第36話「ぶら下がった命」
首の付け根辺りに深く深くめり込んだそれは、一切動く気配がない。どうやらがっちりとはまり込んでしまっているみたいで、そのせいでこちら側が引き寄せられたみたいだ。
空中で安定しない俺に気づき、オオカミは一息に食いちぎろうと額を寄せる。だが、俺は『解除』と唱え、その場でクワをやつの額に押し当てて体勢を立て直した。
その頃には、周りにベクトールやヴァイオレットはじめ数人が集まっていて、皆戦闘態勢に入っているくらいだった。どうやら俺が飛んだのに着いてきたみたいだ。
これはとてつもなく都合がいい。
ヴァイオレットが額の汗を拭いながら「やるじゃん」と一言こぼす。ベクトールも存外嬉しそうな表情だ。——ベクトールめ、こうなることを予想していやがったな。
————まあいい、とりあえず不意打ちされることは無くなったし、今はこいつにどう立ち向かうかだ。
予想通り、ブーメランの刺さっている位置は、オオカミにとっては柔らかい部分らしく、他の攻撃も入りそうな雰囲気だ。あの位置に全員の最大火力を叩き込めれば ————もしかしたら……
そして、かつての戦闘経験から、俺は一つのことを思い出す。
「ファルコと紡いだ転移戦法」————
冒険の書を軸に、転移門を展開して、そこに他の仲間を呼び込む方法。
奴の首にブーメランが刺さっており、そこに飛べるのは俺のみ。そして、そこにたどり着いた時、そこでゲートを展開——あるいは設置すれば、他の仲間たちを呼び込むことができる。そして、呼び込んだ仲間たちとともに、やつの弱点にそれぞれの最大火力を叩き込めば————
現在は、『収納』と『解除』を繰り返しながら空中をぶんぶんと飛び回っている最中だ。正直目が回る。
だが、そんな状態でもこの状況を打開できるかもしれない戦略が俺の頭にはある。
何としてでも、皆に伝えなくては————
そして、『ゲート:開放』と唱えた俺は、
「聞いてくれッ! 転移で————」
バクッ————————
「————ッ!」
————は?
大声で仲間たちに知らせようとしたその時だった。一瞬だけ意識を逸らしたそのタイミングで、俺の視界は真っ暗になった。
★ ☆ ☆
とてつもない悪臭と、真っ暗な空間。そして、粘性の高い液体が俺の体にこびりついて、どことなく生温かかった。
現在、真下に落っこちているような、そんな感覚に陥っているが、周りが暗すぎて全く現状が読めなかった。
その時、強い酸性の臭いが鼻につき————プシュー、プシューと言う音と、ぐつぐつと煮えたような音、それからチカッ、チカッと一瞬ずつ光る液体状のそこには、無数の骨が浮いているのが分かった。
ほんの一瞬だけつま先が触れ、靴の先がシュッと溶けるような音が耳に入った。俺は状況を瞬時に判断し、咄嗟に『収納!!』と叫んでいた。
ついさっきまで連呼していた言葉でもあり、俺が浮き上がるための言葉だと本能的に思い込んでしまっていたからだろう。本来ならば何の意味も持たない言葉だが、今回は奇跡的に、その言葉によって体を浮かせることに成功した。
そしてそのまま、それは壁へと張り付き、俺はそれにつかまることで事なきを得る。
「どうやら……飲み込まれちまったみたいだな」
つま先の靴は溶け、中から指が顔を覗かせている。あのまま突っ込んでいたら俺は今頃どうなっていただろうか。
その時、冒険の書から声が聞こえ始めた。
「————おいクロム、貴様平気なのか!?」
それは、かつて試験会場で聞いた感覚と全く同じもの————本越しのヴァイオレットの声だった。
「ええ、なんとか……」
弱腰に語る俺に、ヴァイオレットは一安心のようだ。
「貴様が飲み込まれた直後、貴様の安否を魔導書で確認したらピンピンしていたからな」
声からして、おそらく安心を通り越して若干バカにされている気がした。——と言うか、やはり俺は飲み込まれたらしい。
「——それは良しとして、現在の状況を説明してくれないか?」
そして、ヴァイオレットはそのまま続けて聞く。
現状、俺たちに必要なのは情報だ。なので、ここで情報共有をするのは何よりも大切だ。
俺は辺りを見渡しながら鮮明に詳細を伝える。
「——おそらくここはやつの胃の中……足元には胃酸が充満していて————、他の生き物の骨が浮いている感じから、おそらく触れたらアウトっぽいです」
「——なら、貴様は今どうしているんだ?」
当然の疑問だな。
触れたらアウトな床が広がっているのに、俺は今何をしているのか。俺でもそっちの立場なら気になる。
俺はあっさりと答えた。
「『収納』でやつの体内に張り付いていますよ。本当、俺のブーメランが刺さっててよかったです」
「————ッ!」
ヴァイオレットの声の様子が急に変化した。
何かあったのか?
