「役に立たない」文章

 カクヨム公式レビューをねらえ!(Vol.01 新着エッセイ・ノンフィクション編)の企画概要には、”エッセイ、ノンフィクションであれば内容は何でもOKですが、「読者に新しい発見や出会いを提供してくれる作品」を期待しています。”とある。

 でも、この文章は役に立つことは、何も書かない。ひたすら染井雪乃と読者であるあなたが出会う。出会い続ける。そういう文章である。

 知らない病気や国を知ることもない。ぶっ飛んだおもしろいエピソードもない。

 私は公式レビューを狙う気もないのに、この作品を投稿して、企画に参加しているように見えるだろうか。そう見える人がいてもおかしくないことは、理解している。

 でも、違う。

 公式レビューをねらっている。


 すごく性格の悪いことを言えば、人目をひくネタがないわけではない。「新しい発見や出会い」と聞いて、多くの人が思い浮かべる、非日常を持っていないわけではない。

 ただ、エッセイのおもしろさは、そこなのか? と思う。

 カクヨムは小説投稿サイトである。エッセイ・ノンフィクション(これも分けた方がいいように思う)は多分メインではない。エッセイメインの人はnoteにいそうな気がする。

 エッセイが、おもしろいこと、なかなか経験できないことを書ける人だけのものになるなら、それは、エッセイではない。エッセイは、そうではないのだと私は思う。

 何気ない日常の光景や当たり前を作者というフィルターを通して見ることで、違った景色が見える。それを楽しむものだ。


 だから、だからこそ、この文章には、ライフハックをはじめとした、役に立つことは極力登場させず、非日常も使わないことにしている。

 非日常を書けば、きっと読まれるだろう。でもこれは、読まれるための文章ではない。公式レビューをねらってはいるが、読まれるために書いてはいない。書きたいことを書きたいように書いている。もちろん、さきほど書いたような縛りは課しているが。

 そろそろ、私の書いていることがわからなくなってきた人もいるだろう。

 根本的な問いだ。「すべての文章は『読まれる』ためだけのものか? 役に立たなければいけないのか?」という、問い。

 書いたら読まれたいのはその通りだ。でも、誰が読むか、誰に好まれたいか、誰に届けたいか、を考えているうちに、文章は、元になったものとは、少しずつ違うものになっていく。その加工は、日々の文章を書く上では本当に大事だ。

 だけど、それを突き詰めていくと、とんでもなく殺伐とした世界が待っているのではないか。「『自分のための文章』には意味がない」と断言してしまうような、怖さ。

 役に立たない文章を綴ることの意味は、もしかしたらそこを捉え直すためにあるのかもしれない。

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