8月
夏休みに入った。
時間はあってもお金がないので、僕はアルバイトをすることにした。印刷場の運搬・整理の仕事で、現金即日払いなので働いたその日に手元にお金が入るのは嬉しかった。
お盆が終わり、夏休みがあと三分の一となったある日のバイト帰りのこと。
糺谷先輩からメッセージが届いた。
『今週の土曜、空いてる~?』
僕は少し時間をおいて『空いてます』と返信した。
用事はなにか聞かなくても分かる。というより、いつ誘おうかと考えていたが先に訊かれてしまった。
今週の土曜日はこの市で一番大きな花火大会があるのだ。
汗水垂らして働いて、瞬く間に土曜になった。
待ち合わせの駅は同じく花火を見にきたであろう人々でごった返している。
少し待ったところで、「おまたせ~」と先輩がこちらにやってくる。
真珠色のロングワンピースで、シルエットが少しくっきりとした大人な雰囲気だった。
「なんだか望月くんが私を待ってるのって変な感じだね~」
「そうですかね、遅刻はしたことないはずなんですが」
「あはは、私がいつも望月くんを待ってるからかな」
そんな会話をしながら駅を出ると、花火大会に向かう人の波が出来ていた。目的地が同じ方向なのでその中へ入る。
はぐれないように振り向いて先輩がいることを確認する。
なんだか先輩が照れくさそうに手を握ったり開いたりしている。そして、そわそわしながら裾を掴んできた。
「望月後輩、望月後輩」
「どうしたんです、糺谷先輩」
「なんかこうちょっと、握りたくなるものない?」
「お寿司ですか?」
「この人込みの中、寿司を握りたくならないよ!」
「急に板前の精神に目覚めたかと」
「そうじゃなくて、こうもっと実用的で握りやすい、今の状況にぴったりなものがあるでしょ」
「実用的で握りやすい……? ああ、分かりましたよ」
「分かってくれましたか」
「先輩が求めているものは、ずばりバールですね?」
「違うよ?」
「バールのようなもので人々を殴って、人混みをかき分けていくのでは」
「むしろ私は望月くんのことをバールのようなもので殴りたい気持ちだよ!」
紆余曲折あって、先輩は僕のシャツの後ろ首元を掴んで人波の中を歩いている。首根っこを掴まれて、気分は悪さをした飼い猫のようだ。なぜこんなことに。
「あのー、先輩? ちょっとお手洗い行ってきてもいいですか?」
「ダメです。望月くんに人権はありません」
「横暴だ、弁護士を呼んでください!」
「きっと担当の弁護士だってあなたの有罪を主張します」
「そんな馬鹿な、僕が一体なにをしたと……」
「裁判長だってあなたが入廷したら即刻刑を宣告します」
「裁判とは一体なんなのか」
「罪に気づけた時、私だけがあなたを許してあげます」
「先輩だけが許してくれる……?」
「そうです」
「うう……」
先輩は自愛に満ちた顔で僕の頭を撫でた。
マッチポンプ的茶番であった。
駅から少し歩いたところで、メイン会場である広場に着いた。
会場には出店が立ち並んでおり、その中央には特設ステージとして鉄骨で組まれた大きな舞台がある。
「ところで糺谷先輩? そろそろ首離してくれませんか?」
一方、僕はまだ先輩に首元を掴まれていた。
「反省したら離してあげるよ~」
「一体何をしたと……はい分かりました! 反省してます、反省しました!」
「分かったならよろしい。私も望月くんがなにも分かってないことがよく分かったよ」
「どうしたんですか、そんな怖い顔をして。僕なんかやっちゃいましたか?」
「そういう異世界系主人公の台詞を吐くのは一回トラックに轢かれてからにしようね~」
「今日の先輩、なんだかバイオレンス過ぎませんか!?」
首元を解放されたので改めて僕は周囲を見渡す。
ここに来るまでも出店があって混んでいたが、メイン会場だけあってもっと多くの人がいるように思えた。
「先輩、なんか食べます?」
「ん~、そうだねえ。たこせん食べたい」
「たこせんって、たこ焼きをせんべいで挟んだやつですよね。あるんですか?」
「あるんだよ~。あ、ほらここ~」
