第35話 姉の想い

 慣れた道を抜けて、瑠璃がいるであろう屋敷に辿り着く。


 チャイムは鳴らした。だが誰も出なかった。だというのに、高い塀に囲まれた屋敷の唯一の入り口は、まるで入ってこいと言わんばかりに開いていた。


 俺は躊躇うことなく中に入る。


「っ――」


 一歩踏み入れた瞬間、本能が逃げろと叫んだのがわかった。ここにいては駄目だと、脳が警報を鳴らしていた。

 この先に進めば取り返しのつかないことになるのだと、全身が叫んでいた。


「だからって……ここで帰るわけないだろ!」


 躊躇うな。ここで躊躇ったらきっと、一生後悔する。


「瑠璃ぃぃぃぃ!」


 この場にいることを、この先に進むことを否定する自分を否定するために、俺は暗くなりかけている空に向かって大きく叫ぶ。


 自分が今なんのためにいるのか、誰のためにいるのかを思い知らさせるために。


「……今、行くからね」


 当然ながら返事はない。だがしかし、これまでと違って進む足はだいぶ軽くなった。




 この一ヵ月で何度も足を踏み入れた瑠璃の屋敷。相変わらず日本の家とは思えない様相は、いつ来ても圧倒される。 


 ただ、今はそんなことを思っている場合じゃない。そう思って進むと、いつの間にかそこにいたのか、舞さんが微笑んでいた。


「いらっしゃい陽翔くん」

「舞さん……」

「普通、チャイムを鳴らして出なかったら帰るものだと思うけど、勝手に入ってきて悪い子ね」


 クスクスと笑う仕草はいつも通りに見えるが、その実すでに瞳が紅い。


 吸血鬼としての姿を隠さないで立ち塞がる姿は、さしずめホラー映画の敵役といったところか。


「勝手に入ったのは謝ります。ごめんなさい」

「ええ、いいわ。許してあげる」


 これは……悪い方の舞さんだ。


 許してあげると言いながら、どうやって俺を食べようかと考えているのが伝わってくる。

 だけど、俺は怯むつもりはない。


「瑠璃に会わせてもらえませんか?」

「いいわよ」


 あっさりと、本当に自然に笑う。


 怖い。逃げ出したい。この屋敷に足を踏み入れたとき同様、自分が自分の身体じゃないくらい本能的に怯えている自分がいるのが分かった。


「舞さん……」

「なにかしら?」

「今の舞さんは、なにを考えてるんですか?」

「そうね……ここで陽翔くんを私の物にしてしまいたい、とかかな?」


 きっと、俺はもう駄目なんだと思う。色々な意味で壊れてしまっているのだ。


「俺は舞さんの物にはなりませんよ」

「私なら、瑠璃じゃ出来ないこと色々してあげるわよ? それこそ想像もできないくらいすっごいの」


 こんな妖艶に笑う美女を前にしても、一切心が揺れ動かされないのだから。


「たとえそうだとしても、俺は瑠璃を選びます。だって、俺は彼女の婚約者なんですから」

「……そっか、残念だなぁ」


 そう言いながら舞さんが近づいてくる。それを俺は黙って見ていると、彼女は俺の首を両手で掴む。


 そして口を大きく開き、そこには人とは違う鋭い牙と、そして紅い舌がチロチロと艶めかしく光っていた。


「このまま、思いっきり血を吸ったら、いくら陽翔くんが抵抗しても全部無駄になっちゃうわ」

「そうですか」

「……怖くないの?」

「そんなこと、舞さんはしないでしょ?」


 俺は知っている。彼女が俺を脅すとき、それはいつも瑠璃を守るときなのだということを。


 多分今の舞さんはいつもと違う。もしかしたら、この満月の夜で吸血鬼としての本能が強まっているのかもしれない。


 だけど……だからといって『お姉ちゃん』である彼女が『大切な妹』を悲しませるような、そんな『吸血鬼の本能程度』に負けるとは思えなかった。


「……」

「……」


 目の前で、タラっと彼女の口から唾液があふれ出るのがはっきりと見えた。


 だがそれでも、舞さんが俺に噛みついてくることは――ついになかった。


「はぁ……陽翔くんがちょっと脅したら帰るような、情けない男の子だったら良かったのに」

「そんな情けない男が妹の婚約者だったら、舞さんだって嫌でしょ?」

「そうね。そしてその時は、私の非常食にでもしてたわ」


 そっと、白い手を俺の首から離す。そして紅い瞳はそのままに、しかしこれまでとは違う穏やかな雰囲気になった。


「陽翔くん。瑠璃のこと、お願いね」


 それは、妹を想う姉の心からの願い。だから俺はただ何も言わず、頷いて彼女の横を通り過ぎる。


 目指すのは、大切な婚約者である瑠璃の部屋――。

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