第3話

2024年の四月三日。信之が『刀仙』を引き当ててから一年ちょっとの頃。


信之は庭先でいつも通り鉄芯入りの木刀を使って素振りを行っていた。汗をかくので最近は常に上半身裸のまま行うのが当たり前になっている。そして、仕事の時間を気にする必要がなくなった今では午前中、気が向くままに振り続けていることが多い。


「それ、いつまで続けんだよ」


投げやりな、そしてどこか不愉快そうな声が背後の縁側から聞こえてくる。

そんな声があっても信之は驚くことも、動揺することもなく、それがさも当たり前のように、ゆっくりと振り下ろした木刀を片手にもって、声のした方へ振り返る。


不満そうな態度を隠そうともせず、そこに立つのは息子である信一郎だ。信一郎は、今年で17になる。信之が30代半ば手前でできた三人目の子だ。信一郎の上には二人の姉がいるが、一人は家から大学に通い、もう一人は家を出て働きに出ている。


「お前から見て、俺は頼りないかな?」


会社という枠組みから抜け落ちた信之は、自らを取り繕うことを既に辞めている。社会常識には障りない範囲で合わせるが、それ以外は己の目的のために費やすと決めたのだ。

だからか、いつのまにか、僕やら私やらと自身を指すのに使っていた言葉が、いつの間にか若いころのように俺と称するようになっていた。


信一郎は、慣れない父の言葉遣いに気圧されて少しばかり言葉に詰まるが、


「……そう、じゃねーけどさ。なんつーか、年相応にしてくれよ」


確かに父親である信之の肉体は、たった一年ほどで鍛え上げられるレベルを超えて鍛えられていた。その絡繰りがあるのだと、なんとなく信一郎は気が付いていたが、そこに踏み込めずにいる。

そんな父の姿に対して信一郎は、アスリートでもなく、道場を開いているわけでもない信之が、仕事を放り出して社会から逃げ出したように見えているのだ。世間に対する体裁を気にしていると言い換えてもいい。


「歳相応、か……。そういう考えもある、が、もう戻れはしないよ。信、お前の今の夢ってなんだ?」


「んだよ、急に。別に今はねーよ・・・」


中学の頃はサッカー選手になるのだと、毎日遅くまで練習していたし、いつかはトッププレイヤーになって世界に飛び出したいと夢見てもいた。だが、高校に入って自分より凄い連中が沢山いるのだと知って心が折れてしまった。

高校入学以来、信一郎は自分の夢を語らなくなっていった。


「俺の、若いころの夢はな……」


信之は言葉を区切り、庭の端においてある『横打ち木』の前に立つ。これは、信之が打ち込みの力が必要になるだろうと、薬丸示現流の鍛錬方法をヒントに拵えたもので、木の束ではなく、太い丸太を使ったものになる。


す、と正眼に構えてから、木刀を大きく上段に構える。瞬間、信之の身にまとった雰囲気がガラリと変わる。

道行く車の音も、塀の外から聞こえていた話し声も、鳥の鳴き声に木々の枝葉が擦れる音すらも意識の外に追いやられる、痛いほどの静寂が支配した。少なくとも信一郎にはそう感じられた。


決してその姿から目を離したつもりはなかった。

なかったのに、気が付けば信之の木刀の切っ先は地面を向いていた。

いつの間に振り切ったのか、否、横打ち木にぶち当たった音すら聞こえない一振り。


「俺の夢は、この技を実戦で使いたい。どこまでやれるのか、試したい。それが夢だった。だが、今の世の中じゃ試しただけでお縄になってしまう。別に人を殺したいとかではないんだ。でも時代に合わない。だから一度諦めた」


言いつつ木刀で軽く横打ち木を小突くと、バランスを崩し、真っ二つに分かたれた丸太が崩れ落ち地面を転がる。振動は地面を伝わり、ブロック塀すらも音を立てて崩れ落ちてゆく。木刀から放たれた衝撃がそれを成したのだと、信一郎はなんとなく察してしまった。


