第2話
「鋭っ」
住宅地の庭に気合いの声が響き、振り抜かれた鉄芯入りの木刀が大気を震わせる。
強烈な一振を繰り出した人物は、胴着上をはだけさせ、上半身裸で木刀を振る。50を目前に控えた中年男とは思えない肉体で、明後日はまさに50を迎える。
そんな男の一振は男の全盛期を越える鋭さと、巧さ、迫力があった。
男の名は佐伯信之。無外流剣友会に席を置き、昼間は企業に勤め、夜は肉体をいじめ抜き、気がつけば己のピークであったと思っていた20半ばの頃を遥かに越える腕前に至っていた。
朝の鍛練を終えた肉体は、2月の寒空のもとでも白い湯気を上げている。信之は固く絞った手拭いで汗を拭う。
「あとふた月、か」
うっすら日の登り始めた空を見上げ感慨深く一人溢す。
信之がスキルを得てから暫くして、国がダンジョンの民間人立ち入りを禁止したのだ。
だが、それでも人目を盗んで侵入する馬鹿な輩は出るもので、死者行方不明者が全国で目に見えて増えていった。出現した森の周辺は侵入者を防ぐために、という事で吶喊で壁が建設されつつあった。施工から一週間程度だが、都内に出現したダンジョンの周囲にはすでに高さ5メートルからなる壁の建設が完了しており、第一号ダンジョンとして国の管理下に置かれている。
また同時に日本刀の使用が目立ったためにそれらを含めた法令の整備が急ぎ行われた。
ダンジョンの出入りに関しては、未踏破地域探索免許証として発布され、来週から免許試験と同時に交付が始まる。交付は二月末から開始だが、ダンジョンの一般解放は年度開けの四月からとなっている。
これら免許に必要な知識と技術は先行してダンジョンの調査に当たっていた自衛隊の蓄積した経験や同伴した学者の知見が大いに反映された。
もう一つ、信之にとって重要なことは、日本刀の入手がある。居合も納めていた信之はかつて幾つか刀剣を所持していたが、40半ばにして、もはや刀を手にすることも無くなるだろう、と同門の後輩達に譲っていたのだ。
手元に残したのは、亡き父から「無外流の門弟となった記念に」と譲られた小太刀が一振のみである。
法令の如何によっては、信之は後ろぐらい方法を取らねばならなかった。が、実際はこれまでの状況と変わりなく、指定された場所以外での使用が厳罰化されたに留まった。信之からすれば何と言うこともない変更である。
その日の昼、信之は妻の涼子と共に新幹線に乗り、岐阜県は関市へと向かっていた。
ダンジョンへ挑むという目的を持ってからすぐに、必要になる、と知り合いの刀匠へと依頼を出しておいたのだ。
「遠くからよく来られましたな」
関口駅の改札を潜れば白髪の、こざっぱりした作務衣姿の老人が出迎える。御歳で72になる刀匠の天川梢奥である。有名な賞の受賞歴こそ無いものの丁寧で実践的な作刀をすることでその道では知られた人物である。
「ご無沙汰しております」
信之は妻と共に頭を下げた。
「前に来たときは、まだ信彦君が健在だったから、もう八年前か。あの頃はもうすでに引退ぎみと聞いておったが、今はどうして、前よりもやれそうじゃないかえ」
信之の佇まいを見て、口許を緩めた。
それから、天川の弟子が運転する車に乗り込んで依頼の品を受け取りに向かうのだが、その最中、
「最近では平田先生や宮田君のところも依頼が多くて組合も含めて予約待ちだとか」
信之がそれとなく話を振れば、
「そうさな、今や作刀家はどこも休みなしだ。半年前に文化庁の方から作刀制限の緩和の話があったからいずれは忙しくなるかと構えておったけど思いの外早くてな。ダンジョン特需というヤツか。信之君はタイミングが良かった。あと1日か2日遅かったら引き渡すのが半年は遅れていたぞい」
天川翁はクックッと笑う。
「値段に目を瞑れば、日本人は刀がまず思い浮かびますから」
「ウチにもやたらと予約の話がくるが、素人がかなり混ざっておる。ダンジョンとやらで一山当てたいのだろうが、まだ一般に解禁されておらんのに気が早いわえ」
「耳が痛いですね」
