第44話

 年末である。


 今年最後の妖魔退治を蛇谷家管轄のエリアで行い、龍神に気を使いながら自宅の大掃除を敢行し、今年中にしなければならない仕事はすべて完了した。


 最近あまり休みが無かった気がするので大晦日だけは絶対に家でゴロゴロすると決めていたのだ。


 朝のシャワーを終えてから2階に上がり自分の部屋のベッドにダイブし、スマホの電源をつけて動画サイトのアプリを開いてヘッドフォンを装着する。食事や睡眠が不要になったせいで今の私の娯楽は何かを見たり聴いたりすることに偏っているのだ。



 そんなわけで大晦日である今日、わたしは昼過ぎまで音楽を聴いたり映画を見たりして過ごした。この身体になってから肩こりのような肉体的な疲労はほぼ感じなくなっているのだが、人間だった頃の名残が残っているせいか定期的に筋肉をほぐしたくなる時がある。


 ちょうど今見ていた映画がエンドロールに入ったところでヘッドフォンを外して背中の筋肉を伸ばす。ふぅと一息ついたところで自宅の外からガランガランと聞き慣れない音がした。

 いや、聞き慣れないというのは正確ではない。蛇谷神社の本殿に備え付けられた本坪鈴の音なので私は何度も聞いたことがある。けれども、私が自宅にいる状態でこの音を聞くのはかなり久しぶりだった、そのためすぐに答えに結び付かなかっただけなのだ。


 大晦日にわざわざ駅から徒歩30分のうちの神社まで来てくれる参拝客がいることに少しだけ嬉しくなる。龍神のいる自宅のすぐそばまで一般人が近づいていることを不安に思わないことも無いが、私の両眼をもってしても外から龍神の気配を察することは不可能なのでまあ大丈夫だろう。


 一応念のために龍神の様子を見に行こうとした時、再び鈴の音が鳴らされた。

 ……連続で二人も来るなんて珍しい、いや先程と同じグループの人なのかもしれない、と半ば現実逃避的に思考を飛ばしたところでまた鈴の音がなった。


 ……。


 いや、もう誤魔化すのはよそう。

 私だって気がついてる。列に並ぶくらい多くの人がうちの神社を訪れているのだということくらい分かる。でもその事実を認めた瞬間私の仕事が増えてしまうのが嫌なのだ。


 昨日の12月30日だって参拝客はほとんどいなかった……、いや昨日は裏山の妖魔を討伐してから日没ギリギリに戻ったので神社の境内の様子なんてほとんど見ていなかった気がする。もしかして昨日もそれなりに参拝客はいたのだろうか?


 サンダルを履いて玄関から出る。蛇谷神社の境内と私の一軒家は裏口で繋がっているので、こっそり裏口の戸を開いて様子を確認する。


 境内にはかなりの人数の人が詰めかけていた。

 本殿まで向かう行列は鳥居の向こう側の車道まで続いているように見える。……そっと戸を閉じて自宅に戻る。



「嘘でしょ……何でこんな大人数? 妖魔が湧くエリアの境界ギリギリの神社に?」


 もっと市街地の退魔師と関係のない安全な神社だっていくらでもあるのに何で大晦日にわざわざこんなところまで来てるんだよ。そういう神社だときちんと大祓式もやってるだろうに。


 数人の参拝客が自己責任で来てくれるぶんにはまったく構わないのだが、こんなに人が集まってしまうと私の責任問題にもなりかねない。


 日本人の妖魔への忌避感が昔よりも薄れて来ているのだろうか? 


 あるいは蛇谷水琴が守護している地域なら安全だと高を括っているのかもしれない。私がそれだけ信頼されている証と言えなくもないのだが、それはそれで彼らの安全意識の低さに閉口してしまう。『妖魔ハザードマップ』とか見たこと無いんですかと聞いてみたい。


 もちろん参拝に来てくれるのは嬉しいのだけれど、ここまで大人数が詰めかけるのは平和ボケが過ぎるのではと少し不安になる。



 Twitterを開いて『蛇谷神社』とエゴサーチをしてみると、何人かの参拝客と思しきアカウントの投稿が見つかった。


『大晦日に蛇谷神社きた!』

『元日も行くつもりだけど、今日は水琴ちゃん居ないみたい』

『今年最後の御朱印欲しかったけど残念、明日またリベンジだ』

『正月三が日は水琴ちゃんが神社にいるらしい、大学の同期に聞いたわ』

『俺も水琴ちゃんと自撮りしてぇ』

『水琴ちゃんいないってことは奥の自宅にもいないのかな、年末まで妖魔退治とか大変そう』



 どうやら以前うちの神社に来てくれた大学生の三人経由で私が三が日は神社にいるという情報が拡散されてしまっているらしい。さすがに自撮り写真まではアップロードしていないみたいだけれど、ネットでの噂だと正月三が日に蛇谷神社に行けば私に会えるというのが確定情報として扱われていた。



