第弐拾参話 匂


 「匂」という漢字を見かけると、何年も前に新聞で読んだとある投書を思い出す。


〈ラベンダー畑が見頃というニュースが放送されていたが、取材記者が「良いにおいがします」「ラベンダーのにおいでいっぱいですね」など、におい、においと連呼していた。どうして〝香り〟と言えないのか。食事時に気分が悪くなった。〉

 

 意訳するとこんな内容だったと記憶する。

 いや、〝匂い〟ってそんなにイメージ悪いの、おかーあさんっていいにおいー♪、とか歌ってなかったっけ、古典のザ・ネトリオトコ「匂宮におうのみや」の立場は──と、当時大変戸惑った。

 「匂宮」は、源氏物語に登場する架空のキャラクターであり、主人公・光源氏の孫で、当然ながら大変な色男だ。ちなみに私の源氏物語に関する知識の主成分は『あさきゆめみし』によるものであり、活字ではない。あ、あとNHK教育で放送されていた『まんがで読む古典』とか。

 『匂宮』とは、弟分の薫(生まれつきいい香りがするらしい)に対応心を燃やして、着物に香を焚きしめていたことから付けられたニックネームだそうな。

 ああ、うん、じゃあ、やっぱり薫り(香り)のが格上・・・・・・かどうかは個人の感想とゆーか、性癖によるものだろう。

 一応、『使い方のわかる類語例解辞典(小学館)』をひいてみたところ、

 「かおる」はよいにおいのすること。

 「におい」は「においばかりの美しさ」のように非常に美しい様子を表したり、「この事件はどうもにおう」のように、何となく怪しい気配がする意にも用いられる。またよいにおいは「匂い」、いやなにおいは「臭う」と書き分けられることがある──とあった。

 投書の御仁はつまり「臭い」とあててしまったのだろう。間違いではない。けれど、いやなほうの意味にばかりスポットが当てられてしまい、個人的には納得しかねたのだった。

 

 *

 

 さて、だらだらと書き綴ったが、ホットくクックだ。

 一月三連休最終の成人の日。いよいよ正月気分も薄れ、日常へと還ろうとする時。月曜日で放映されないというのに、私は朝からすっかり〝サザエさんシンドローム〟に冒されていた。

 休日には違いないのに、平日以上の重苦しさ。

 これはいかん──私は寝間着のまま台所に立った。テンションを上げるもの。甘やかしてくれるもの。多幸感に包まれるもの。

 

 ──そう、お菓子。焼き菓子を作ろう。


 メニュー集をめくり、狙いを定める。バター、薄力粉、ベーキングパウダー、林檎・・・・・・材料は全部ある。

 

 ──金色の焼き菓子、林檎のケーキ!

 

  手順はシンプル、内鍋に切り込みを入れたクッキングシートを敷き、バター、砂糖を入れ、その上にスライスしたりんごを並べ、生地を流し込む。

 しかし私は悩んだ。

 お菓子は化学反応、レシピどおりに作るのが成功への一本道。うん、そう、それはわかっている。わかっちゃいるのだけれど。


 ・・・・・・バター総量百二十グラム、入れる?


 バターは美味しい。

 バターは正義。

 小説『BUTTER』は面白かった。


 が、一気に百二十グラムの消費は躊躇われる。

 特別な日のお菓子とか、おもたせとかならともかく、寝間着(パジャマとも言えないパーカーとズボン、もちろん上下バラバラ)のまま錬成する適当菓子にバター百二十グラムはちょっと。バターはお高い、それにカロリー・コレステロールも、いやそもそもテンション上げるために錬成するんでしょ、臆病者に菓子を作る資格なし、でも、やっぱ、どうなの、どうしよう・・・・・・


 結局、生地に入れるバターはオリーブ油で代用した。臆病者のそしりは甘んじて受け入れる。

 オリーブ油100g、砂糖80gを白っぽくなるまで混ぜ、さらに卵二個を加えて混ぜる。そこに薄力粉100g、ベーキングパウダー小さじ半分をさっくりまぜ(レシピでは粉をふるいにかけよとあったが断固無視)、できあがった生地をクッキングシートに敷き詰めたりんごの上に流し込む。

 そして手動調理〈ケーキを焼く〉にて五十分ピ。

 その後、調理器具を洗い、ようよう洗面所に向かった。身支度を整え、洗濯機を回して、珈琲を煎れた頃に、ケーキが焼き上がるという寸法だ。

 もちろん、その間中、ケーキの焼ける良い匂いが漂って・・・・・・

 

 ──こない。


 あ、あれ?

