18.地下迷宮②

 体長230cm。体重400kg超。巨大な雄の羆である。

 黒に近い茶色の剛毛に覆われたシルエットは、闇そのものが姿を得たかのようだった。

 雑食である。だが、同時に凶暴な肉食獣でもある。鋭い爪は易々と肉を引き裂く。馬や牛などの大型哺乳類の脛骨を一撃で叩き折る力を持つ。人間もまた羆にとっては手ごろな獲物にすぎず、内臓はおろか骨も噛み砕いて貪り食う。

 猟銃を手にしてなお、人間にとって羆はおそるべき相手である。羆は重く、太く、そして速い。頼りの銃弾も急所に命中しないかぎり仕留めることはできない。

 この状況にが遭遇したなら、致死は確実である。


 であれば、異能者にとってはどうか。

 異能者は人間と比べるなら卓越した身体能力を持つ。それでも、異能者もまた人型の動物に過ぎない。体格のよい成人男性で体重は100kg前後。その場に立つ彼女らはせいぜい60kg前後に過ぎない。

 まず、体重が圧倒的に違う。質量はそのまま力となる。そして、羆にとってその質量は「重し」ではなく、自在に駆動できる肉体である。

 異能者もまた、そんな野生動物と対峙することを想定していない。異能者を含め、この地上に生息するどんな生物にとっても羆は脅威である。


「グルォォォォ……」


 羆は立ち上がり、威嚇した。天井に頭部を擦りつけるように、大きく。その態勢は同時に攻撃に転化する。鋭い爪を伴う左腕を、そのまま無造作に振り下ろすだけで人という小さな命は断たれる。

 その前に。

 二ノ宮狂美が動いた。

 決して高くはない天井で、器用に身を翻しながら、全身の筋肉を総動員して、両斧を叩きこむ。


「グオオゥゥ!?」


 骨の折れる音が、たしかに響いた。

 だが、それでも。羆の命には届かない。

 羆と遭遇した場合。やむを得ない最後の手段としては、「逃げる」ことより「戦う」ことが推奨される。羆に背を向け逃げ切ることは不可能だからだ。それより、鼻先を狙うなど痛みで怯ませ退散させる方が生存率は高い。

 野生の羆であれば、それでよい。野生動物は「使命」を持たない。抵抗する獲物にあえて執着する理由はない。

 だが、は違う。彼は怯まない。大島ざきりの熱狂者ファンだからだ。彼には使命がある。「迷宮の侵入者を排除する」という命を第一とし、ついでに肉を漁る。彼は腹を空かせていた。


「グアァォゥ!!」


 いうまでもなく、羆に格闘術の概念はない。だが、ただのしかかるというだけ、いかなる格闘術をも上回る威力を有する。体重で動きを封じ、あとは力任せに命を絶てばよい。

 二ノ宮狂美も怯まない。彼女もまた獣であり、箍の外れた獣であるからだ。


「ひゃあ!」


 羆の動きに合わせ、両斧を振り上げる。次なる狙いは、心臓である。

 大きな衝突音と、骨の砕ける不快な音が響いた。炭化タングステンの斧は羆の胸部に突き刺さり、その体重は狂美の膂力によって支えられていた。その一撃は分厚い皮膚と筋肉を貫通して胸骨と肋骨を粉砕し、心臓と肺に致命の楔を刺した。


「よしっと」


 狂美は斧を抜き、身を躱して崩れ落ちる羆の死体を避けた。ずしん、と力を失った大質量が地に倒れ伏した。


「変なの。最近の地下はクマが出るのかな?」


 本気とも冗談ともつかぬ口調で、こともなげに迷路攻略のための位置へ戻っていく。


「うっそ~……」


 片桐は呆然としていた。羆とどう戦うかを脳内でシミュレーションしてるうちにことは終わってしまった。拳銃は一応あるけど通じないよねとか、蹴りでどうにかなる気がしないけどどうしようとか、考えるだけ無意味だった。


