第18話 母の入退院と近所の高齢者の死

 ショッキングな2月が過ぎて、3月初旬に老母がペースメーカー装着と大腸癌手術から5年目を迎え、造影剤を使用したCT撮影と定期検診を受ける日がやって来た。


 寒さからか、空腹からか、本人に元気がなかった。


 「今日は病院へ行くのは止そう」

 支度をしながら彼女は呟いた。


 「ええ?何を冗談言ってるの?仕事だって無理言って休ませてもらったし、これから行くにしても時間が中途半端だから交通手段が丁度いいのないよ?それより、また病院に連絡して予約取り直さなくちゃ!当日にドタキャンなんて、病院側だって迷惑だよ?タクシーだって予約してあるんだから、もうこっちに着くよ?ほら、行こうよ!」


 女は自分の都合と言いたい事だけをまくし立てると、足の不自由な老母の進まない支度を手伝いながら、促した。

 家を出てしまえば、遠い病院までタクシーが連れて行ってくれる。後は帰りを考えればいい。本人の体調など、向かう先が病院といった妙な安心感もあってか、女はさして気にも留めなかった。むしろ時間を気にして彼女を急がせた。


 靴を履こうとした頃は老母は静かになっていた。その時、女は時間に気を取られていて、普段よりも鈍い動作の不自然さに全く気付かない。

 

 「はい、お母さん、時間だから行こう」

 タクシーが既に近くまで来ているであろう事と、足の不自由さを考慮して、遅れて出るのは避けたいと思う女だった。


 無言の老母に杖を渡し、玄関をやっと出た所で、彼女がいきなりぐらぐらと揺れたかと思った途端にずるずると地面に座り込んでしまった。


 「ちょっと!どうしたの?立てる?」

 自身に捕まらせようと屈んで腕を取ろうとしても、うずくまって座り込んだままだ。これはおかしい。

 脳出血か脳梗塞を発症したか?

 女には分からない。


 「手と足、動かせる?」

 元々右足には力が入らないので、比べられないが、どうやら動く。

 「力は入る?頭痛い?」

 「頭……痛くない……けど……力はあまり……入らない……」

 この点が妙だ。老母の喋りがのろい。彼女は女と同じく普段は早口である。


 「お母さん、らりるれろ、って言ってみて?」

 「……ら、り、る……ろ」

 おかしい。普段ならば「なんで。らりるれろ、ほら、言えたでしょ!」と早口で返している。時々女は試しに言ってもらっていた。


 「お母さん、いつもと違うの、分かる?」

 「……ち、がう……?」

 「うん、違うね。分かった。救急車を呼ぶよ。いいね」

 「きゅう……きゅう……しゃ」

 「うん、そっちで病院まで連れて行って貰おう。タクシーが来るけど、それじゃ途中が心配だからね。呼ぶよ!」


 その場で救急車を呼び、待っていると迎車タクシーから電話が入った。待ち合わせ場所に時間になっても姿を現さないので、心配になっていた。

 タクシー運転手に理由を話し、後日規定料金を支払う旨を伝えて帰社してもらう。

 割と待たずに救急車は到着した。老母と女を乗せてかかりつけの病院……これから向かおうとしていた病院名を告げ、隊員が連絡を取り始めた。

 が、疑われる脳疾患の専門医が不在らしい。


 「はい、……え?U先生ですか?……はい。分かりました」


 隊員の話し声を聞いていた女は、その名前に聞き覚えがあった。確か呼吸器内科の医師である。

 「すみません。断られました」

 隊員には別に非があるわけではないが、気の毒そうに告げる。

 「近い◯病院はダメなんですか?」

 「あそこは……あまり。脳外はありませんし。あとはAかB ですね」


 不幸中の幸いか、運命か。かかりつけの病院には断られたが、県内でも脳疾患では有名なA病院に搬送された。


 幸運にも、僅か9日間で症状は軽快し、殆ど後遺症らしい後遺症も見当たらすに老母は退院した。


 その数日後、近所の施設に入所していた高齢者が亡くなったと自治会の班長から連絡が入った。

 自治会として通夜か葬儀に参列する義務がある。通例ならば、自治会員でまとまってマイクロバスに乗り合わせて葬儀場へ向かうはずが、感染症拡大により、状況を鑑みて個別で参列する事になるという。

 車を持たない女には、老母の入退院といい、今回も至極負担になるばかりの出来事の連続であった。



 季節は春に移ろうとしていた。


 マンデラエフェクトらしい出来事は、保険証が化けてしまった事件くらいでなりを潜めていた。

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