第36話 吸血鬼の婚約者

 瑠璃の部屋はこれまで何度も入ったことがある。


 この洋館に合った豪華な天蓋付きのベッドに、外一面が見渡せる大きな窓。

 それに部屋の中には彼女の趣味である可愛らしい動物の人形が並んでいた。


 瑠璃らしい部屋だな、と思った記憶がある。

 なんというか、子どもっぽい雰囲気を残しつつも、どこか儚さと愛らしさが混ざったような、そんな部屋。


 だが今は――ベッドのシーツは乱れに乱れ、部屋を彩っていた可愛らしい人形たちは中綿を引き裂かれた状態で床に転がっている。


「……瑠璃」

「……なんで」


 聞こえないくらいの小さな声。だが彼女が俺を認識してくれた、そのことが嬉しく思う。


「お姉ちゃんにも、おじさんにもお願いしたのに……どうしてここにハル君が来ちゃうの?」


 いつもは整えられている美しい紺色の髪の毛は乱れに乱れ、瞳は紅く染まっている。


 なにより普段とは大きく違うのは、背中からは黒い蝙蝠のような羽が大きく広がっていたことだろう。そのせいで上半身の服は着れず、薄いシーツで身体を隠すだけ。


 ――吸血鬼。


 それが人とは違う存在だというのは、なんとなく頭で理解をしていた。

 だが、それでも見た目は人と同じで、たとえ舞さんみたいに超常の力が使えたとしても、俺の中では『人』だった。


 だが今の瑠璃の姿は、同じ『人』ではありえない姿をしている。


 黒羽、人ではありえない牙、人を獲物として見る深紅の瞳。これらが、自分とは違う存在なのだということを否応なしにも証明してしまう。


「やだ……こんな、化物の姿、見ないで……」


 瑠璃は泣いていた。

 

 『化物』である自分の姿を俺に見られたくないと、破れたシーツをかき集めて身体を隠し、子どもがおばけを怖がるように震えて泣いていた。


「……こんな、こんな姿で生まれてきたくなかった。普通に人として生きていたかった。ハル君と一緒にいて、玲愛ちゃんと普通に笑いあえるような、そんな『普通』が良かったよぉ……」


 俺の姿は見えているだろう。だがきっと、彼女の感情が今、なにを話せばいいのか分からなくなってしまっているのだ。


「瑠璃」

「近づかないで!」


 一歩踏み出した瞬間、瑠璃が興奮したように叫ぶ。それだけで、俺の心は折れてしまったかのように足が止まる。

 そうしてようやく、彼女が俺を見た。


「ハル君……私ね、駄目なの」

「駄目? なにが?」


 身体が動かないだけで、彼女と向き合うことは出来る。そう思って必死に瑠璃を見ると、彼女はすべてを諦めたように悲しそうな笑みを浮かべた。


「今、私ちょっと声を出しただけで足止めさせちゃったでしょ? こんなこと、普通の人にはできないよね?」

「さあ? もしかしたら出来るかもよ? 多分俺、プロレスラーとかに同じことされたら足止める自信あるし」

「……そういうことじゃ、ないよ」

「そういうことだよ。多分ね」


 過程はそんなに大事なのだろうか? 結果が一緒なら、同じなんじゃないだろうか?


 吸血鬼は特別な力が使えるらしい。

 血を吸えるし、動きを止めることが出来るし、記憶も消せるらしい。


 だけどそれは、多分人間がやろうと思えば全部出来ることだと思う。だったら、人も吸血鬼も、なにも変わらないんじゃないだろうか?


「それに、瑠璃は元々吸血鬼としての力は弱いんでしょ? だったら――」

「それは嘘」

「……嘘?」


 初めてこの屋敷に拉致されたとき、たしか舞さんがそう言っていたはずだが、瑠璃は否定する。


「本当はね、私の吸血鬼としての力って凄く強いの。強すぎて、制御が出来ないくらい。だから記憶を消そうとすると、一年以上消さないといけないんだ」

「それは……」


 たしかに、記憶を消すときは一年以上まとめて消さないといけないと舞さんは言っていた。だがそれが瑠璃だけの話であるならば、なぜ俺の記憶は消されなかったのか。


「消そうとしたんだよ? お姉ちゃんに頼んで、私と会った時の記憶を消してね、それで全部終わらせようとしたんだ。だけど、なんでかハル君の記憶が上手く消えなくて、それでお姉ちゃんも困惑して……」

「……」


 それはきっと、忘れられないくらい瑠璃のことが美しいと、そう思ったから。


「玲愛ちゃんのはちゃんと、変えられたのに……」

「玲愛の?」


 そう尋ねた瞬間、瑠璃の瞳はさらに暗い濁りを見せる。


「うん……私は臆病だから、誰かに守ってもらわないと怖くて怖くて仕方がないから……だから、昔から守ってもらうために玲愛ちゃんの影に隠れ続けてきたんだ。玲愛ちゃんは、太陽のように明るくて凄い子だから」


