第19話 小百合 おもてなしを学ぶ

【お持てなし】


-1-


 この日橘湾荘に一週間振りの予約客があっていた。


 全体会議が終わると各々が自分の持ち場に分かれていった。


 そんな彼らに一斉メールが届いた。

 差出人は小百合だった。


 「今日は一週間ぶりにお客様がみえます。これまではお客さまが来て当たり前と思っていましたが、それが当たり前ではなく有り難いことだと、この一週間で骨身にしみました。


 みなさんも同じ気持ちだと思います。

 さあ、たった一組お客様ですが、橘湾荘総掛かりでおもてないをいたしましょう。


 この一組のお客様を喜んでいただけないのなら明日の橘湾荘はありません。


 このお客様を橘湾荘最後のお客様と思って全身全霊をかけてお世話願います。


 女将平原小百合」

と書かれていた。


 全体会では心が動かなかった従業員たちであったが、そのメールは従業員たちの心に染み込んでいった。


 一週間ぶりの宿泊客は、50歳前後夫婦であった。予約は千葉県に住む田中勝隆、聡美となっていた。


予約表を見た千代が何か思案顔になった。


 それに気付いた小百合が


 「千代さん、どうかしたんですか?」


と尋ねたが千代は


 「いえ何でもありません」


と答えて事務室を出て従業員控え室の方に出て行った。


 『どうしんたんだろう』と小百合は、その後ろ姿を見送った。


 午後4時すぎ、福岡ナンバーのレンタカーが旅館の駐車場に入ってきた。


 それを気付き、小百合以下、従業員は整列して


 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」と田中夫妻を出迎えた。


 夫妻を見た千代の顔に納得したような表情になったのを小百合は見逃さなかった。


 小百合は受付をしながら


 「お食事は何時にご準備させていただきましょうか」


と田中夫妻に尋ねた。


 「そうだね。ゆっくり塩湯に入ってからがいいから、午後6時にお願いしようかな」


と夫が答えた。


 「かしこまりました。料理は別室にご用意して準備ができましたら、予備に参りますのでそれまでお部屋でおくつろぎください」


と小百合は言い、仲居の菜月が夫婦を部屋に案内するために先導して歩き出した。


 午後5時55分、夫婦は風呂に入り浴衣に着替えて部屋でくつろいでいた。


 そこへ内線電話がなった。


 妻の聡美が電話に出た。


 「フロントでございます。電話で失礼します。お食事の準備ができました。係がお部屋の外に待機しておりますので、その案内でお食事会場においでください」


とフロントの小百合からの電話であった。


 夫婦が部屋の外に出ると仲居の千代が立っていた。


 「こちらへどうぞ」


 千代は普賢の間の次の次にある妙見の間に夫婦を案内した。


 夫婦が部屋に入ると大きな座卓の上に立派な刺身の大皿が準備されていた。


 「これは凄い」と驚く夫に妻の聡美が


 「お父さん、あれ……」


と部屋の奥を指さした。


 言われて夫が奥を見ると、障子戸が閉められた上に


 「田中ご夫妻、銀婚式おめでとうございます」と横断幕が掲げられていた。


 「え? えぇ……」


 思いがけない趣向に驚く田中夫妻だった。


 「どうして、これを……」


 夫が千代に尋ねた。


 「田中様、お久しぶりでございます。25年前の新婚旅行の際に担当させていただいた仲居の千代と申します」と千代が座礼をした。


 「そうだんたんですか。あの時の仲居さんですか」


 座卓に腰を下ろしながら夫が言った。


 「でも、よく私たちのことを覚えていてくださいましたね」



 夫に続いて聡美も腰を下ろしながら言った。


 「あの頃は私もこの旅館に働き出したばかりで毎日、緊張していたころでしたので当時のお客様のことはよく覚えています」


と千代が答え


 「本日は、お二人の銀婚式であることを女将に伝えたところ、女将が板場に指示してお祝いの鶴亀をご準備させていただきました。どうぞ、ご賞味ください」と続けた。


 言われて勝隆が大皿を見ると、そこには薄造り立派な鶴と亀の絵が描かれていた。


 「いやぁ…… これは綺麗な鶴亀だ…… 母さん、凄いね」と聡美に言った。


 「本当、これお魚は何ですか?」と聡美が千代に尋ねた。


 当地、小浜の温泉を使って養殖しているトラフグの刺身です。


 「トラフグ……? 小浜でトラフグを養殖しているんですか……」夫婦は驚いたようにいいながら絵画のように見事なその図柄に驚いていた。


 「これを作った板さんも見事な腕前だね」と勝隆が感心したように言いながらスマホを取り出し何枚も写真を撮っていた。


 それを見て千代が「よろしければご一緒に撮りましょうか?」と言ってスマホを受け取り夫婦と一緒に横断幕と大皿の絵が入るようにして写真を撮った。 写真を撮りおわると千代は勝隆にスマホを返して「どうぞ、薬味を入れてお召し上がりください……」と夫婦に言った。


