「なんや、まだ学校で教わっとらんのか? でも流石にわかるやろ、世界一大きい……」
「いや、そういうこと聞いてんじゃなくて、何でそんな所に行くことになったのかってこと」
「そりゃおまえ……」
「転勤よ」と父の代わりにベランダにいる母が答えた。
「そうや、転勤みたいなもんや。おまえの友達のなんとかって子のお父さんと同じや」
「御厨君? でも、あの子のお父さんは日本国内だよ。あれ……もしかして海外赴任とかいうやつ?」
「おっ……まあ、そういうことや。これで晴れて海外特派員やな、ははははは!」
「特派員て……だってお父さん完全に裏方さんなんでしょ? 音声だか音響だかよくわかんないけど。ねえ、それってもしかして」
卓袱台に身を乗り出して顔を近づけると、父は少しだけ開いた玄関扉の方を向き、頭を掻いた。
「なんや、またそんな鳥よけの風船みたいな目で見よってからに……。あんな、言うとくけど、わいは嘘なんてこれっぽっちも」
「出世したんだね!」
「おっ……へ?」
「お父さんとこのドラマでもよくやってんじゃん。主人公が上司から『おめでとう!出世コースだ!』って嬉しそうに報告されるけど、本人は恋人と別れて遠い異国の地に旅立つのを躊躇う……ってパターンよ。そういうことでしょ? おめでとう!」
大きくて毛深い手を取りギュッと握ると、父は下を向いて、もう片方の手でまた頭を掻いた。照れてでもいるのかと思ったが、どうも様子がおかしかった。
「お父さん……どうしたの?」
父は何も答えず、目の前に置いてある麦茶を一気に飲み干した。赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。きっと先月生まれたばかりだという、隣の部屋の子だろう。
「違うの……? お母さん、どうしたのこれ?」
「これって指差さないの」
母が洗濯籠を抱えて部屋に戻ってきた。
「ねえ由香里、ちょっと吉田屋さんとこ行ってきてよ。ほら、象さん公園とこの和菓子屋。あんた足速いからすぐ行けるでしょ」
「え……だからさあ……そこもう潰れてるって。前に頼まれたときに行って、無駄足だったじゃん」
「そうだったっけ? あれ、お父さんそろそろ時間じゃない?」
コンッと音がした。父がようやくコップを卓袱台の上に置いたのだ。
「そうやったんか……あの店やめてもうたんか。おっ……なに? 時間か。ほな、浜島ディレクターと会うてくるわ」
「茜のお父さんと?」
「おお、ふたりきりの送別会や。ほなな」
父はノッソリと立ち上がり玄関まで行くと、ドア止めにしていたサンダルを履いて外に出た。
「ふふ、つくづく思うけど、あんたが背高いのはお父さんの遺伝だね」
母が私の隣に座り、洗濯物を畳み始める。
「ねえ、本当にお父さん海外に行くの? いや、そしたら私達も」
「ううん、単身赴任てやつよ。安心しな、あんたもここに戻ってきたばっかだもんね。そういえば、前にいたとこの子達とはそれっきりなの? 茜ちゃんとは仲直りした?」
「仲直りって……別に喧嘩したわけじゃないし……。でも、やっぱ変じゃない? 送別会なのにふたりだけって。モンゴルなんて遠くに行くのにさ」
そう言うと母は手を止めて、私の顔を見てニヤリと笑った。
「ははん、あんたサハラ砂漠がどこにあるか知ってる?」
「え、だからモンゴル……」
「それはゴビ砂漠。父さんとこのドラマもいいけどさ、少しは勉強もしなよ。でも、そこにも行くかもね」
「そこにもって……どうゆうこと?」
母が再び洗濯物に視線を移した。
「世の中には……大人の世界にはさ、知らなくていいこと……わりとあるんだよ、あんたもそのうちわかる。父さん、当分帰ってこないよ。私達だけじゃなく友達とも会えなくなるってこと。だから今日浜島さんと会うのは、ただの送別会でってわけでもなさそうだね」
「それって、もしかして……」
私が言いかけたとき、電話のベルが鳴り、近くにいた母が四つん這いになり受話器を取った。
「もしもし、ああ淳子さん。うん、今うちの旦那も出たとこ。あ、十日の日って何時に……」
電話の相手は"彼女”の母親らしい。私は寝室に行き勉強机に座ると、ほとんど使ったことのない地図帳を広げた。
「アフリカの北の方か……」
その日、父のこれからの仕事についてわかったのは、サハラ砂漠がある場所だけだった。
「やっぱベランダは気持ちいいね……あれ、あいつだよね? さっき急に話しかけてきたの」
背丈の割に、やたらボールを目がけては飛び上がってばかりの男子を指差すと、茜は呆れたような表情をして頷いた。
「そう。あいつテレビっ子だから、ユカからも面白い話を聞けると思ったんだろうね」
「そっか……。でも、たしかに親がそういう仕事をしてるのって珍しいんだろうね。しかも、学年にふたりもいるんだから」
「でも、やっぱ……テレビ局って、変わった仕事場なんだろうね」
茜が柵にもたれかかりながら言った。
「えー、今頃それ言う? 私もね、父さんとはあんまり話をしないんだけど、よく夫婦の会話が、台所から聞こえてきたりするじゃん、それが全然わけわかんない内容なの。でも、そのたんびに、これが大人の世界なのかな……って思うんだよね」