たこせんの出店はやきとりとホルモン焼きの出店の間にあった。
近寄るだけで鉄板の熱に当てられたソースの香ばしい匂いが鼻を通っていく。
注文するとすぐに出来立てのたこせんが提供された。
「これがたこせん……。なんか食べづらそうですね。中もけっこう熱いし。先輩、これどうやって――」
「あーむ」
――食べたらいいですか?と訊こうとしたが、そんなことは愚問だと言わんばかりに先輩は真正面からかぶりついていた。
「あっつーい!」
「先輩!?」
そして熱さに敗北していた。水を飲ませて事なきを得る。
「あふ……あふ……」
「熱いの分かってて、どうしてそう愚直に挑んでいくんですか」
「そこにたこせんがあったから……」
「あのアルピニストの方だってタイミングくらいは見計らうと思うんですよ」
その後は落ち着いて、ゆっくり味わった。
外はせんべいがぱりっとしていて、中はたこ焼き生地でとろとろしている。
初めて食べたが、ジャンクな魅力があって先輩が好きなのも頷けると思った。
先輩を見ると相変わらず正面から挑むので唇のあたりが黒くテカテカしていた。
「よかったらこれ使ってください」
「お、ウェットティッシュとはやるではないか~」
さっそく口元を拭く先輩。
なんだかその動作が子どもっぽくて、今日の恰好とのアンバランスさに笑ってしまう。
1年と半年近くほぼ毎日一緒にいても発見がある、不思議な人だと思う。
「どしたの?」
「先輩って不思議だなあって」
「いやいや~、まだまだ氷山の一角だよ~」
謙遜風に自分を持ち上げる高等テクだった。
「先輩がたこせんが好きとか今日初めて知りましたし、まだまだ知らないこと一杯あるなあって」
「たこせん以外にも好きなものは一杯あるよ~」
「そういう話ではないと思……あれ、そういう話か……?」
「今日あった出店でいうと、イカ焼きとかすなずりの炭火焼とか鳥皮も好き~」
「サラリーマンのおつまみセットじゃないですか」
「もちろん甘い物も好きだけどね~」
「でも今日はもうそんなに沢山入らないですよ」
「じゃあ食べきれなかった分は来年食べようか」
「いや来年って言ったって――」
来年の夏は先輩はとっくに卒業していて大学生になっているだろう。
その時、先輩とまた花火大会に来れるような関係でいられるのだろうか。
そもそも、と僕はもう一つの懸念を思い浮かべた。
「どしたの?」
「いやなんでもないです。また来年も――」
突如巨大なハウリング音が鳴り響き、僕の言葉はかき消された。
何事かと特設ステージを見ると、中央に青いバンダナを頭に巻いた中年男性が立っている。
その傍らには先ほどまで司会進行をしていた女性が倒れていた。
辺りは騒然としており、中年男性がステージ上にいるのはイレギュラーな事態であることが分かる。
「え、なにあれ……」
先輩が不安そうに身を引いた。僕はいつでも先輩の前に出られるように足に力を入れる。
幸い、ステージから僕たちがいる位置は遠い。
辺りが奇妙な静寂に包まれる中、中年男性は司会から奪ったマイクに向かって怒鳴りつけた。
「政府は嘘をついている!!!」
考えなしに出力レベルを上げているであろうイベント用スピーカーから、地震を錯覚するほどの大音量で男の潰れたダミ声が響く。
「先々月、小惑星の衝突が観測され、片方の小惑星は地球に向かっている! NASAは隕石の道筋をずらして、地球への落下を防ぐのだと宣っている!」
そのこと自体は毎日のようにニュースで取り上げられるから僕でも知っていた。
地球に到達するまでの3か月半。NASAは地球へ向かってくる小惑星の軌道をずらす方針で可及的速やかに対処することを伝えている。
「現在地球と小惑星の距離は約1億8000キロ!! 地球と月が235回も往復できるほど遠くにある!! なあ、不思議に思わないか!? そこまで遠くにあるのになぜ小惑星を爆破しない? なぜ運用可能な手段を使って問題を解決しようとしない?」