 焼き上がり五分前になっても、焼き菓子特有の幸福の匂いがない。

 こちらの不安をよそに、ホットクックはご機嫌にできあがりを告げる。


 蓋を開ければ、さすがに林檎の香りが漂う。ホットクックは密閉性が高いのか、いやでもカレーの時は結構匂うのだけど。

 おそるおそる、爪楊枝をさして焼け具合を確かめてからケーキを取り出し、大皿にひっくり返してクッキングペーパーを外せば、黄金原に林檎カラメルクレーターの月面さながら。入れ忘れていたシナモンをふりかければ、なんとも幸せな心地となった。

 さて、お味は。生地はしっとり、甘さはほんのり、林檎はしゃっきり。バターをけちっているのでコクは足りないかもしれないが、なかなかの出来映えだ。

 寝間着のままの錬成しては、やるではないか。私は悦に入った。

 

 でも、もうちょっと工夫すればさらに上手くできるのではないかな~と思ったのが、週が明けた水曜。私は探究心を抑えきれず平日の夜に焼き菓子を錬成し始めた。もちろん、明日も仕事はある。

 林檎の量を倍に増やして、くし切りスライスを敷き詰める。手順はほとんど同じだが、そこで一手間加えた。生地を流し込む前に、ホットクック内で林檎と砂糖を煮て、カラメル色をつける。そう、タルトタタン風ケーキを錬成しようと目論んだのだった。

 昔、フライパンで何度かチャレンジしたのだが、焦げ付いたり、焼きが足りなかったりと失敗を繰り返していた。つまりはリベンジである(リベンジって時代を感じる響きだ)。

 煮具合を確かめるため、何度も蓋の開け閉めをしたので、夜更けの台所に甘い匂いが充満する。

 焼き上がって、クッキングペーパーを外せば、完璧なカラメル色、見事なレッドムーン、見目麗しいルビー色!

 なのだが、どうも林檎と一緒に入れたレモン果汁が効き過ぎたのか、あと深夜のお菓子作りの罪悪感から砂糖をケチったせいなのか、甘味が足りなかった(その時の気分で分量を変える、お菓子作りで一番やってはいけないことをしている)。そして煮込んだので、林檎のしゃっきり感は失われている。また、林檎を煮ている間、生地を寝かしてしまったので、やや重くなった感じがした(油脂が抱え込んだ気泡が逃げたか)。


 そうしてその週の土曜、私は果敢にも三度目の挑戦をした。さすがに林檎は飽きたので、パイナップル缶を使い、パイナップルアップサイドダウンケーキとする。今回は先にレンジでカラメルソースを作り、パイナップルを敷き詰めた底に流し込んだ。

 出来映えはといえば、内鍋の形が丸みを帯びているので、形はあまり良くないが、味は一番好みだむた。缶詰の汁を生地に入れたのが功を奏したか。カラメルはもう少し苦みを出してもいいだろう。形を整えるために、次は生地を1.5倍にするか・・・・・・

 

 まだまだ理想の黄金菓子への道のりは遠い。


 少々胃もたれしないでもない。週に三度も錬成していては、バターをケチっていた意味ないのでは。ってか、普通に太るのでは? 太る前に、いや、太りつつも飽きる・・・・・・ 

 理想の黄金菓子が錬成されるその日までに。甘いいが、甘いいに変わってしまうのでないか、そう不安がよぎらないでもないけれど。買い物行ってパイン缶安かったら買ってきて〜と兄に頼むのだった。

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