死にたがっていた頃は、
葬り去りたい歴史でもなくて、ごくごく最近の話として、恒常的に死にたかった時期がある。(死にたいとか書いたら凍結されるのだろうか、でも伏字にしたから許されるってのも変な話だし伏字だと深刻さが薄まる。)
いつものごとく、役に立たない話だ。
死にたかった時期がある。そんな頃に遺書を書いてみた。それだけの話といえば、それだけの話だ。部屋で腐りかけていた頃に、何かで遺書を書くという発想を目にして、おもしろそうじゃないか、とやってみたのだった。
ちょうど、これくらいの季節だった。春から初夏にかけての、この時期。梅雨の足音が聞こえて、私の気も滅入り始めていた。
今はどこへ行ったか見当もつかない文章を、私は一言一句たりとも、思い出せない。
多分友人達にあてて何か書いていた、というくらいしかわからない。
今思えば、ああ馬鹿だなあ、と思う。
死んだら人は何になるって、無でしかないのに、死んだ後のことを考えようだなんて、馬鹿げている。生きているうちはともかく、死んだらもう何も感じないのだから。
友人が私を惜しいと思ってくれているとか、そんなこと、関係ない。
私は死にたかったら死ぬし、生きたければ生きる。そこに、友人の意向の入る余地はない。
断っておくが、私は友人を大切に思っている。でも、私に関する決定権は最後の最後まで、私のものでしかない。頭がはっきりしているうちは、他人に渡してなるものか。たとえ、その一部だって、渡さない。
これは、尊厳の問題なのだ。
だから、遺書なんかいらないのだ。遺される人のことなんて、最低限、遺体の処理をしてくれた方にはお礼をお渡しできるシステムは構築しておきたいけれど、基本的に私の死に対する他人の感情へのケアなんか必要ない。
私の人生は私のものでしかないのに、何でわざわざ終わりだけ他人にあてて何か書かねばならないのか。
死にたがっていた頃は、酔狂なこともしたものだな。そんな風に思っている。誰かが私の死に何を思うかなんて、そんなどうでもいいことを、ぐちゃぐちゃ考えていた頃の自分が理解できない。誰かがそんなに欲しかったか。自己肯定のサイクルは自分で回すしかないんだけど。
自分が死にたがったら止める権利は誰にもないと言うくせに、友人が死にたがったらあらゆる手段を使って翻意させようとするエゴイストである自覚をしているけど、それだって、十分、おぞましい。
今死にたくなっても、遺書は書かない。私が死んで、誰が喜んでも悲しんでも、私の知ったことじゃないから。
これは、おそましくもあり、誠実でもある。誰かを生きる理由にしないことは、誰かのせいにしないという覚悟そのものだから。
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