「だが、ダンジョンができた。技を振るう場所ができた。世界がお膳立てしてくれたんだ。なぜ、夢を諦める必要がある?」


ブロック塀から覗く朝日を浴びた信之は、息子にこれまで見せたことのない喜びを湛えた笑みを見せた。


「お、おぅ」


信一郎はそれ以上の言葉を出すことができずにいた。

だって、常識で考えてほしい。どこの世界に丸太を真っ二つに断ち切った挙句、衝撃でブロック塀を砕く剣術家がいるだろうか。だが、それを成した人物は、まるでそれを不思議とも思わず、


「さすがに木刀では手首を痛めそうで怖いな」


等とつぶやいており、自ら切った丸太の切り口とブロック塀をあれこれ見て考察を重ねている。ひとしきりブロック塀を眺めた後、信之は立ち上がり再び信一郎に向かう。


「そういえば、信は最近サッカーの話しなくなったな」


突然話題を振られた信一郎は言葉に詰まる。部活には入っているものの、もう半年は顔を出していない。


「え、あぁ、そう、だったかな」


「そうだぞ。ん、もしかして辞めたのか?」


嬉しそうにいう。一体どこに喜ぶ要素があったのか、むしろ信一郎としては聞かれたくない話で、部活に顔を出していないことを、まだ母の涼子にすら教えていない。


「だったらなんだよ」


剣呑な、怒気を孕んだ声音で信之を睨むが、信之は気にした風もなく、そうかそうか、と嬉しそうに言う。


「今までお前には言えなかったが、俺はお前がサッカーをやるの反対だったんだよ。涼子は剣術じゃ趣味にもならないとか言って遠ざけていたが、ダンジョンのできた今なら違う。剣術は十分実用的だろうし、お前の歳から始めるのも悪くない。俺が始めたのも丁度お前くらいの歳で……」


「信之さん」


早口でまくしたてる信之の言葉をさえぎるのは、別に大声だったわけでもないのに、不思議とその場に響いて、特段荒げたわけでもないのに聞いたものの心胆を凍えさせるほどの恐怖を孕んでいた。

少なくとも信一郎は声の主を見て、出かかった悲鳴を飲み込んだ。


「涼子、丁度いいところに。信に剣術を教えようと思うのだがどうだろうか。身内を門下に入れると甘やかす者がいては困るし、ここは思い切って黒坂先生のところに入門させるのはどうだろうか、なんとなくだが、信とは相性が良いきがする」


同時に、信一郎は、父がこれ程までに空気の読めない人物だったなんて、と思わずにいられなかった。


「あとは、そうだな、俺の技も幾つか教えるのもいいな。昔、熱田と切りあった時に思いついたのが幾つかある。いずれは俺を超えてくれるかもしれん。楽しみだな!」


輝かんばかりの笑みの信之とは対照的に目を細める涼子の目元は小刻みに痙攣していた。信一郎は、これから起こるであろう両親の修羅場からどうにかして逃げ出すために必死で頭を使うのだった。


佐伯家の庭先の、崩れたブロック塀の隙間から、地面に正座させられ延々と説教を受ける信之の姿がその日の昼過ぎまで近所の住人に目撃されたという。




日も暮れた頃、時計の針は6時を回ったあたり。駅前の飲み屋街の一角に妻の涼子から逃げてきた信之の姿があった。が、その足取りには迷いがない。

飲み屋街を少し入り込んだところにある、純和風の引き戸のある居酒屋の中へと入ってゆく。


「よぉ、ノブ。随分と遅いじゃねーか」


酔いの回った赤ら顔の、大柄な髭面の男が手にしたグラスを掲げて信之に向けて振る。


「悪い。涼子に叱られてな」


信之の言葉に髭面の男は目を丸くする。


「お前、どうやったら涼子を怒らせられるんだ? まぁ、あいつが感情的になるのは良くも悪くもお前に対してだけだったな」


そういう男の名は秋山恭二といって、信之の兄弟子に当たり、同時に血縁上で涼子の叔父になる。三人とも年齢が然程離れてはいないのは、恭二は後妻の子で、涼子の父である人物とは二回りほど年の差があったからだ。