 先に夫が嬉しそうに刺身に箸を運び、数枚一緒につかんで、それを口に入れた。


 「美味しい……。まさか、小浜で高級魚のトラフグの刺身を食べられるとは思わなかった…… 最高だね」と言うと、夫婦は競うように刺身を食していった。


 「でも、せっかくの板さんの芸術作品を崩すのに気が引けますね……」と聡美が言うと千代は「いえ、いえ。美味しく全部お召し上がりいただくことが板前にとっての一番の喜びですから…………」と返した。


 この日から小百合は宣言通り、仲居の仕事から料理場の仕事まで、寸暇を惜しんで自らこなして行った。


 午後9時、それらの仕事が一息ついたところで小百合は事務所に戻った。


 そこには仲居頭の千代がいた。


 「女将、女将が仲居の仕事や板場の仕事まで手伝っていたのでは身体が持ちませんよ。無理はしないでください」


と千代が心配げに行った。


 「いやぁ、今日一日しかやっていなのに、みんなの仕事がどんなに大変かの断片くらいはわかりました」


 小百合は戯けたように言い


 「それでも、従業員のみなさんと少しは話す機会ができて良かったと思います。まだ、警戒はされていますけどね」と言った。


 それに対し千代は


 「でも、女将には女将の大事な仕事があるんですから……」と言った。


 「まぁ、私はまだ若いですから頑張れるだけ頑張ってみます。それより千代さん、今日のお客様が銀婚式ってよく覚えていましたねぇ」


と小百合は千代の記憶力に感心したように言った。


 すると千代は手にした湯飲みでお茶を飲みながら


 「私が仲居になったころは失敗ばかりして私を支配人など古参の従業員が反対するなか雇ってくれた女将のお母さん、慶子ちゃんに顔向けができないっていつも悩んでいたんです。


 そのころお泊まりになったのが田中様です。 田中様は、海外に計画していた新婚旅行がお家庭の都合でダメになり国内の短期間での新婚旅行をすることになり小浜に来た、とお話になっていたので記憶に残っているお客様のお一組です。


 前女将の厚意に応えるためにも自分でも何か旅館のお役に立てないか、と思っていた私は自分が担当したお客様には四季折々にご挨拶の葉書を出すようにしたんです。


 もちろん田中様にもお葉書を出しました。 数年間はお葉書を書き続けていたのでお名前に記憶が残っていたんです。


 その後、転居されたようで葉書が帰って来てからは出していないんですが、今日、予約表のお名前を見て、どこかで見たお名前だなと思ってロッカーに入れている自作のお客様ノートを調べたら25年前のあのお客様と同じ名前だとわかり到着時のお顔を見て間違いないと確信して女将にサービスをお願いしたんです」


と語った。


 「いい話ですね」


 突然の男の声に驚いて小百合が事務所の出入口ののれんの方を見ると斗司登が立っていた。


 千代の話に聞き入り、いつの間にか来ていた斗司登に小百合は気付いていなかったのだった。


 「その葉書は今でも書いてらっしゃるんですか?」


と小百合が尋ねると千代は


 「前の支配人の時に、仲居が葉書を出すのはおかしい事務方で旅館のフェアーの案内葉書を出すから個人的な葉書は出すな、と止めさせられました」と言った。


 その話を聞いて小百合は何かを思い出したように事務所端っこに置かれた菓子箱大の箱をいくつか開けた。


 三つ目の箱を開けた時


 「あっ、これだ」


と言って、中から宛先不明で帰って来ていた葉書を取り出した。


 裏面はカラー刷りされた秋の料理コースの案内で、表面は住所と宛名がパソコン印字されていた。


 「味気なく、新聞の折り込みチラシと同じだね。これをもらっても橘湾荘に行ってみようかと、人の心を動かすことはできないね」と小百合が言った。


 「こんな姿勢がお客様の足を遠のかせる遠因なんだろうね」と斗司登も言うのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る