31.桜佐武郎⑥
「手を繋いでみたところで、やはりなにも起こらないようだな」
〈始原〉の異能を〈増幅〉したのなら、なにが起こるか。
その実験は幾度か繰り返し行われた。いくつかの仮説はあったが、そのための実験台がいなかった。新生児などいるはずもなく、異能者でない人間もいない。森の中で男女が手を繋ぐだけの無為な時間が流れた。
「一つ聞くが、これまでに〈増幅〉の効果が及ばなかった異能はあるのか?」
「少なくとも、生徒会で試したうちでは覚えがないな。全員がなんらかの〈増幅〉を示した。が、試行は数えるほどだ。会長は私の異能を切り札だと考えていたからな」
「普通に考えれば、〈増幅〉の余地がある異能であれば効果は表れるはず、か……」
「絶望的に相性の悪い異能なら一つ思い当たる。触れることで相手を死に至らしめる異能だ。私が死ぬ」
「……なるほど」
なにかは起こっているのかも知れない。だが、絶望的とまでいかなくとも、相性の悪い異能同士であるのかも知れなかった。
「坂本タカシの提案を受けるのか」
そして、二人は訣別した。
桜佐武郎は因縁に決着をつけるために去り、鬼丸ありすは一人取り残された。
(終わりか、これで。生徒会を裏切り、桜とも別れ……)
樹を背に、地べたの上に腰を落とした。自らの両の手に目をやる。戯れに、自らの手と手を結んでみる。なにも起きない。〈増幅〉の異能を活かすには相手が必要だ。
(別に私は、会長に卒業して欲しくないわけじゃない)
ただ、会長は死なない。だから結果として学園に留まることになっても問題はないだろうと思っていた。死ななければよいだろうと、安易に。卒業できないというのがどれほどのことか、深く考えもせずに。
(あまりに、無責任な)
それも終わる。ささやかな叛乱は、水泡となって弾けて消える。なら、それでいいか。と、顔を上げる。
「……?」
影が高速で舞っている。ふわふわと雪のように舞う羽虫を、影が捕らえた。木から木へと飛び移り、着地するとまた異常な速度で幹を駆け上がる。
鬼丸が目にしたのは、体長20cmほどの、成獣の栗鼠――エゾリスだ。
森の中で鳥の鳴き声はよく響いていたし、獣がカサカサと動く音も聞こえていた。この島に住むのは人間だけではない。稀に学園内に紛れ込むこともある。ただ、さほど気にしたことはなかった。
(なにを食べるんだ? 虫を捕らえていたが……木の実も食べるのか?)
今度は地面に目を落とす。ミズナラのドングリが転がっていた。
(ん、樹皮を食べているのか?)
なにか音がすると思えば、樹皮を齧って剥いでいた。雑食らしい。暇を持て余した鬼丸は、しばらくそのエゾリスの行動を観察していた。彼女に興味を持って近づいてくることもあった。
毛並みは茶色で、腹部は白い。ふさふさとした尾は体長に匹敵するほど長い。くりくりとした瞳で周囲を忙しなく見渡している。単独行動で、周囲に他の仲間はいないらしい。
そして次第に、やがて決定的に、異常に気づく。
鬼丸は二ノ宮から聞いた話を思い出していた。シベリアトラが異能者として学園に登録されていた、という話だ。実際に、彼は確かに異能を行使した。異能は人間だけのものでなく、動物もまた異能を発現しうる。
その実例を目の当たりにしているのだと、気づいた。
「まさか、これが……!」
立ち上がる。
桜佐武郎とは実験的に何度か手を繋いでみた。〈始原〉を〈増幅〉することでなにが起こるのか、具体的な対象はなくともなんらかの「実感」は得られるのではないかと期待していた。
結果、なにも起こらなかった。そう思っていた。
だが、その範囲内に、気にも留めていなかった小動物がいたのなら。
〈増幅〉の結果、胎児や新生児だけでなく、成体にもその影響が及ぶのであれば。
その意味は。
***
銃声が響いていた。この森の中で。
覚えがあった。ポイントシステムの機能していない今、殺し合う意味はない。この状況下で騒動があるならば、ロシアの工作に関連する。
鬼丸は走った。すぐにでも駆けつけ、これを見せなければならないと思った。
「桜、これだ! これが、私たちの成果だ!」
桜佐武郎とイリーナ・イリューヒナは殺し合っている。
銃を構え、命のやりとりをする戦場で、鬼丸ありすの抱えるものはあまりに場違いなものだった。
それは一匹のエゾリスである。
イリーナですら、その光景には目を疑っただろう。
佐武郎も、鬼丸ありすの正気を疑った。
「行ってくれ」
鬼丸はエゾリスを放った。
本来であれば、彼女が手に持つべきは武器である。であれば、そのエゾリスこそが武器なのだろう。そのように連想することはできた。動物に作用する類の異能か、そうでなければ調教したか。いずれにせよ、排除するにかぎる。イリーナは銃口を向けた。
しかし。
エゾリスの速度が、それを許さなかった。
ただの動物ではあり得ない速度であり、ただの動物が生きるに必要のない速度だった。縦横無尽に、ジグザグに、風を切る。異能者であるなら慣れれば対応できる速度だが、想定外の動きを前に、対応は遅れる。
そして、慣れるより先に。
彼は、跳び上がり、放った。
異能である。
