8.火熾エイラ
火熾エイラの異能〈発火〉は、文字通り対象に火をつける――厳密には、対象の温度を急上昇させるものである。
射程は8m。ただし、これは身体の末端から、という意味である。すなわち、腕を伸ばせば腕のぶんだけ射程は伸びる。
着火までには二秒かかる。これは、二秒かけて発火点まで温度が上昇するという意味ではなく、対象に二秒意識を集中することで一気に発火点まで温度が上がることを意味する。
燃焼とは光と熱を伴う急激な酸化反応のことだ。すべての物質が燃焼するわけではないし、発火点も物質によって異なる。火熾エイラの場合は物質の種類に問わず約1000~2000℃の温度上昇を引き起こすことが可能だ。
火は人間の文明と共にあった。火を扱うことはおよそ誰にでもできる。無手で無人島に放り出されるならともかく、文明社会においてはマッチでもライターでも気軽に手に入れることができる。その点で、「異能ならでは」の強みは弱いといえるかもしれない。彼女と同じことは、異能に因らずとも再現できるからだ。
だが、そのために用意すべき燃料・装備はいかほどか。ガソリンが数ガロンあれば足りるだろうか。テルミット反応を伴う焼夷弾なら十分だろうか。本来ならそれだけの準備が必要になる被害規模を、火熾エイラは単身で実現できる。体重60kgに満たない少女が、なんの装備も伴わずに。
多くの異能者がそうであるように、彼女もまた「兵器」に分類されるべき人間なのである。
「くそ、ダメか、ここまでやって、くそっ」
ただし、彼女がいま敵対する相手もまた同様。
的場塞も紛うことなき「兵器」である。
火熾エイラは周囲一帯を延焼させ、木々に火をつけ、木の葉に火をつけ、戦場を火の海に変えた。鬱蒼と茂っていた森の天井に穴があき、今は星の輝く夜空が見える。
ただの人間であれば、飛んで逃げるほどの火災である。留まり続けることは死を意味する。服に火が燃え移るだけで大惨事だ。この世の終わりを連想させるほどの光景である。
だが、その夜の相手は的場塞であった。火熾エイラを兵器に例えて「焼夷弾」とするなら、的場塞は「戦車」だ。分厚い装甲に覆われた戦車に対し、焼夷弾ではいくらも心許ない。
(それでも、直接発火させられれば……!)
発火には二秒の集中がいる。動き回る対象が相手ではこれが難しい。直接発火に成功すれば戦車の装甲でも貫通できると火熾エイラは自負している。実際の戦車であれば火はつかないが、融点には達する。そして、的場を戦車とするのはあくまで喩え。頑強な装甲を持とうが、その実は人間。人体であれば燃やせるはずだ。
だが、発火させるつもりで躱されれば大きな隙ができる。なにもできないまま終わる数秒が生じてしまう。ゆえに、彼女は最初から直接発火を諦め、周囲を延焼させることでの牽制に専念していた。まだ射程内まで敵が近づいてもいないのだからなおさらである。
(近づいてこない……警戒しているのか?)
メテオのメンバーは全員が高ポイントなだけあり、過去二回での卒業式でも積極的に動いてきた。そして、その数々の戦績から異能をおおよそ推定するだけの材料は揃っている。
的場塞のそれは防御系に類する。肉体の硬質化――あたりが、おそらく表現として近い。これまで的場にはあらゆる攻撃が通じなかった。また、その異能は攻撃に転ずることもできる。拳を硬質化させたなら、それはまさに鉄拳である。
ただし、「弱点」まではわからない。だからこそ彼らは「最強」を維持できているのだ。
(それでも、なにかあるはず……!)
