第8話 小百合 新板長の腕前を試す

【小百合 新板長の腕前を試す】


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 それからどれくらい時間が経ったのだろうか、小百合の脳裏に遠くから館内電話が鳴る音が聞こえて来た。


 その音は段々近づいてきて、小百合は内線電話だとハッと目が覚め電話を取ると同時に枕元の時計を見たら6時半であった。


 「普賢の間でお食事が準備できています」と仲居頭の千代が言った。


 千代は母の同級生で長年、この旅館で働いてくれていた。


 子供ころから、よく自分とも遊んでくれていた。


 どこか遠くに別れた夫と子供が住んでいるという話しを仲居達が噂話でしていたのを聞いたことがあるが千代からは何も聞いたことはなかった。


離婚して小浜に帰ってからはずっとこの旅館で働いてくれている。


 今日は、誰も宿泊客はいない。


 普賢の間と言えばこの旅館で一番、良い部屋で、この旅館で唯一、温泉を引いた内風呂がある部屋だった。


 絶叫したまま、いつの間にか寝てしまったのだったが今は何も考えたくない、と千代から指示された普賢の間に小百合は入って行った。


 出入口の引き戸を開け靴脱ぎ場の奥の障子戸も開けて部屋に入ると大きな座卓の上に刺身の薄造り大皿が載っていた。


 小百合は障子戸の側に千代が凜として正座しているのに気づき「何ですか、これ?」と言った。


 「今日、堺板長が辞めたという話しを聞きつけた板前が、橘湾荘の板長になりたいと売り込んで来ましたので女将さんに腕を見ていただこうと思い、どうせならこの旅館、一番の部屋で、と思い立っての趣向です」


と千代が言った。


 「こんな潰れかかった旅館の板長になりたいという板前さんがいるんですか……ひょっとしたら私がこの部屋で食事をする最後のお客さんかもしれないですね」


と小百合が自嘲気味に応えた。


 「お客様は、お疲れのようですね。今はお仕事のことを全部忘れて、この温泉旅館のお料理をゆっくりとお楽しみください」


と言われ小百合は、この趣向に乗っかろうという気持ちになっていた。


 小百合はおしぼりで手を拭き、大皿の刺身を見た。


 大皿に薄造りの刺身で鶴が描かれていた。

 「綺麗…… カワハギ?」


刺身を見て小百合は呟いた。

 そして、その刺身を一切れつまんで口に運んだ。


 魚の歯ごたえから感じられ、魚自体の味が口中に広がった。


 「これ、美味しい」


思わず小百合の口から感嘆の言葉が飛び出した。


 『えっ? これってフグじゃない……』と思った小百合は「千代さんも食べて見て」言った。


 言われた千代も素直に箸を取り刺身を頬張ると「やっぱりフグは本当に味も深く、美味しいわね」と言った。


 小百合は大皿のフグ刺しをマジマジと見た。


 刺身を食べた千代は立ち上がって下がると次の料理を運んできた。


 小百合の前に差し出された皿には唐揚げが載っていた。


 目の前の立派なフグ刺しの後に鳥の唐揚げは、板前のセンスに疑問を感じる小百合だった。


 「塩味がついていますので、お好みでレモンを垂らしてお召し上がりください」と千代が言った。


 小百合は言われたとおり唐揚げにレモンを垂らした。


 その時初めて小百合は唐揚げが2種類あることに気付いた。


 まず右側に盛られた唐揚げを口に運んだ。


 『これは? 鳥じゃない……何?』と思いながら唐揚げを噛んだ。


 「これ…… フグの唐揚げですか?」


 「そうです……もう一方の方はわかりますか?」


 千代に言われて小百合は左側の唐揚げを口にした。


 フグより歯ごたえが強かったが鳥以上に味が濃かった。


 「何だろう?」


小百合は今まで食べた物の記憶の引き出しを開けまくって考えた。


 「ひょっとして……これってあれですか」


 「わかりましたか……」


 「スッポンですか?」


 「そうです。スッポンの唐揚げです」  


 「珍しいですけど美味しい……これ」小百合は思いのまま言った。


 それからは見事な鯛の綺麗な姿作りが出てまだ鯛が生きているようであった。


 それ自体は見慣れた鯛の姿作りだったが、それを上回る何かを感じるものがあった。


 さらには鯛の吸い物、鯛のあら煮、鯛の塩竃焼き、鯛飯と運ばれてきた。


 鯛づくしのコースは、そのいずれもが美味で小百合の落ち込んだ心を沸き立たせるものだった。


 鯛の塩竃焼きは東京にいるときも食べたことがあった。


鯛は身が固くて食べにくいところがあったが、この鯛は身が柔らかくて箸で簡単に身をほぐして食べることができた。


 「千代さん。こんな腕を持った板さんがうちで働いてくれるって言っているんですか?」


小百合が聞いた。


 「直接、聞いてみてください」


 千代はそう言うと館内電話を取ると板場に電話を入れた。


 『いったい、どんな板さんだろう』


 小百合はいろんな人物像を想像した。


 つい1時間前までは絶望の淵にいた小百合だったが、この料理を食べて光明が見えたように感じていた。


 『こんな料理をお客様に提供できたら時間はかかるかもしれないが必ずお客様を呼び戻すことは可能だ』と。


 しかしすぐに


『こんな出来すぎた話しが現実にあるんだろうか。板長が辞めてお先真っ暗になったというのに板長捜しをする必要もなくタイミングよく板場で雇って欲しいという板前が現れるなんて。夢でも見ているんだろうか』


 そんなことを考えている小百合の耳に「失礼します」という声が障子戸の外から聞こえた。


 「どうぞ、入ってください」


千代が障子の外に向かって言った。


 「はい」という返事とともに戸が開き入ってきた人物を見て小百合は「えっ」と絶句した。


 障子の前に正座し小百合の方を見る斗司登がいた。


「団長……?」


「料理はいかがでしたか。お口に合いましたか」斗司登が言った。


「はい。とても美味しかったです」と小百合は応えた。


「それじゃ、板長として雇っていただくという件は、合格ということでよろしいでしょうか」


斗司登は小百合の顔をまっすぐと見て言った。


「本当によろしいですか。これだけの腕があれば、どこでも良いお給料で働けるんじゃないんですか」と小百合が聞き返した。


 「私は、この旅館の板長をしたいんです。意地っ張りで負けず嫌いで、そのくせ陰でいつも一人で泣いてるような女将さんの下で働きたいんです」


と斗司登が言った。


 「明日にでも廃業するかもしれないし、今月のお給料も出せるかもわからないですよ」


という小百合の目から涙が零れていた。


 二人のやりとりを側で千代が、障子戸の外では斗司登の弟弟子、保、清が聞いていた。


 「廃業なんてさせません。


まずは小浜温泉一の旅館にし、次は長崎県一の有名旅館にし、そして最後は日本有数の有名旅館にして見せます。


その際に、ここ数ヶ月分の給料に利息をタップリ上乗せして支払っていただく腹づもりですので覚悟しておいてください」


そんな斗司登の言葉を聞きながら小百合の目からは止めどなく涙が流れ続いた。 


 小百合はその涙を拭こうともせずに座布団の上から畳に移って


「よろしくお願いします。どうぞ、この旅館と私を助けてください」と言って深々と頭を下げたのだった。 


 それを見聞きしていた千代とヤスキヨの目からも涙が止めどなく流れていた。


 その夜、普賢の間で斗司登と小百合は遅くまで胸襟を開いて今後のことを話し合った。


 この夜の二人での話し合いが橘湾荘の反転攻勢へののろしとなるのだった。

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