30.桜佐武郎⑤
イリーナ・イリューヒナの異能は「弱い」。
少なくとも、彼女自身はそのように考えている。
発動条件は「対象の背後をとる」こと。その効果は「特定の事柄について思考能力を著しく低下させる」こと。それが彼女の異能〈白楔〉だ。
桜佐武郎には何年も前から仕掛け、市瀬兄妹率いる“烏合の衆”に潜入する際にも利用した。
彼女がこの異能を「弱い」と思うのは、効果が絶対的ではないからである。あからさまに怪しい行動は「疑い」を抑えきれぬことがあるし、他者の指摘によって「気づいて」しまうことがままある。機関員を対象に実験を繰り返し、彼女はその特性を理解していた。
弱いが、使い方次第だ。これまでの経験則からいって、あの日あのとき、桜佐武郎が「疑い」「気づいて」振り向く可能性は極めて低かった。「銃を向ける」ことは確かに強い「疑い」を生じさせる。それでも、時間はかかる。桜佐武郎の遠隔知覚にはわずかながら
桜佐武郎の異能には不可解な点が多い。彼は自らの異能を「遠隔感知」の類いであると説明し、事実そのような実績を残してきた。彼の言動を素直に信じるなら、感知系としてその異能は「弱い」部類に入る。範囲は狭く、時間もかかるからだ。
能力を過小に偽ることは難しくない。彼の持つ異能は単なる感知系ではない。そうでなければ辻褄の合わない振る舞いが多く見られた。騙していたはずが騙されていた。痛恨の油断だった。
なにか、まだ秘密がある。
彼女は警戒を強めた。
***
(イリーナ……! もうやって来たのか!)
佐武郎は銃を構えた。両手で、狙いを定めて。
一方、イリーナは
構えて撃つまでは一秒もかからない。自動小銃をフルオートで撃たれれば狙いは定かでなくとも脅威だ。ゆえに、佐武郎の有利はほんのわずか。距離もまだ遠く、拳銃の射程とは言い難い。
それでも、当てられはする。訓練はしてきた。
呼吸を止め、刹那に極限の集中力を。アイアンサイトを覗き、佐武郎は引き金をひいた。
(くそ、やはり……)
イリーナは
(頭だ。額を撃ち抜くしかない)
が、思い返す。
あのとき、確かに頭を撃ち抜いた。
それでも、彼女は死ななかった。
(改造手術を受けている……そんな馬鹿な話があるのか……?)
ありうる。なくはない。捨て駒の予定で作戦内容も正確に知らされていなかった。イリーナのこともなにも知らない。拳銃ではどこを撃っても殺せない。
それでも。
撃つしかない。
「…………!」
異質な金属音が響く。
額を捉えたはずの.45ACP弾は、無慈悲に弾かれた。
ただ、かすり傷を負ったように、じわりと、血が滲む。
彼女の表情は変わらない。そのまま止まることなく彼女は歩み続ける。そして彼女は、なにも言わずに、その歩みを止めぬままに、小銃を構える。
「うおあっ」
背後の坂に、転がり落ちるように逃げ込む。
フルオートで発射された7.62mm弾が幹を削り、地に刺さり落葉が舞う。うち、一発が佐武郎の肩を抉り、一発が防弾服越しに肋骨に響いた。
(追撃してこない……?)
樹に背を預け、息を整える。
『あ、また銃を下ろしたよ』
佐武郎は駆けた。イリーナに背を向け、思い切り逃げた。あたかも、背後に目があるかのように、樹が射線を切るよう計算し、全力で逃げた。
だが、一度見つかった以上は追跡される。どうあっても痕跡は残る。逃げ切ることはできない。それもわかっていた。
(いっそ島の外へ……いや、もう遅い。船があるわけもなく、筏を用意する時間などない。泳いで逃げるなど論外だ)
迎え撃つしかない。手持ちの武器だけで戦うしかない。
「はぁ、はっ……は……ぐっ……!」
息が苦しい。呼吸のたびに骨が痛む。肋骨に亀裂骨折が走っていた。
『んー。ひとまずは振り切ったかな? 私からでも姿は見えない』
「だが、追ってくる。確実に。どこかに潜んで、奇襲を仕掛けるしか……」
準備が、あまりに足りない。
イリーナは初めから佐武郎を殺すつもりだった。佐武郎は直前でこれに気づき、奇跡的に紙一重で回避した。
イリーナは死んでいなかった。佐武郎がこれを知ったのが二日前。決断までにも時間を要し、星空煉獄と接触するまでにも時間を要した。
なにもかも遅きに逸している。
『さぶろー! 後ろ!』
反射的に振り向き、撃った。
弾丸は男の額を貫いていた。それはナイフを手に持ち、命を狙っていた刺客である。〈潜伏〉の異能者だ。樹の幹から上半身だけが這い出て、佐武郎を狙っていた。リッシュのために、佐武郎はまたしても命を拾った。
「くそ、やはり仲間がいたか……!」
一人目は運よく斃せた。だが。
『さぶろー! 左!』
敵は一人ではない。佐武郎は即座に構え直す。伸ばした右腕を左腕で支え、次なる敵の姿を捉えた。
(あれは……〈暴風〉の異能者!)
