Side F 03(Hinokuchi Fumine) 放課後

 その日の放課後、あたしは宮本先輩に言われたように東校舎4階北側の部室を訪ねた。東校舎は理科実験室や工作室、音楽室、調理実習室などがあるが、それは、だいたい1階か2階に収められている。普段、授業を受ける教室は本校舎にあるので、帰宅部のあたしにとって東校舎の4階なんて、まず用事がない。ほぼはじめまして、と言わんばかりの感覚だから、東校舎の階段を上る時点で足が重い。しかも先ほど鏡を見たら、口唇だけでなく左頬に擦り傷があった。青痣あおあざもある。じゅくじゅくと液が滲み出てくるので、絆創膏ばんそうこうを貼っている。あたしは皮膚が強くないので傷が残らないか心配だった。


 ようやく4階に辿り着くと、文芸部、棋道部、新聞部、科学部などいくつかの文化系の部活動の部室が並んでいる。部員とおぼしき学生が、部室にそれぞれ吸い込まれていくが、途中、どこか見慣れないあたしの顔を見て、怪訝けげんそうな顔をしているように感じるのは、ただの被害妄想だろうか。


 演劇部の部室に辿り着くまでに既に肩身の狭い思いをしている。あたしの興味としては天文部とか、科学部の方に向いているのだが、残念ながらそれらはあたしをお呼びでない。『演劇部部室』という札が掲げられた部屋の扉の前に到着する。ここで間違いないだろう。漏れ聞こえてくる声から、部屋の中には何人かは部員がいるようだが、カーテンか何かで遮断されており、中の様子を窺うことができない。宮本先輩はいるのだろうか。いれば招き入れてくれるはずなので楽なのだが、宮本先輩の声は聞こえない。

 かと言って、ここで待っているのもバツが悪い。部員たちはあたしがここに来ることを知らされているのだろうか。ひとつ深呼吸をしてから勇気を出して部室の扉をノックしてみた。


「ご、ごめんください……」

 反応がない。やはり宮本先輩はいないのだろうか。もう一度ノックする。すると数秒後に反応があった。扉が開いたのだ。

「どちらさまですか?」

 知らない男子生徒だ。少なくとも二年生ではなさそう。

「あ、あの宮本先輩はいますか?」

「その前にどのような用件で?」

 男子生徒は宮本先輩がいることを教えずに、質問を質問で返してきた。

「今日、放課後に演劇部に来て下さいって宮本先輩に言われたんです」

「ふうん。それは何でですか?」

 どこか冷たいリアクション。部員には周知されていないのか。確かに先ほどの昼休みのことだから、知らないのかもしれない。同時に、宮本先輩もまだここにいないと推測される。

 演劇のヒロインに抜擢されたからです、と胸を張って言う勇気など、あたしは持ち合わせていない。

「そ、それは……」

 あたしがもじもじしていると部室の奥から、落ち着きのある美しい声が聞こえてきた。

「ま、取りあえず入れてあげたら?」

 あたしはこの声に聞き覚えがあった。そして、とても嫌な予感がした。


 今村いまむら英玲奈えれなが冷やかな表情でこちらを見ていたのだ。まさか演劇部にいたとは。

 今村さんは二年A組で、いまやクラスは異なるが去年は同じクラス。外国人の母親を持つハーフらしく学年一、いや学校一の美少女と噂されるが、成績も学年一、スポーツも万能である。母親の影響か英語はペラペラだ。家もお金持ちだという。

 今村さんは一年生の一学期期末考査で、国語、英語、数学、社会の4科目で1位だったが、理科だけはあたしが1位だった。それが気に食わないらしく、以来あたしのことを邪魔者扱いしている。

 他の追随を許さないほどの美貌と優れた成績、そしてお家柄と、彼女のまとうオーラで、クラスの、いや学年の女子のイニシアチブを取る存在になっていた。だから彼女があたしのことを嫌えば、『右向け右』で他の女子たちはあたしのことを嫌う。

 「『死ね』とも読めるな」と最初の言い出したのは、他ならぬこの女子だ。


 あたしはこの部屋から逃げたくなった。

「し、失礼しました!」

 そう言って部屋を飛び出すと、タイミングの悪いことに宮本先輩に鉢合わせてしまった。

「ごめんごめん。担任の先生に捕まっちゃってね、遅くなりました。ありがとう、来てくれて」

 言葉こそ謝っているが、悪怯わるびれた様子はまったくない。あたしはここに来るだけで不安と緊張で満たされていたと言うのに。

 でも、もう今村さんがいると分かったのでここには用はない。いじめられるきっかけを作った人間に、誰が望んで近付こうとするというのか。

「先輩、すみません。あたしやっぱり遠慮させて頂きます!」

「何で? せっかくここまで来てくれたのに」

 そこにいる今村さんがあたしをいじめるから、とは言えなかった。今村さんはあたしをいじめていると知られたくない(もしくはいじめている自覚すらないかもしれない)だろうし、あたしもいじめられていることを言いたくなかった。あたしにだって、ミジンコくらいのっちゃなプライドがあるのだ。

「だって、こんなにたくさん部員がいるのに、役を取っちゃうなんて申し訳ないです」

 咄嗟とっさに取って付けたような嘘。

「それは、みんなの了解をもらってるって言ったじゃないか」

 了解をもらっていても納得はしていないような気がした。最初に出迎えた男子生徒の様子や今村さんの表情から、とても歓迎されているようには見えない。

「でも……」

 すると、見かねたように奥から今村さんの声が聞こえた。

「もじもじしててみっともない。『龍宮リュウグウスイングバイ・ノスタルジア』のヒロイン役に来たんでしょ?」

 劇のタイトルを心の中で復唱する。リュウグウ? スイングバイ? ノスタルジア? スイングバイにリュウグウって、小惑星探査機のこと?

「ロマンティックな展開もあるからね」と今村さんが畳み掛けるように言う。

 ロマンティック!? 何それ? 恋愛要素でもあるの?

「で、できませ──」と言いかけたところだった。

「私が見てあげる。宮本さんが選んだヒロインのあんたが、役に相応ふさわしいかどうかを」

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