それに、このオオカミも咆哮の一つくらいしてもいいだろうに、その気配すらないし————一体何があるってんだ?
「…………おい、クロム・ファーマメント……、落ち着いて聞けよ————」
「————?」
急にかしこまってどうしたのだろうか。
「……貴様、もうじき落ちるぞ」
その時、ヴァイオレットが訳の分からないことを口走った。
★ ★ ☆
————は?
何を言っているんだこいつは。何を根拠にそんな——俺が落ちるだと? いや、この期に及んで冗談とは、実につまらない——
「こっちでゲートを展開しておく、だから貴様はさっさと戻ってこい」
——いやいや、確かにここから助かる手段としては確実だしありがたいけども。一体なぜ俺が落ちるってんだ?
「——戻りますけど、なんでそんなに焦ってるんですか? それに俺が落ちるってなんで————」
「首筋に刺さった貴様のブーメランが、めり込んでいっているんだ。貴様の方に。そのおかげでやつは脊椎に損傷を負い、体に麻痺が現れているみたいだが——」
な、なんだと————?
ブーメランがめり込んでいる?
そうか、こっちから引っ張ってるからあっちからこっちに来ようとして……でも、さっきはびくともしなかったのになぜだ?
「どうしてそんな————」
「『収納』は距離が近いほど力が増す。磁石のようなものだ。何かにさえぎられていれば、弱い方がひきつけられる。『解除』と唱えるまで、永遠にな」
確かに、言われてみれば——ギルドで試したとき、石は距離が近づくにつれて速さが増したな。あれはそう言うことだったのか。
てことは、今ブーメランはこいつの体をグイグイと進行中ってことだよな。そしてそれがここに到達した時、俺は胃酸の中に真っ逆さま————
そんなの絶対に嫌だ。
俺は言われた通り、『転移:ヴァイオレット』と唱えた。
————しかし、
「エラー。ゲートヲトジテクダサイ」
冒険の書が喋り始めた。
そうか、転移系は併用できないんだっけ。
俺はすぐに、さっき開いたゲートを閉じようとした————
「ちょっと待て」
と、そこへ割って入るヴァイオレット。まだ何かあると言うのだろうか。
「貴様……ゲートを開放していたのか?」
「——はい、首の上に全員を転移させて、そこを一斉攻撃しようと思いまして……」
「…………」
一瞬の沈黙が走り、少し間をおいてヴァイオレットが口を開いた。
「……貴様がこちらへ転移できる可能性は極めて低くなった」
「————ッ!」
再び沈黙が走った。
転移系は乱発できない。それは、瞬間移動と言う能力の性質上、とても強力な故、冒険の書に蓄えられた魔力を極端に消費する。それは、ゲートを展開するだけでも同じことで、仮にゲートを閉じた後に他者のもとへ飛ぼうとしても、ガス欠を起こす可能性が高かった。
つまり、現状、俺がヴァイオレットのもとに飛ぼうとすれば、まず間違いなく冒険の書が使えなくなり、それと同時に『収納』の効果も消えて俺は真っ逆さまってわけだ。
極論、俺はこの巣窟から抜け出すことは不可能と言うこと。
詰みだ。詰み。
あとは時間を待つだけ。待ってブーメランが到達して、その後俺は胃酸の中へ——。
ほら、ヴァイオレットだってもう何も言わなくなった。俺が助かる方法なんてもうない。ならせめてさ、ブーメランを引き付けて、やつの体内めちゃくちゃにしたから散りたいってもんだよな。
お互い何も口を開かない空気の中、俺が口を開かないことに気を遣ったのか、