「ねえ、ありす。羆って勝てる?」

「無理だな。手持ちの装備では心もとない。そのへんに転がる土塊でも投げれば戦えるか、とは思っていたが」

「こわ~……。会長でもやれる? 羆って」

「どうだろうな……」


 二ノ宮綾子の刀は鉄ですら断ちかねない鋭さがある。だが、現にこうして羆の質量を目の当たりにして、果たしてこれを断てるのか。その疑問は拭えない。


(いや、会長ならやれるか)

「開通~」


 ひそひそ話に興じていた二人を尻目に、狂美は直進を続けていた。そして広い空間へと辿り着く。二人も慌ててその後を追った。


「ひっ、ひひっ。来たね。来ちゃったね。生徒会」


 分厚いレンズの丸眼鏡をかけた、姿勢の悪い小柄な女だった。髪もボサボサで服の配色も薄く、総じて野暮ったい。

 ――梨深川みりり(一年) ざきり☆ファンクラブ 1Pt――


 鬼丸らは、彼女を見てというより、彼女の側にある棺桶を目にし、彼女が目標の〈呪縛〉異能者だと確信した。


「お姉ちゃん?」


 棺桶に眠っていたのは、二ノ宮綾子と見紛うほどの瓜二つの人形である。普段、彼女を前にする生徒会の執行部ですら当惑する出来栄えである。共に同じ姿勢で並べられれば、区別がつかないのではないかと思えるほどに。極めて精巧で、美しく、薔薇の敷き詰められた棺桶はいかにも似つかわしかった。


「ひひっ、ひひひ……」


 梨深川みりりは動かない。生徒会の刺客が四人姿を見せたにも関わらず、引き攣った笑みを浮かべたまま動かない。その態度は余裕なのか、錯乱なのか。


(どっちでもある? なんか、すごくグチャグチャした思考だなあ)


〈聴心〉の異能を持つ片桐をもってして、即断しがたい異質さだった。


「この人かな。じゃあ――」


 ただし、相手の態度がいかに不可解であろうと、二ノ宮狂美には関係ない。悠然と歩みを進め、そのまま斧を振るう。


「ひっ――」


 が、阻まれる。

 勢いよく迫り上がってきた土の壁に、狂美の進撃は止められた。


「そこまでだ生徒会の外道ども! てめえらの命運はここで終わりだ!」


 啖呵を切るのは、男。ソフトモヒカンの男だ。複雑な迷路を建造せし、土に干渉し操る〈土奏〉の異能者。強力で利便性の高い異能であった。が。

 当たり前に壁を破壊して突き進んできたのだ。一枚増えたところで、狂美にはどうということはない。同様に破壊し、道を拓く。目標の梨深川みりりの脳天へ、無造作に振り下ろす。


「ひひっ」


 梨深川みりりの得物は炭素繊維製のトンファーであった。単調で読みやすい狂美の攻撃に対し、素早く十字にクロスするようにして構える。しかし。

 狂美の斧は、そんな防御を易々と打ち砕いた。炭素繊維を裂き、腕をへし折り、頭蓋を砕き、脳を潰し、その勢いのまま顎を抜けて喉を割き、肋骨を上から順に砕き折り、肺と心臓を潰しながら、柔らかな消化器官をぐちゃぐちゃにして、鈍な斧の刃先は恥骨から抜けた。最後に、地面にすとんと落ちる。

 鮮やかさの欠片もない、力任せの両断である。


「やったー」

「な、なんなんだ貴様はぁ!」


〈土奏〉の異能者が吼える。主として建築に有用な異能であるが、それは大質量に運動エネルギーを与える異能でもある。つまり攻撃にも転化できる。建設現場での事故がときに死を招くのと同じことだ。彼はその事故を意図的に起こすことができる。

