第3話 小百合 新女将になることを決意する

【老舗旅館の一人娘 平原小百合 帰郷】


-5-


 30分後、二人は千々石の海岸にいた。


 何もない田舎の深夜、月の光に波が照らされ海上にはイカ釣りだろうか漁り火を焚いた漁船が数隻見えた。


 旅館から少し離れた町役場の駐車場で二人は待ち合わせて斗司登の車で20分くらい走ったこの浜辺に来たが、小百合は車に乗ってから一言も口をきかなかった。


 斗司登も何も話しかけてくることなく無言のまま二人はここに来ていた。


 「団長って何も聞かないのね。普通ならどうした、とか聞くもんじゃない……」

と小百合が口火を切った。


 「委員長が話したいって思わないのに、俺から聞くことはできないよ」と斗司登が応えた。


 「そうね……」と言ったあと、小百合は大きく呼吸すると意を決したように「旅館の内情聞いてる?」と聞いた。


 「何…… ? 負債のこと、部長の不正のこと」


と斗司登が聞き返した。


 「板場の人たちも知っているのね」小百合は呟くように言った。


 「みんな、客が減ったことは肌で感じているし、この先自分たちの仕事がどうなるか心配で各々、情報収集しいろんな噂話をしているよ。


どれが本当で、どれが噂だけなのかはわからないけどね」


 「具体的にどんな話が出ているの……」小百合は自分が千代から聞いたことが情報となって従業員広まることを恐れて言葉を選んで情報を集めようとしていた。


 「委員長!」語気を強めた斗司登の言葉に小百合はびくっとした。


 「何よ。大きな声出して……」

ムッとしたように小百合が言い返す。斗司登は小百合の目を見て


「委員長に今、大事なのは信用できる人と用心すべき人とを正確に判断して、自分の決断の判断材料にすることだ」と言った。


 その言葉は小百合の心にスッと入り込んでいった。


 「団長はどっち?」

と言う小百合の言葉に、


 「俺は、中学校時代に委員長に救われた。もし、あの時代に委員長に会ったいなければ俺はろくな人間にはなっていないと思っている。


だから、俺は生涯、委員長のためになる男でいたいと思って生きてきた」と、斗司登は応えた。


小百合は、そんな斗司登の凜とした言葉に身震いするような、感動を覚えるのだった。


 中学校の同級生、同じ部活で感動を分かち合った中といっても、もう10年前の話である。


 中学校卒業後、顔を合わせることはあったかもしれないが、深く接触したことはなかった。


斗司登がどんな人生をこれまで生きてきたか、まったくわからない。


 同窓生という親近感はあったが、この10年別の人生を歩いてきた小百合としては、無条件でその同級生を信じるほどの純粋さは今の自分にはないと思っている。


 だから千代の話も、全部が全部信用しているわけではなかった。


 そんな小百合にとってさっきの斗司登の言葉はよく言えば大人になった、悪く言えば世間ずれした自分のことが恥ずかしく感じられる思いであった。


 小百合は、この男を信じてみようと、と素直に思い千代から聞いた話を包み隠さず斗司登に話した。


 すると、斗司登は「俺が聞いた話、調べたことも、そのとおりだ」と断言した。


 小百合は斗司登が言った「調べた」という言葉が気になり「調べたって?」と聞き返した。


 「委員長や委員長の家族にとって良くないことが起きて欲しくないから、俺のつたない人脈を使って情報収集をしたのさ」


と応えて斗司登が微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、小百合は全国大会の会場で金賞を受賞した時に斗司登が見せた笑顔をふと思い出し、自分も笑顔になっているのに気付いた。


 その時、斗司登がさりげなく言った「つたない人脈」が、このあと小百合を助けることになるなんて、その時の小百合に知るよしもなかった。


 この時の千々石海岸での会話を切っ掛けに小百合は数時間前まで考えもしなかった女将を継ぐという決意を固めたのだった。


 それからはさらに慌ただしく日々を小百合は過ごしていく。


 忌引き休暇プラス有給休暇三日間を終えて東京に戻った小百合は銀行に退職願を提出した。


そして、その夜に婚約者山口大悟と会って結婚を3年待って欲しいと申し出た。


 3年で旅館を建て直す。

旅館を建て直したら、しかるべく信頼できる人に旅館を任せて大悟の妻となるために東京に帰ってくる、と大悟に誓った。


 大悟は小百合の申し出に


「そうするって決めたんだろう。君が決めたのなら僕が何を言っても気持ちは変わらないんだろう」


と大悟が応えた。

 小百合は大悟に「ごめん。自分勝手で」と詫びた。


 「仕方ないよ。惚れた僕の方が弱いんだから」と大悟が微笑んだ。


 大悟は大学の応援団部での同級生だった。


 4年時には大悟が応援団長で小百合はチアー部のキャプテンだった。


 入部時は、ひ弱でとても厳しい応援団では続かないだろうと見えた大悟が進級するごとにたくましさを身につけていき、最上級生になった時は団長を任されるまでに成長していた。


 小百合には1年生の末に交際して欲しい、と申し込まれたが体よく団長になったら考えてみる、とごまかした。


 それから、幾多の交際申し込みがあり、素敵だなと思う男性もいたが、大悟に団長になったら考えてみる、と約束手形を切った手前別の男性と付き合うのは卑怯という小百合の哲学から誰とも交際はしなかった。


 3年時、4年生が引退し時期、団長の発表が行われた。


大悟は当然のこと、小百合もなぜか緊張していたのを覚えている。


 4年生の団長の口から次期団長として大悟の名前が呼ばれた時は、なぜか小百合も感動していた。


 数日後、小百合は大悟と食事に行き、その場で再度、交際を申し込まれて「はい」と返事をした。


 その夜、小百合は初めて男に抱かれたのだった。


大学卒業後、大悟は一流総合商社に小百合は都市銀行に就職した。


 ホテルでの食事が終わり、大悟が「部屋を取っているから……」と言って歩き出した。


 小百合は、それに追随した。


 翌日から三日間、小百合は大忙しで引き継ぎや関係先への挨拶回りを済ませて慌ただしく7年間生活した東京に別れを告げたのだった。

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