緑茶のカップ
緑茶のカップを洗うのが面倒だ。ずっと何かしらPCに向かって作業しているから。飲み干したら、次の分を入れて、また飲み干して、次の分を入れて、を繰り返している。
不衛生だっていうのはわかる。でも、緑茶を飲み干すたびに洗いに行くのは面倒だ。そう思っていると、何日も、同じカップに緑茶を注ぎ続けている。小説に出てくる、汚いカップはこうやって出来上がっていく。
そもそも、洗い物や洗濯や掃除や料理といった家事が、家事全般が嫌いだし苦手だ。ガスコンロのグリルを使うのすら、説明書を引っ張り出してきて、何とかやった。家事を平然とやってのけている人たちは、私とは頭のつくりからして違うのではないか。家事ができない自分に劣等感を抱くこともある。
家の事、と書いて家事。
いつかこの面倒なのも、機械が全部やってくれる時代になるといい。そんなことを本気で願って、今日も生きている。
やってくれる「人」はいらない。私は人とは暮らしたくない。人を家に入れるのも、どんなに親しい友人でも、緊張する。
孤独を愛しすぎているなんて言われたけれど、それは本当にその通りで、だから、私は、機械に世話されて一人暮らしを続けたい。機械が機械であってくれさえすれば、私はそれらと同居できる。
機械はプログラムされた通り、命じられた通りに動く。私が何度失敗しようと、どんなだらしないことをしようと、態度も変えず、呆れもせず、怒りもせず、ただただ命じたことをやってくれる。それが私にはひどく心地よい。
洗濯機は、「洗濯物を溜めすぎです」なんて言わない。ただ音を立てて稼働するのみだ。
人に干渉されると、侵食されるようで、気分が悪いが、機械たちとの距離感は心地よいのだ。
望んでいないことは決してしないし、気遣わなくていい。
その一方で、私は、「人が作ってくれたごはん」も大好きだ。それも、外食ではなく、友人によって手作りされたごはんが大好きだ。何てわがままで、矛盾しているのだろう。
誰かが、私を思って、作ってくれたごはんというだけで、自分で同じメニューを作るより、数倍価値がある。ここまででお察しの通り、友人が作ってくれるようなごはんは、私には作れないのだけれど。
でも、ごはんを作ってもらうために人と同居するのも、無理だ。できなかった。ストレスでたまらなくなって、逃げるように、一人暮らしを始めた。
こうして理想の生活を話していたら、「独房……?」と結論しかけた。独房はさすがに嫌だ。
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