第16話 ある日突然保険証が!(前編)

 あれは2月の半ば過ぎの事件であった。


 その前に、職場環境について触れておく。

 これは大昔の話になるが、女が就職する以前は、クリニックの環境設備は古かった。医療事務は電卓で会計をし、レセプト(診療報酬明細書)作成は3名による手書きで行われていた。

 だが、女が夏休みを使って前任者から仕事を教わりながらアルバイトをする、と決められた時、クリニックにレセコンと呼ばれる医療事務用パソコンがリースされた。

 気の毒な事に、前任者は残り10ヶ月で転職をするというのに、女の為にパソコンを学び使いこなし、高校の卒業式前日に事務長となる女に全てを教えてから退職をする羽目になった。前任者も女も素人同然であった。


 女は高2の春休み中にクリニックに就職が決まり、高3の夏休みや冬休みに現職先輩事務員から指導を受けた。院長先生や院長夫人、職員から何かにつけ「今の事務員が転職したら、全部独りでやらなくてはいけないからね」と脅迫まがいの発言をされて、鉄が熱いうちに激しく打たれた。


 当時はコピー機は勿論のこと、ファクシミリも無かった。

 ファクシミリは就職して数年後、コピー機に至っては10年以上経ってから設置された。女は待ってましたと言わんばかりに保険証のコピーに務めた。


 手書きでカルテ作成を行う際に、記載ミスがあったとしても、しっかりと写しが保存されている。間違いが探しやすい。女は保険証が更新される度、社保や国保等に変更がある度に、コピーを取って最低5年は保管しておいた。


 保険証の記入を誤ると、カルテを元に医師が様々な診断書を作成するので、公的文書の訂正などと、多方面に迷惑を掛けてしまう。


 時折、記入の際に難解な字に遭遇すると、保険証を幾度も拡大コピーに継ぐコピーを取り、その上、医師や看護師にも「私の字が読みにくかった場合はこちらを参照してください」の意を込めてカルテ表紙上部に貼り付けておいて、ミスを未然に防ぐ努力をしていた。


 お分かり頂けたであろうか。保険証の確認は毎月行うのは勿論のこと、普段からカルテ表紙の記入ミス防止に細心の注意を払っていた女であったのだ。



 話は2月半ば過ぎに戻る.


 後期高齢者の保険証は、毎年8月に更新される。女がマンデラエフェクトに遭ったのは10月上旬である。既に殆どの患者の保険証はコピーして保管してあった。後は毎月確認作業を繰り返すだけであった。


 この確認作業に於いても、女は一度痛い思いをしていた。一部負担割合が更新された翌月に更に変更されていた過去があった。


 「えっ?あれっ?先月変わったばかりで、また変更があったのですね?今月と先月の負担割合が変わっておりますから、頂くお会計も変わりますから……」


 患者はとても言いづらそうに口ごもる。

 「ええ……申告漏れがあったみたいなんですよね」

 ……女は脱力した。

 追徴課税がどうのこうの、と説明を始めた患者の言葉は次第に遠のいた。


 この出来事よりも更にショッキングな事件が起きたのだ。




           続く

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