 地面からではなく、天井から土壁を落とすように生やす。重力と異能の勢いで、敵は地面とに挟み潰される。

 そのはずだったが、狂美はこれを叩き砕いて回避した。身を躱すのではなく、その場からは動かずに迎え撃った。


「な、あ……」


 狂美にはその方が楽だったというだけだ。敵の戦意を喪失させることは計算にはない。


「ほい」


 横に、無造作に振るだけで。

 首が飛んだ。

 首を切断したわけではない。側頭部を打ち抜きながら、引き千切ったのだ。柘榴のように脆く、を撒き散らしながら、原型を失った頭部は壁に叩きつけられ、さらに見る影を亡くした。


「これでいいの? これで終わりかな?」


 狂美が振り返り、確認する。

 鬼丸も片桐も言葉を失っていた。羆のときと同じく「どんな敵か」「どんな罠があるか」「どう戦うか」とあれこれ考えていたはずなのに、ぜんぶ無駄になってしまったからだ。なにより、あまりにも呆気ない終わりに拍子抜けしていた。


「……うん。〈追跡〉対象が消滅した……これでいい、はずだよ……」


 代わりに答えたのは及川みくだった。冷静だったというより、もとより戦うつもりがなかったためだ。


「やったー。で、この人形は?」

「待て。〈呪縛〉はもう異能者が死んだことで解けたのだろう。ならばこの人形は」


 あまりに美しすぎる。あまりに精巧すぎる。至高の芸術品とさえ言える。ならば。


「え、うそ。まさか持ち帰るとかいうの? よしんば持ち帰れたとして会長にはなんていうの?」

「じゃあ壊すね」

「ああっ!」


 鬼丸ありすの夢は一瞬で崩れ去った。


「ていうか、ありす。そういう場合じゃないからね。最後にあいつの心を聴いたけど、この迷路崩れるらしいから。死に際にいくつかの支柱に亀裂入れたらしくて、あたしら生き埋めになるんだって」

「なに」


 揺れを感じる。言われなければ気づかぬ程度ではあったが、地下迷宮は確かに崩れようとしていた。


「出るぞ!」


 鬼丸は素早く駆け出した。確実に崩壊を免れるのは入り口――練武場の直下しかない。、直線状に脱出路トンネルができている。ゆえに、走れば間に合う。鬼丸はそう思った。だが、各人の反応はそれぞれ違っていた。


「狂美ちゃん?!」


 呆然と立ち尽くしていた狂美に片桐が気づく。自分の手で壊した姉を模る人形になにか思うところがあったのか。〈不死〉なので倒壊に巻き込まれても死ぬことはない、と気づいて考えを改めるのに数秒を要した。それが、彼女の命運を決した。


「な……片桐?」


 振り返ると、そこに片桐の姿はない。狂美もいない。崩れ落ちた地下空間だけがある。共に逃げてきたのは及川みくだけだった。

 二人は急いで地上へ戻る。グラウンドの一角が陥没していた。改めて、地下空間の広さを知った。


「埋まってしまったのか、片桐……!」


 どのような状態にあるのかわからなかった。掘り起こせば助かるのか。地下迷宮の構造と照らし合わせて、どこで逃げ遅れたのか。


「及川。片桐の位置はわかるか?」

「ん……こういうのは、わからない……」


 こんなとき片桐がいれば、と矛盾したことを考える。


「どこだ! 片桐! 片桐ー!」


 まさかこんなところで死ぬとは思えない。思いたくはない。だが、手遅れになることもありえる。鬼丸はがむしゃらに土を掘った。素手のまま、爪が破れようとも。


「あはっ。どしたー? 手伝ってあげよっか」


 背後より声がかかる。その軽口に、鬼丸は一瞬期待した。が。

 そこにいたのは、ジャージ姿の女。右目に眼帯。毛先の縮れた長髪。悪意に満ちた薄ら笑み。

 ――魅々山迷杜(三年) メテオ 51Pt――


「散歩してたら、騒がしかったから様子を見にきたんだあ。もしかして、楽しいことになってる?」

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