「最近、色々あってな。・・・・・・翔はまだなんだな」


信之は先に来ているであろうもう一人を探してあたりを見回す。


「さっきメッセージが届いてな、もう少ししたら着くそうだ。ま、あいつが来るまでまだある。飲め」


恭二は予め用意していたグラスにとくとくと焼酎をついでいく。


「待ってくれ、恭二、今日は不味い。涼子が晩を用意してくれてるんだ」


「なに、一杯や二杯じゃわかんねーよ。そっちはそっちでちゃんと食えばいいんだ。そうすりゃお前、なんも気にするこたぁねぇ」


恭二は無理やり酒の入ったグラスを信之に渡すと、


「んじゃ、明日からの俺たちの活躍が成功することを祈って、乾杯!」


信之の持つグラスにぶつけた。


そう、この秋山恭二と、佐伯信之は徒党を、言うならばパーティーを組む約束をしている。今ここには居ないが、信彦の甥にあたる(涼子の弟の息子)秋山翔を加えた三人、そして……、


「遅くなりました。って伯父さんたちもう飲んでるんですか」


三白眼の悪人面の青年、秋山翔は驚いたように恭二と信之を見る。


「お前ら来るのがおせーんだ」


「久しぶり。翔君、また背が伸びたようだ」


信之はうんうんと感慨深げに翔を見上げる。


「伯父さんも相変わらず、じゃないですね。傷を隠すの辞めたんですね」


翔の言葉通り、今の信之の顔には刀傷痕がくっきりと見て取れた。左眉の上のあたりから頬の下あたりまで伸びるそれは、かつて熱田という男と果し合いをした際の名残だ。

これまでは、妻から化粧の手ほどきを受けて見えにくいように工夫していたのだが、会社を辞めた今となってはそれも必要がない。


「俺としては、隠しておく意味はないからね。それで、その後ろの方は?」


翔の後ろには、小柄な人影が隠れている。翔自身は180に届くか届かないかくらいの長身なので、その後ろに控える人物は160前後だろうか。


「あれはな、翔の彼女で、今後俺たちのパーティーのポーター役だ」


見れば確かに線が細く、女性に見えなくもない人物は、だが、若干の違和感を持って信之の目に映った。


「辞めてください。彼女じゃないですし、そもそもボクは男ですから」


不愉快そうに言うのは、翔の後ろに立つ人物だ。


「おじさん、前もそれで怒らせちゃったの忘れたんですか」


翔は困った様子でいう。


「ノブなら引っかかると思ったからな。悪かったな坊主」


恭二は悪びれる風もなくがははと笑う。


「体つきからなんとなくわかってたよ。ただ、翔がそっちに目覚めただけかと納得しかけてたけどね」


「伯父さん違いますよ。別に俺はそっちじゃないです。でも、コイツがポーターってのは本当ですよ。因みに古流柔術やってて結構つかいますよ」


苦笑を浮かべた翔は横にずれてポーターをやるという少年を前に立たせる。


「初めまして、伊藤一哉です。これからよろしくお願いします」


少年は信之に向かって頭を下げた。

どうやら、伊藤一哉は翔と同じ大学に通う学生らしく、よく年下に間違えられると苦々しく語った。

きっと女顔に加えて肩口まで伸ばした髪のせいだろう、ならばいっそのこと坊主頭にでもしたらどうか、と言おうとしたが、若者の流行りには疎いことに気が付いて口をつぐんだ。


この日、居酒屋で行われたのは、つまるところ顔合わせである。

翌日からこの四名によってパーティーとしてダンジョンに入る。そのための打合せの場でもある。


立ち回りや、想定外のことが起きた場合のことを話し合ったのち、信之は席を立ち、


「俺はこの辺で帰らせてもらう」


「おう、涼子によろしくな」


三人を残して帰路に就く。


が、当然酒臭さが簡単に抜けるわけもなく、帰宅と同時に見せた涼子の呆れた顔に信之は申し訳なくなるのだった。

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