現時点で爆破という手段を取らないのは、破砕した後の破片がどう動くか計算が難しく、衛星である月や周辺環境にどのような影響があるか分からないためだ。隕石の問題を解決してもそれによって新たな問題が起こったのでは始末に負えない。
聞きかじっているだけの僕でも説明できる簡単な理屈だった。
でもこの場にいる誰もがそれを反論することはしない。
早くこの場の嵐が収まることを祈っている。
「答えは簡単だ!! 政府のボケナス共は自分たちだけが逃げられる手段を持っているからだ!! 火星だよ!! 政府の要人共は火星に移住する気なんだ!! だから地球の人類が滅んだってかまいはしないのさ!! あのクソ悪魔共にはすでに人間の血なんて流れてないんだ!!」
馬鹿げた陰謀論だと笑うことはできない。あの男性は本気で政府は隠し事をしていて、人々を見殺しにする気だと信じているのだ。
男の目は遠くから見ても分かるほど血走っており、必死の形相である。よっぽどその男性のほうが悪魔的に見える。
「だから立ち上がれ!! 政府になんか殺されてたまるか!! 俺は生き残る!! 隕石なんかに焼き殺されてたまるか!! あの悪魔共を皆殺しにしても、俺は――ッグゲ」
暴力的なまでの爆音が不意に途切れる。
花火大会の運営スタッフと思わる男性数人が中年男性を取り押さえていた。
もう既にマイクに音は入っていないが、機械を通していなくても「離せ!悪魔の手先共!」とか「貴様らは大人しく政府の指示で死ねばいい!」という叫びが聞こえてきた。
中年男性は暴れていたが、運営スタッフから後ろから首を圧迫され、しばらくして動きを止めた。
束の間の静寂の末、会場に張り詰めていた緊張感が抜けていくのが目で見えるかのようだった。安堵の空気が流れ、話し声も増えていく。
「大丈夫、でしたか……?」
僕はなにが大丈夫だったかさえも分からないまま、糺谷先輩に声をかけた。
糺谷先輩はしばらく放心状態でいたが、手を握るとゆっくりこちらを見た。
「あ、はは、なんだか大変だったね」
「そうですね。ちょっと、休みましょうか」
ゆっくり歩いて、近くのベンチに座る。
先輩は少し僕に身体を預けて、手をぎゅっと握ってくる。
会場アナウンスが鳴って、予定より少し遅れて花火が開始されることを告げられる。
花火が始まってからも、僕らはベンチに座り続けていた。
ここからだと木の陰になっていて花火が見えづらかったが、移動しようという気は起こらかった。
先輩も同じ心情のようで、ぼんやりと火球が弾ける様子を眺めていた。
隙間を縫うように、ぽつぽつと話をした。
「あの男の人、どうなったかな……」
「羽交い絞めにされて気を失っているようでしたね」
「あの人はさ」
「はい」
「不安で仕方がなかったんじゃないかって思う」
「そう、かもしれないですね」
「きっと誰かに聞いてほしくて、自分だけで抱えるのも怖いから、ステージに立って主張した」
「でも司会者を殴るのはやりすぎですよ」
「そうだね、やりすぎちゃったんだね。きっとやらなきゃいけない気持ちだったのしれない」
「……先輩は、あのよく分からない男の心配までして、優しいですね」
「違うよ、多分私はこうやって同情の余地を探すことで、自分が理解が出来るところに落とし込みたいだけなんだよ」
「それは優しさではないんですか」
「少なくとも私の中では違うかな。私なりに解釈をしたいだけで、その人のことを理解したいわけではないからね」
花火を見ていたから、その時の先輩の表情を知ることはできない。
首一つでも動かしてしまったら、なにかを欠けさせてしまう気がした。
「僕の中では先輩は先輩の中で一番優しい人ですよ」
「先輩の中でって私一人しかいないんだけど」
「そうですよ。僕の中の先輩は一人しかいないんです」
「お知り合いが少なくていらっしゃる?」
「おかげさまでね!」
「あはは」
先輩が笑って、僕の顔を覗き込む。
花火に照らされた表情は、少なくとも僕の中ではいつもと同じように見えた。
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