手のひらをこちらに向け、構えている。それが発動条件なのだろう。局所的に突風を発生させる異能は、たしかに強力だ。しかし、銃の方が早い。
そのはずが、トリガーを引く人差し指が、空を切った。
「!?」
右手から拳銃が失われた。
その現象には覚えがあった。あのときも、彼らは三人で襲ってきた。
〈窃盗〉の異能者だ。遠方より発動条件を満たし、残る佐武郎の武器を奪った。すなわち、目視できる対象と同じ
銃を奪われたなら、佐武郎にもはや「早さ」はない。
〈暴風〉が襲う。立つこともできぬほどの風に吹き飛ばされる。足は地から離れ、目も開けられず、遥か後方まで、天地上下を失うほどに振り回され、後頭部を強かに打った。
「……ポイントシステムは復旧してるらしいが、いま殺すのか?」
気を失っていたのは数秒か。朦朧とした意識の前に、二人の男がいた。
「まだあと一週間はある。1000Ptを得て生き延びられるか?」
「星空煉獄はマジで生きてたしな……」
「というか、どっちが
「とりあえず適当に縛って……いや、生きてる方が危険だろ。俺らどっちがポイントを得るにしても、俺らのこと星空煉獄は知らねえって。逃げ切れる」
有象無象が狼狽えている。あえて非致死性の〈暴風〉による攻撃にこだわったのもこのためだ。彼らは佐武郎を襲うだけ襲って、「その先」を考えていない。処遇の判断が定まっていないのだ。
『さぶろー? 起きた?』
気絶からの覚醒が早かったのもリッシュのおかげだ。なにもかもリッシュに助けられている。
(身体は……動くな。やつらは俺の覚醒に気づいていない)
目を瞑ったまま気を失ったふりを続けていても、リッシュを頼れば敵の位置はわかる。そして武器もある。吹き飛ばされる直前で拾った、〈潜伏〉の異能者が手にしていた
一気に立ち上がり、振るう。〈窃盗〉の頸動脈を切り裂く。〈暴風〉がすかさず構える。だが、あまりに遅い。ナイフを横に滑らせ、肋骨の間から心臓を一刺しにする。
(勝った。いや……)
なにも終わってはいない。肋骨の痛みに悶えている場合ではない。
『さぶろー! 右!』
反射的に動くも、敵が早い。
7.62mm弾が、佐武郎の右膝を撃ち抜いた。
「ぐっ……!」
すぐに死角へと隠れる。まだ動ける。だが、もはや走れない。敵の距離は。
『200mくらい。歩いてきてる』
足を奪い、接近してから確実に仕留めるつもりだ。樹が生い茂り起伏に富み、死角の多い森の中で、狙撃は難しい。それでも、イリーナは200mの距離から当ててきた。
(イリーナはまだ俺を警戒している。リッシュを知らないからだ)
そこにつけいる隙はあるか。あるいは。
(銃は取り戻せた。肩を撃たれた。肋を折られた。頭を打った。膝を抜かれた)
満身創痍だ。勝機は欠片もない。
こうなっては、下手に逃げるほどに傷が悪化し、より不利になる。
イリーナが距離を詰める。ゆっくりと、確実に。
じわじわといたぶる趣味もない。尋問して聞く内容もない。躊躇う理由もない。ただ命を奪うのに確実な手を容赦なく選ぶ。対し、悪あがきによって生きながらえている。
それもあと数分も経たずに終わる。心臓が氷の槍で刺されたかのように冷える。
拳銃の残弾は三発。再装填の暇はない。
『100m……まだ、銃は持ってるだけ』
イリーナの打つ手を読まなければならない。
ただ距離を詰めて
(手榴弾。ありうる。だとすれば、どこへ逃げる?)
躱せても死角からは炙り出される。炙り出されれば狙い撃ちにされる。
(手榴弾なら投げるまでに隙ができる。リッシュの目があれば、死角に隠れたままその隙をつける)
だが、隙をついたところで、三発が全弾命中したとして、イリーナは斃せない。頭部は急所ではなく、首はマフラーとネックガードに覆われ、胴体はボディアーマーに守られている。
(残る、確実な急所は――)
目だ。
標的としてあまりに小さい。あまりにも細い勝ち筋。
『50m……! さぶろー!』
交戦距離だ。高鳴る心臓を吐きそうになる。頼りない最後の綱が、手汗で滑り落ちそうになる。
「桜!!」
期せずして、それは挟み撃ちの形となる。
その声に、イリーナも足を止め背後を伺った。
「お前に見せたいものがあって、ここまで来た」
戦場に飛び込んできたのは、最後の戦友。
鬼丸ありすである。
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