 ……とりあえず大晦日の今日は大人しくしておこう。

 今から境内に上がったらパニックになりそうだし。


 今できることがあるとすれば、明日社務所に置く予定の御守りと御朱印のための朱肉と墨汁の準備だろうか。

 数える程しか人のこない神社で空でも眺めながらぼけっと過ごすつもりだったのだが、今年のお正月はそういうわけにもいかなそうだ。





 ■■■






 日が傾きはじめたところでお風呂に入った。

 湯船に浸かりながら今年一年間を振り返ると、本当に色んなことがあったものだと改めて実感する。


 春に両親が殉職し、夏に龍神に陵辱され、秋に九州の鬼神を討伐し、初冬にはリヴァイアサンと戦った。


「このままでいいんだろうか」


 龍神を討伐するという目標が、私の中で徐々に優先順位を下げつつあるということは自覚している。夏の終わりに抱いていた奴への殺意も今はだいぶ薄れていて、かろうじて退魔師としての職責が『龍神を殺せ』と背中を押してくるのだが、私個人の感情はそれに抗いつつある。


 ……右手を湯船から出して自分の後頭部を撫でる。


 龍神の夜伽は基本的に容赦がない。

 こちらの体力など全く考慮してくれないし、やめてと言ってもやめてくれない、女としての尊厳を破壊するような発言を強要されることだってある。行為の最中に涙を流した回数などもはや数え切れない。


 特にわたしが霊力を過剰に消費したときの罰なんて、語るのもおぞましいような陵辱の刑に処されるのだ。一晩の時間を何倍にも伸ばされて輪姦されるわ、絶頂したままずっと放置されるわ、記憶を無くすほどの何かをされるわ、本当に、あの男だけは絶対に許さない。

 そう思っているはずなのに……。



 ……もう一度、自分の頭を自分で撫でる。  



 龍神は行為の中でたまに私の頭を撫でてくる。

 大体は私の奉仕的な行為が上手くいったときに撫でてくるのだが、最初の方はそれをされてもむしろ馬鹿にされていると怒りしか湧かなかったのに、最近は喜びの感情が真っ先に私の脳内を染めてしまう。



 意識が朦朧としている疲労困憊の状態で頭を撫でられると、何とも言えない達成感というか、幸福感が心の裡から自然と沸き起こってくるのだ。その時の私は腑抜けたような、疲れた笑みを浮かべていることが多い。自分が笑っていることに気づくとすぐに表情を引き締めるようにしているのだが、その後また激しく責め立てられて意識が朦朧とした状態で頭を撫でられると、それでまた私は喜んでしまう。

 最近の夜伽はそれの繰り返しになることが多い。



 たった半年足らずでこの有様だ。


 これを10年、20年と続けられてしまったら、私はもう心の底から奴の性奴隷になってしまっている気がする。『抱かれたかったら、人を殺してこい』、仮にそんな要求をされたとして100年後の私はそれを断れるだろうか。


 頭を撫でていた右手を下ろして手のひらを見つめる。

 白く細く柔らかい女の掌だ。


 私の頭を撫でる龍神の手を思い起こす。

 節くれ立って、大きく、わたしを乱暴に責め立てるあの掌が黒髪越しの頭部にあたる優しい感触、ほんの少し想像しただけなのに多幸感が湧いてくる。



 その情動の流れを遮断するために右手を湯船に叩きつけた。


 ふざけるな、こんな意味の分からない感情が私の中にあってたまるものか。ストックホルム症候群という心理現象があることは知っているが、そんな簡単な言葉で今の私の心のあり様を表現してほしくは無かった。




 湯船から上がって浴室を出る。

 バスタオルで髪の水分を拭き取ってから、それを身体に巻く。ドライヤーで自分の黒髪を乾かしているといつの間にか以前よりも髪が伸びていることに気がついた。前は肩にかからないくらいだった後ろ髪が、肩甲骨の上あたりまで伸びている。温風をとめて洗面台に向き直る。