「——おい、クロム……? クロムッ————!!!!」
と、ヴァイオレットの激しめな声が聞こえた。
俺はその声を耳に、うっすらと笑顔を浮かべながら、
『通話:解除』
と唱えた。
★ ★ ★
思えば短い人生だった。
————と、前にも思ったことがあったな。ここ最近窮地に陥ることが多かったけど、なんだかんだで持ちこたえられる程度の内容だった。だが、今回はそんな簡単に済ませられる内容とも思えない。
いつものように、お守りの不思議な力を頼って、それを片手に可能性を掴もうと猛進するが、今俺が左手に握りしめたそれからは、今回は一切そのような力は感じられない。
むしろ感じられたとしても、このお守りが俺に翼を授けてくれるとも思わない。
だからこそ、俺は今、オオカミの腹の中で諦めつつあった。
————変だな、覚悟できてるはずなのに、涙があふれてきたや。
このままやつの体内をブーメランでえぐりきって俺は死ぬ。そう思って、覚悟を決めていたのに、なぜ涙があふれてくるのだろう。
死にたくないのかな。生きたいのかな。この俺に、何もかもを救うことすらもできない俺に、そんなことを願う資格があるのかな。
だめだ、悪い視界がもっと悪くなる。それに手が震えて、しがみついた本から離れてしまいそうだ。
俺が死んだら本の力も消え、ブーメランを引き付けることもできなくなる。だから、まだ死ぬことはできない。ほんの数分だけ、ほんの数分だけこらえるんだ————
『自分のことならまだしも、他人のことであれだけ必死になれるってすごいよ』
なんだこの声は…………ああ、ファルコか。
いや、俺は必死だったんじゃない。あれは自分自身を慰めるための行動だったんだ。自分の弱さを隠すために、かつてのトラウマを見て見ぬふりするために俺は————
『そんなの関係ない。助かるかもしれないのに見捨てる方がおかしいよ』
違うんだよブリトニー。
俺は弱いから、助かるかもしれないのに助けないとかそんなこと言える立場じゃないんだ。むしろ俺が助けられる立場で、誰かを助けてやろうだなんてどだいばかげた話だったんだよ。
抱えきれるほどの技量もないのに、妹を救いたいって理由をぶら下げて、何ならそれを放置してまで他の人を助けようと動いて——でもそれは全部、自分自身を慰めるための行いだったんだよ! あの時何もできなかった俺を慰めるための、たったそれだけの行いだったんだよ……。
『
お前は相変わらずだな。——でも安心したよ。そう言う言葉の方が今の俺にとっては————
『私の分まで頑張ってきてね』
「————ッ!」
その時、その言葉を言った時の彼女の表情が鮮明に思い出され、それと同時にかつて言われてきたあらゆる言葉の数々、それから出会ってきた人たち全ての表情が鮮明に思い返された。
瞬間、冒険の書がふわりと宙を舞う。上を見上げると、何かが光に包まれながら消えていくのが見えた。どうやらブーメランが到達したみたいだ。
ああ、どうやら俺はこのまま終わるらしい。
最後に見た彼女の顔、そしてブリトニーのことが気がかりだけど————俺はそのまま自由落下した。
「————
「————ッ!」
ふと、意識が戻る————
誰かの腕の中に、
「皆を守ると……そう言ったはずだ————」
この身を抱かれながら————
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