「そっか……それうちもある……かな。そもそも……なんで入れたんだろうなあ? だってふたりとも大学でほとんど講義受けてなかったんでしょ? 映画ばっか撮ってたみたいだし」
「だから、そういうとこも変わってんだろうね」
校庭からゴンゾー先生の怒鳴り声が聞こえてくる。怒られてるのは、例のヘディング小僧らしい。
「それにしても、小六ともなると、一年が過ぎていくのが早く感じるねえ……ねえ?」
茜が上目使いをしながら訊いてきた。
「は? 何、いきなりババくさいこと言って……」
「だってさあ、もう夏だよ夏。こないだまで長袖着てたと思ったらさあ、いつの間にか半袖だし。そして来月になったらもう……」
「……もしかして……いや、わかった。完全にわかっちゃったよ、茜の言いたいこと。だって来月は……」
「うわっ、すごい!」
強い風が吹き、校庭の砂が舞い上がった。
豆電球の明かりで、掛け時計の針が薄っすらと見える。
夜中の三時……嫌な時間に目が覚めたもんだ。たぶん、一年前の夢を観たせいだろう。
私は起き上がると、隣で寝ている母を起こさないように襖を開け、床の間に入った。
完全に目が冴えてしまったようだ。これじゃ、しばらくは眠れそうにない。
卓袱台の上のリモコンを取り、ボタンを押す。電源が点くと同時に音量を下げる。画面に映るのは、もちろん砂嵐。
いったい、この砂嵐の砂は何処の砂なんだろう……サーッという音に引き寄せられるように近づき、画面に手を入れて一掴みしてみた。
寝室に戻り、勉強机に座ると引き出しから藁半紙を出し、握っていた手をその上で少しずつ開く。
パラパラという音が止むと、開いた手で卓上ライトのスイッチを点け、ペン立てから虫眼鏡を取り出して覗き込む。
「綺麗だな。これは珪砂……石英か。とすると"砂嵐”ってだけに、やっぱサハラ砂漠辺りの砂なんだろうな」
布団が擦れる音がしたので母の方を見ると、相変わらず頭をこちらに向けて横になったままだ。私はホッと溜息をつき、ライトを消して、自分の布団に潜り目を瞑った。
そしてその一週間後、また同じ時間に目が覚めた私は、母が眠っているのを確認して床の間に行き、一週間前と同じように画面から砂を取り出して観察した。
「こないだのと感触が違うと思ったら、これは石灰岩……何処かの砂浜かな? サンゴ礁の島……? もしかしたら……」
その翌朝、私は衝動的に彼女への手紙を書いていた。近況伺いから始まった内容は、次第に父のことで埋め尽くされていった。
父のおかげで色々なものに興味を持てたこと。なのに、その父のことを何も知らずに生きてきたこと。
例えば学生時代はどんな映画を撮っていたのかとか、母さんのどの辺が好きになったのかとか、なぜ北海道出身なのに怪しい関西弁を使うのかとか……。
でも最後は、やはり彼女へ向けて一言「ごめんなさい」と……。大切な人がふたりもいなくなって、ようやく伝える気持ちになれた、その言葉を書いた。
きっと、こんな手紙を急に受け取っても良い気分はしないし戸惑うだろう。だから、ひと月早い誕生日プレゼントの添え書きとして、彼女の欲しがっていた物と同封して送った。まあ、それでも無理があることに変わりはないのだけれど……。
おっ……そうや! あの砂は沖縄で撮影したときのやつや!
おう、あんときも帰ってきてたんや。でもな、浜辺で砂嵐なんて無理やろ、だから会社が特注の送風機を用意してくれてな、それで上手く起こせて撮れたんやで。臨場感バッチシやったろ。
その後か? いや、一度またアフリカの方に戻って……そや、それからゴビ砂漠や! どこにあるか知ってるか? おう、そこやそこ。ほおん、少しは勉強しとったんやな。
でもな、そこで大変なことが起きたんや! おまえ観とったかなあ? あれ最後の方でキーンて音が鳴ったはずやけどな。
おっ、そうや、なんや観とったんかい。いや、夜ふかしばっかすんなや。ああ、いやあれは耳のせいやない。砂嵐が静まってきたせいで、飛行機の飛ぶ音が聞こえたんや、俺を乗せ忘れたな……。
せやから次のからは、砂嵐の音が違うてたはずや。ガンマイクの構え方ひとつからコツってもんがあんねん。でもな、連中は誰も気にせえへんかったんやろうな……だから今頃んなって迎えの飛行機が来たんや。そうや、ずっとそのまま忘れられたままやったんやで。しゃあないわな、それが大人の世界ってもんや。
でもな、向こうも流石に悪いと思ったんやろ。最後の撮影は、俺が前から撮りたかった場所にしてもろうたんや。それが昨日のやつや。あれはな、象さん公園の砂場の砂嵐だったんや。
おまえがまだちっちゃかった頃、よく遊びに行ったよな……。覚えとるで、いつだったか『パパに買ってもらった玩具無くしたあ!』って泣き喚いて帰ろうとせんかったな。ははははは! あれやっぱあそこに埋もれとったんやな。おまえが砂と一緒に掴んだブリキの玩具がそれや。軽いからそいつも舞い上がったんやろう。
なんや……泣くなや今んなって、ははははは! しかし偶然にも昨日とはの。ま、なんつうかの……あれは俺からの誕生日……。
こうして父が買ってくれた玩具は、数十年経った今でも私の手元に置いてある。
彼女の手元にも、私からのプレゼントはまだ置いてあるのだろうか。
(了)
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