たとえば、彼は火を恐れているように見える。というより、おおよそすべての生物にとって火は恐るべきものだ。炎で焼かれて死なぬ生き物はいない。異能による装甲を持つ彼も、それは例外ではないのではないか。
だとしたら、勝算がないわけではない――
「え?」
急に的場はそっぽを向き、近くの樹木に向かって手刀を振り始めた。一回、二回、三回……両方向より
的場は無造作に切れ目から木を折り、無造作に捥いで抱えた。そして20mはあろうかという樹木を、そのまま放り投げたのだ。
「うそだろ――!」
火熾は慌てて避ける。速度は大したものではない。しかし、脅威度がただごとではない。巨大な質量の暴力を前には、逃げる以外の選択肢はない。
その直後に、敵がとるであろう動きはある程度予測できた。視界を塞ぐほどの質量を投擲し、慌てて姿勢を崩す彼女に対し距離を詰め、本命の一撃を加えるのだと。
だが、予測できていたとしても。
体幹を持ち直すための隙は大きく、敵の動きはそれ以上に速く、行動予測の精度も高かった。
「ぐぁ……はっ!」
かろうじて、防御は間に合った。
腹部への重い一撃。両腕を交差させ、全身の筋肉を硬直させた最大限の防御。当然のように両腕はへし折れ、衝撃は内臓の奥深くまで伝わり、火熾エイラの肉体は大きく跳ね飛ばされた。ぐるりと世界が急回転し、放物線を描いて地面へ叩きつけられる。数tのトラックにでも衝突された交通事故のようなありさまだった。
「……! げはっ、ぐぇっ! が、がぁ……! ぶはっ!」
吐血。横隔膜が痙攣している。内臓がぐちゃぐちゃになっている。両腕はもう使いものにならない。脊椎にも鈍い衝撃を受けた。呼吸がままならない。それでも死なずに済んだのは、制服の下に着込んでいた耐衝撃性に優れるケブラー繊維製のベストのおかげだった。
「が、がはっ! ぐ、ぐふぇっ! げぇ、げぇ……」
悶え苦しむあいだにも、死神の足音は迫る。のたうち回っても助からない。立たねば。立って向かわなければ。
戦うために生まれ育った異能者である火熾エイラの生存本能は、恐怖や苦痛に打ち勝って最適解を導き出せる。しかし、肉体にそれが可能であるかは話は別である。
「…………」
的場塞はやや距離をとって、その様を見下ろしていた。すぐに追撃してトドメを刺さないのは、やはり警戒しているからか。
「ぜぇ、ぜぇ……がはっ、はぁ、は……、あ、頭を殴らなかったのは……おれの、異能を警戒、したのか……?」
立てない。脚が痺れて動かない。それでも、なんとか言葉を絞り出す。わずかでも時間を稼ぎ、延命するために。
「バレてるなら、仕方ねえが、……おれ、に触れれば、一瞬で消し炭だからよ……」
肌に触れることを発動条件とする異能は多い。火熾エイラの〈発火〉もまた、直接触れることで瞬間発火を可能とする。それは彼女にとって逆転の一手だった。
しかし、的場塞相手にも本当に通用するのか? 彼の装甲を貫いて致命傷を与えうるのか? あくまで慎重に立ち回る彼は、それを試す機会を与えない。
もう勝負はついた。このまま頭を踏み潰されて終わりか――そう思っていた矢先。
「森には」
的場が口を開く。もっとも、背を向けて倒れていた火熾にその表情は見えない。
「一年が複数潜伏していた。なにか知らないか」
話せることを示したのが功を奏した。理由は不明だが、彼は“森の九人”に執着しているらしい。
「ひ、一人は……、おれが殺した。あとの三人は、知らねえな……」
あえて嘘を混ぜる。6+1+3=10。数が合わない。引っかかり、尋問を続けるならそのぶんだけ延命できる。
「そうか」
だが、的場は乗らなかった。すべてを見透かしているかのように、ただ短く言葉を返しただけである。
(ダメか……ブラフにもかかりゃしねえ)
這ってでも逃げるか。あるいは、せめて向きだけでも的場へ向かうか。
彼女が〈発火〉を使用するに際し手を伸ばすのは、単に射程を伸ばすために過ぎない。対象へ集中するためのルーチンも兼ねているが、発動に必要なわけではない。ただ、必要な手順であると周囲に思い込ませられるなら儲けものだと、彼女はその手順を欠かすことはなかった。
(実際は、対象を見ることさえできればいい……!)
問題は距離だ。8m内まで近づいているのか。向き直ることで警戒度を上げてしまわないか。二秒もの猶予を与えてくれるとは到底思えない。
(だが、もう……一か八か……!)
もはや一欠片ほどしか残っていない余力を振り絞り、火熾は倒れながらも的場の方へ向きを変えた。
「マジかよ」
頭を踏み潰されることを警戒していた。靴越しでは〈発火〉は通じず、そのまま
しかし、的場は違う。火熾の異能を完全には把握していない以上、迂闊には近づかない。圧倒的優位な立場にあっても自信に溺れず、慎重に確実な手段をとる。
彼は、先ほど投げ飛ばした樹木を再び拾い上げ、大きく振り上げていたのだ。
(死――)
「待たせたわね」
影が、夜に舞った。
散った木の葉に火がついて、夜に闇を彩っている。
美しい黒い髪を靡かせて、彼女は哀れな下級生を掬い上げていた。
「エイラ。そこでおやすみなさい」
振り下ろされた樹木の槌から、後方数m。火熾エイラは生存し、その人の背を見ていた。
「両腕が開放骨折。吐血から見て内臓にも重度の損傷。立ち上がれないのを見ると、脊椎もやられてる?」
彼女は火熾エイラの状態を看取して、その怪我を負わせた相手に怒気のこもった声をかけた。
「塞。そんなに死にたかったのなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
悪鬼に立ち向かう英雄のような、神話のごとき美しい光景だった。死に瀕する痛みも忘れて、火熾エイラはただ見惚れていた。
――二ノ宮綾子(三年) 生徒会・会長 39Pt――
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