 その言葉を吐き続ける瑠璃は、まるで神を懺悔する咎人のように苦しそうで、辛そうで、見ていられない。


 そして、ようやくここ最近の玲愛の様子がおかしかった理由がわかった。


 おそらく瑠璃はずっと玲愛を自分の守り人として、彼女がそう思うようになにかの能力で思考を誘導していたのだ。


 だから、少し過保護とも取れる玲愛の瑠璃を守ろうとするスタンスは、この数日会わなかったことで薄れていたらしい。


「私って昔から誰かに守ってもらえるように、あっちにふらふら、こっちにふらふら……色んな人の後ろに付いたなぁ。それで、誰よりも強かった玲愛ちゃんにずっと守ってもらおうと思ってたのに、お家が倒産しちゃって弱ってたから……」


 ――だから、立ち直れるように感情を弄っちゃった。じゃないと、守ってもらえないから。


 壊れたような笑みを浮かべた瑠璃を見て、俺は思わず彼女を抱きしめようと前に踏み出そうとして、しかし身体が動かない。


「無理だよハル君。言ったでしょ? 私の吸血鬼としての力って、すっごく強いんだ。それこそお姉ちゃんとは比べ物にならないくらい」

「ぐ……」


 足が動かないなら、手を。そう思って腕を上げようとして、全身が動かないことに気付いた。


 だったら、それでいい。瑠璃が望んでいないなら、近づかない。それでも口は動くのだから――。


「違うよね?」

「うん? なにがかな?」

「玲愛の感情を変えた理由。本当は、自分を守ってもらうためなんかじゃ、ないよね?」

「……え?」


 俺は知っている。瑠璃は本当に、玲愛のことを一番の親友だと思っていたことを。

 いつも彼女のことを誉めていて、俺はちょっと嫉妬していたくらいだ。


「瑠璃は玲愛が好きなんだ! だから彼女がへこんでいたとき、『守らなきゃ』って、そう思ったんだよ!」

「ち、ちがうもん! そんな理由じゃなくて、私は私を守ってもらうために――」

「違わない! だってそれなら、俺がいたじゃないか! あのときすでに俺が君のことを守るって決めた後で、だったらもう玲愛は必要なかったはずだ! それでも彼女の感情を弄ったって言うなら、それは自分のためじゃない! 玲愛のためだ!」

「あ……あ、う……」


 一歩、足が動いた。

 二歩、前に進んだ。


 俺の言葉に動揺したせいか、力が弱まったのだ。

 そして、俺は両足を使って一気に瑠璃のいる場所まで駆けて、彼女の身体を抱きしめた。


「瑠璃……ようやく、捕まえられた」

「は、はる……くん……」

「大丈夫、大丈夫だから……」


 俺は優しく彼女の背中をさする。そこには人にはない大きな羽が広がっていて、だけどそれがとても愛おしく思う。


 だって、この羽も含めて瑠璃なんだから。


「わた、わたし……こんな自分が、嫌い」

「うん」

「嫌い、嫌い、嫌い! だって、気付いたらみんな私の傍にいて、望んでないのに、守ってなんて思ってないのに! でも私が心の奥底で望んじゃってるせいで、みんな歪んじゃう! 玲愛ちゃんだって! ハル君だって!」

「うん、いいよ。全部聞くから、だから教えて。君のことを全部」

「う、うわぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 まるでずっと迷子だった子どもが、親を見つけたときのように必死に抱きしめながら、瑠璃は泣く。


 そんなこの子をずっと守っていきたいと、愛しさばかりが増していった。


 だがこの感情は決して瑠璃の力なんかじゃない。だってそれなら、俺は彼女に近づくことすら出来なかったはずだから。


「俺はここにいるよ。ずっと、ずっと君の傍にいるから、だから少しづつでいいから」


 瑠璃は泣き続けながら、それでも自分の想いを話し続けた。


 暗い部屋は月明りに照らされていて、涙がその光を反射する。


 瑠璃初めて会った時、月明りの下、涙を流しながら、それでも恍惚とした表情でこちらを見るその少女が薄れゆく視界の中でとても、とても美しく思った。


 そして今、俺の腕の中で抱き着く少女は、そのとき以上に美しいと思う。


「瑠璃……」


 俺が呼ぶと、彼女は顔を上げてくる。そんな彼女の唇に、俺は黙ってキスをした。

 最初は驚いた様子だったが、すぐに受け入れてくれる。


 そして、長い長いキスを終えた俺は、彼女に尋ねた。


「俺の血、吸いたい?」


 俺がそう尋ねると、瑠璃は涙で濡らした顔を赤らめ、ゆっくりもう一度キスをしてくる。


 そして――。


「ハル君、ちょっとだけ吸ってもいい?」


 この可愛い婚約者から甘えるように発せられた言葉を、俺が抵抗出来るはずがない。


 だって、俺はそんな吸血鬼の婚約者なのだから。


 再び瑠璃と唇を合わせて、二人ではにかみながら笑い、そしてそのまま俺は自分の首元を彼女に差し出すのであった。

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