「ふん、お前さんくらいの腕前ならどこかで試したくなるのも頷ける。それよりもよく今まで人を切らずに居られたものだと感心しておるよ」
そんな、天川翁の含むような軽口に信之は若い頃の自分を思い出して額に汗していた。
「その頃のことは正に若気の至りでして、実際何も起こりませんでしたし、ええ」
「何を言うかと思えば、お主と熱田の坊主が血だるまで切り会うのを、各門派の門弟どもが取り押さえたのを知らぬとでも?」
天川の言葉に、ハンドルを握る弟子の青年がミラー越しに目を剥いて信之を見る。
その事件のおり、三日ほど寝込むことになったが、それが切っ掛けとなって涼子との結婚が決まった。
「お、お恥ずかしい話で……」
信之は頬を赤くして顔を伏せる。信之はそういって畏まっているが、当の果し合いの際、負った傷はなかなかのもので、一部腸がはみ出ていたり、額を切っていたりと、なかなかに凄惨な状況で、少しでも切られた場所が悪ければ信之は死んでいたし、相手の熱田も同じだった。ただ、そうならなかったのは、二人の実力が想像以上に伯仲していたからだ。どちらかの実力が一歩、いや、ホンの半歩でも勝っていても、劣っていてもどちらかは命を落としていただろう。
二人の命があったのも奇跡と呼んで差支えない。今の信之しか知らぬ者にとってはまったく想像も付かない話だ。
「お主が丸くなったのも、涼子ちゃんのお陰と信彦君が言っておったわえ」
天川翁はちらりと、ミラー越しに後部座席に座る涼子を見る。挨拶からこのかたずっと無言のままで窓の外をじっと見たままである。さすがに気を遣おうというものだ。隣に並ぶ信之は何とも言えない表情を浮かべて気遣うように涼子をみるが、反応は薄い。
奇妙な沈黙の後、天川翁が咳払いして、さも今思い出したかのように、
「つい先日だが、件の熱田の坊主が訪ねてきおってな」
「ああ、懐かしい。僕はあの果たし合い以来顔を合わせてはいませんから。聞いた話だと、まだ自衛官を続けているとか」
「うむ、随分と偉そうな肩書きを持っておったよ。……何でも自衛隊の方で昔の軍刀を復活させるのだとか息巻いておった。多くは語らんかったが、どうも、そのダンジョンとやらは銃器と相性が良くないらしくてな。ともかく、若手で有望な作刀家と砥ぎ師を紹介して欲しいと言っていたな」
郊外にある天川の屋敷に着くと、応接間で依頼の品、刀を受け取る。支払いは既に済ませてある。
この場には天川翁と信之の二人きりだ。
「聞くべきかどうか、迷っておったが、涼子ちゃんと何かあったのか?」
天川翁の問いに信之は苦り切った顔を見せる。
「今回、これにボーナスを全てと小遣いの貯金、あとはその月の給料をつぎ込んでいまして………」
「ほ、なるほど、ならば仕方ないわえ」
「今回は気晴らしと観光も兼ねて連れてきましたがこんな調子でして」
「ということは新幹線のなかでも?」
「ええ、一言も口を聞いてもらえません」
こんなこと、結婚以来二度目です、と弱々しい声で言う。
「一度目は?」
天川翁、好奇心に負けてつい訊いてしまう。
「私が引退を決めて刀を知人や弟弟子に譲った時です」
その際、信之は時価で良い値の付くはずの刀をただ同然で譲っている。
涼子が怒ったのは、その刀の中に祖父から譲られたものが混ざっていたからだ。幸いに譲った相手が涼子の弟だったから、怒りも長くは続かなかったが今回はどうなることか、信之には予想もつかない。
「ま、暫くは涼子ちゃんのわがままを良く聞いてやるんじゃな」
天川翁は笑いを噛み殺して、信之の肩を叩いた。
その後、佐伯夫婦は関市で一泊し翌日の昼に関市を後にした。その日は、せっせと荷物もちに精を出す信之の姿があったとか。
それから時が経つこと一月と一週間。その間に信之は会社に退社届を出し、仕事の引継ぎに時間を追われつつ、鍛錬に励み、未踏査地域探索免許証取得のための勉強に精を出した。
2024年4月、信之は無事試験を越えて探索免許証を手にしたのだった。
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