 鏡の向こう側には完全な女がいた。


 あ、なんかここの髪の毛変な跳ね方してるな、直そうと思って鏡に顔を近づけて櫛とドライヤーをあてて整える。

 一通りの準備は終わったと、その満足感を抱えたまま衣服を着ていく。


 黒色の下着に、最近買ったばかりの少し可愛らしいデザインの浴衣を羽織って帯を締める。

 帯の蝶々結びが上手く決まったところで改めて鏡に向き直ると、そこに映る私は極めて自然な笑みを浮かべていた。

 ……ああ、自分ってこんな笑い方出来たんだと少し驚いた気持ちになる。



 9月の頃の私はこんな風じゃなかったはずだ。


 汚されるのが嫌だから下着なんて着けていなかったし、浴衣だっていつでも捨てられる着古したものを着用していた。

 お風呂上がりに鏡の前で長時間、自分の顔とにらめっこすることも無かった。



 ……。


 下着をつけるようになったのは龍神にそうしろと言われたから。……いや、あの時はその晩だけで良いといった口振りだったので2回目以降は自分の意思で着用していることになる。


 浴衣を新調したのだってリヴァイアサンで儲けたお金の使い道があまりにも無かったから、自分のために何かを買おうと思って購入したに過ぎない。……今思えば、本当に自分のためだけだったと言えるだろうか? 浴衣のデザインを選ぶだけであんなに時間をかける必要がどこにあった?


 鏡の前で身嗜みを整える時間が長くなったのは単に髪が伸びたことが理由だろう。……じゃあ切ればいいじゃないか。あ、いやでも巫女としてはある程度の髪の長さは必要だしなぁ……。



 洗面台に両手をついて溜息を吐いた。

 というか、先程から私は誰に言い訳をして何のために反駁しているのだろう。考えすぎて少し疲れた、さっさと寝所に向かおう。


 夜伽さえ始まってしまえば、何も考えずに済むのだから。





 ■■■








『反省文


 わたくし、蛇谷水琴は龍神様の巫女という大役を仰せつかっておきながら、他の男性に色目を使い誘惑するという罪を犯しました。またそれだけに飽き足らず、気を遣る寸前のところまで己の欲望を発散させてしまったことを、ここに謝罪致します。まことに申し訳ございませんでした。

 今後、このようなことが無きよう他の男性との接触には細心の注意を払うとともに、引き続き龍神様のご寵愛を賜われるよう誠心誠意つとめを果たしていく所存でございます。

 反省の証として本書を提出致します、ほんとうに申し訳ごさいませんでした。


 万和ばんな4年12月31日

 蛇谷水琴』








「ふむ、これが書道2段の腕前というのなら実に趣深いな、そうは思わんか?」


 蚯蚓がのたくったような文字で書かれた反省文をヒラヒラと摘みながら、龍神はそう呟いた。

 龍神が手に持っている半紙には毛筆で反省文がしたためられているのだが、その文字はお世辞にも読みやすいものとは言えなかった。


 文字の大きさはバラバラで、文字列の並びはかなり歪んでいる。寵愛の『寵』の文字など、もはや読める人間のほうが少数派だろう。

 書道2段の達筆を誇る水琴にしてはあり得ないことで、彼女なら左手で書いたとしてもここまで酷い出来にはならない。



 また、その半紙にはかなり汚れが目立った。


 墨汁ではない何らかの液体と思しき水滴による染みがところどころに散見されるのだ。……涙というには、すこし粘着質な液体の染みのように見える。



「……」


 龍神にそう問いかけられたものの、一糸まとわぬ姿で土下座する水琴は何も応えない。畳におでこをピッタリとつけた彼女の頬は真っ赤に染まっており、唇の端からは甘い吐息が漏れている。


 尋常でない様子の水琴はときおりピクピクと身体を震わせながらも、それでも決して土下座の体勢を崩そうとはしなかった。


 白く綺麗な背中をさらけ出して平身低頭する彼女の横には丁寧に畳まれた浴衣と下着、そして先程まで使用していた硯と筆が置かれていた。もちろん、これは明日の御朱印のために用意していたものである。



 ……彼女のお気に入りの筆は、なぜか掛け紐のあたりの軸の部分がべっとりと濡れていた。



 時差結界である半透明な闇色の壁の向こう側、寝所の壁掛け時計は23時59分59秒を指したまま秒針が止まっており、結界内部の隅の方には書き損じた反省文の紙が山のように積まれていた。



「やはり今年の禊は今年のうちに終わらせるのが一番だな……さて、姫始めといこう」


 そう言って龍神が時差結界を解除すると、時計が動き出し日付が変わった。


 龍神が姫始めと言った瞬間、水琴の背中がピクリと動いたが、そのときの表情は畳の上に伏せられており窺い知ることはできなかった。





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