直線上に超音速の破壊をもたらす――それは〈衝射〉と呼ばれる。ただの小動物には、身に余る力である。
「…………!!」
幹を抉り、木の葉が舞い、空を切った。枝が震え、耳が痺れた。対物ライフルに匹敵する破壊が小動物から放たれた。
ただし、あらぬ方向に。
ただの
だが、それで十分。
想定外の異常事態に、ほんの一瞬でも思考が停止したのなら。
事態の理解と、その意味の理解が、ほんのわずかでも敵より早く上回ったのなら。
彼は飛び出し、駆けながら、銃を向けた。狙いは右腕。撃針が雷管を叩き、火薬が燃焼。ガス圧が弾頭を押し出す。反動が遊底を後退させ空薬莢を吐き出す。排莢を置き去りにして駆ける。復座ばねが次弾を薬室に送り込む。その間、約0.2秒。
亜音速の銃弾は、敵の右上腕を掠めて背後へ消えた。
彼女も即座に構え、彼を迎え撃った。狙いよりもまず、引き金をひく。フルオートで撃ちながら狙いを修正する。彼の二射目が、肘に食い込む。それでも、彼女が銃を手放すことはない。接近してくる敵を外すことはない。腹部を、胸部を、胴体を。数発が掠め、あるいは深々と、弾頭は防弾服に阻まれながらも、骨に亀裂を、内臓に衝撃をもたらした。
それでも、止まらない。
三射目は外れた。使い切った銃は捨て、そのまま詰め寄る。腰に下げたナイフを抜いた。大腿四頭筋が、下腿三頭筋が、大地を蹴る。異能のもたらす過剰出力が、大地を抉る。反作用で、跳ねる。
その気迫を前に彼女は退き、踵が樹の根にかかる。一瞬の、ほんのわずかな、姿勢の崩れ。彼にとってまたとない好機。勢い任せの突撃が、彼女を捉える。
全体重をぶつけ、倒し、のしかかり、振り上げる。狙いは――眼球である。
「ぐっ」
いつもリッシュを言い訳にしてきた。
リッシュのために金が要る。そのためには暴力という職能で稼ぐしかないと、自分に言い聞かせてきた。
ある異能者は料理を極めた。ある異能者は歌った。ある異能者は災害救助に尽力した。本当は、暴力以外にもなにかできたのではないか。楽な道を選んで「仕方ない」と、よりによってリッシュを言い訳にして。
(終わりだ、もう。リッシュのために――ではない)
ナイフは、腕を刺し貫いた。彼女が咄嗟に眼球を覆って守ったからである。
手首の骨に、刃と握りの境にある
阻まれた。しかし、まだ。
ナイフの刃渡りは20cm。腕を貫いたまま命に届く。彼は力を緩めずにそのまま押し込む。彼女もまた抵抗する。腕を十字に交差させ、力のかぎり押し返す。
叫ぶ。咆哮する。激痛に血肉が軋む。呼気のために肺が裂ける。胃に穴が空き、腸が捻転している。腎臓にも鈍い痛みが走る。食いしばる歯が折れる。身体が燃えるように熱い。
(生きなければならない。俺は)
全体重を押しつけ、踵と太ももで挟みこみ抵抗を制御する。彼女が右に左に身を捩り揺れるたびに傷が痛む。悪足掻きのようで堪える。一瞬の気の緩みですべてが崩れる。吸気の間もなく酸素が尽きる。全身が悲鳴を上げている。それでも、ただ。
ただ愚直に、力を込める。筋繊維がぷちぷちと千切れていく。互いの骨が弾性限界を迎えようとしている。みしり、ぱしりと、ナイフから異音が鳴る。
(リッシュと共に)
手先が痺れる。蒸気のように力が抜けていく。じりじりと押し返されていく。余力の差は歴然。握り締める爪が割れる。だが、それでも。
幾重にも「それでも」を重ね、血管を沸騰させる。どれだけ負けそうでも、死にそうでも。底が渇いて果てても、戦う。
ぱきり、とナイフが鳴いた。
(そして、“その先”のために)
押し合いに、骨に掛かっていた
「うお、あ……!」
人間用につくられた道具は、異能者による極限戦闘を想定していない。
「ああああああ!!」
ただ、強引に力を込め。血を滲ませながら。肺に残った酸素をすべて燃やし。全身は蒸気を発するほどの熱を帯び。ただ一点を、押す。刃先は眼球を貫き、脳へ到達。ずぷり、ずぷりと、飲み込むように。根元まで。そして、ついに。
「はぁ、はぁ、……が、……!」
血を吐きながら、彼もまた倒れる。
だが、うつ伏せはまずい。自身の体重で肺が圧迫される。力を振り絞り、彼はなんとか仰向けに転がった。
生きるために戦った。死ぬわけにはいかない。骨が折れ、内臓はぐちゃぐちゃだが、それでも、まだ生きている。
敵を斃し、生き残ることができた。
『だ、大丈夫!? さぶろー!』
「……ああ」
そしてこれからは、ただ生きるだけではない。
やるべきことが見つかった。なにかのために戦うことができる。
「終わったのか」
鬼丸ありすが傍まで歩み寄り、見下ろしながら問う。
異なる能を得たエゾリスは、森の中どこかへ消えていた。
「いや……」
桜佐武郎は肘でかろうじて上体を起こし、返した。
「はじまった」
そして、また寝転がる。「ぷっ」と、吹き出す笑い声が聞こえた。
『あのさ、さぶろー』
「なんだ」
『さぶろーってさ、なんかいっつもカッコつけてるけど……別にカッコついてないからね?』
「な……」
何気ない、深く抉るような、突き刺す言葉だった。
「そうか。カッコついてないか。俺は」
『うん。だから好き』
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