第35話
リヴァイアサンに逃げられた。
こんなに一気に潜行できるとは思っていなかったというのもあるし、ここまでずっと無反応だったのだからこんなすぐに私から逃げるとは考えてすらいなかったのだ。
足元には青い海だけが広がっていて、未だリヴァイアサンの霊力の残滓が濃い海水の中を泳いで戦闘するというのも現実的ではない。
「ここまでか……」
本音を言えばリヴァイアサンはここで討伐しておきたかった。亜空間に消えたあとのリヴァイアサンは次どこに現れるか全くわからないからだ。もちろん税金の支払いのためにリヴァイアサンの妖結晶を手に入れておきたかったという気持ちもある。
腰に取り付けていた無線機から連絡が入った。
『お疲れ様です蛇谷さん、海上自衛隊がリヴァイアサンの亜空間転入を観測したそうです。つまり撃退成功です』
「ありがとうございます、とりあえずほっとしました」
今回はじめて使用したが『琴天津の剣』の性能も大方は把握できた。テレビを見ているであろう龍神にこの霊具の存在がバレてしまったのは少し不満だが、それは最早気にするべきではない。
(この霊具じゃ、どのみち龍神は倒せなかっただろうな)
リヴァイアサンもやはり龍神よりも遥かに弱い妖魔だった。その程度の妖魔を一撃で倒すことすら出来ない時点でこの霊具で龍神に有効打を与えることは不可能だろう。
落胆しつつも鬼神の角を材料にしているのだからその程度の威力でも仕方がないと一人納得する。琴天津の剣は期待外れの霊具だったし、リヴァイアサンの妖結晶も手に入らず、得られたものは退魔師としての名誉のみ。
税金問題を解決できるかもしれないという希望が足の先から流れ落ちていくような気がするとともに、つい一昨日まで抱いていた社会的な絶望感が背中から這い寄ってきた。
だがそれでも、ここで満足しておくべきなのだ。無駄なリスクは犯すべきではない。
そんなことを考えていると不意に風が吹いて、腰に取り付けていた巾着袋の中でこの場に持ってきたもう一つの霊具が揺れ動いて緋袴越しの太腿を擦った。
……潜行しているリヴァイアサンを倒す方法がないわけではない。本当に雑な案で必ずしも上手くいくとは限らないし、その方法を行使するとすれば恐ろしく大規模な儀式となってしまう。
昨晩から考えていた手段だがあまりにもリスクが大きい。消費する霊力の量が尋常ではないから今夜の夜伽はまた数カ月間に時間を引き延ばされて凌辱されることだろうし、そこまでしてリヴァイアサンを仕留めきれなかったら泣くに泣けない。
冷静に考えればリヴァイアサンは撃退で満足しておくべきなのだ。問題を先送りしているだけではあるが、一応この場での最低限の仕事は果たしたのだから文句は言われまい。……
『蛇谷さん、帰投しますか?』
上空を滞空するヘリコプターから再び無線が入った。
戦闘後の私への気遣いが感じられる問いかけ、それに対する私の返答は理性から導き出されたものではなかった。
「すみません、やっぱりリヴァイアサンはここで仕留めます」
巾着袋から念の為持ってきた
勢い任せの自傷行為だが半霊体化しているおかげであまり痛みを感じないのが幸いしている。
突き抜けた錐の先端から滴る鮮血を海に垂らしながら、私は戦闘を続行した。
■■■
鍛冶川家の屋敷の一室、巨大なモニターテレビの備え付けられた和室に大勢の人間が詰めて座っていた。彼らはみな一様にテレビに映る映像に釘付けになりつつ、密かにモニター最前列に座る一人の老人の様子を伺っていた。
その老人、鍛冶川鉄斎が製造した霊具である『琴天津の剣』が堅牢なリヴァイアサンの鱗にヒビを入れたとき、周囲に座る男たちは感嘆の声を上げたが、鉄斎本人はなんの反応も見せずテレビを見つめるままであった。
そしてリヴァイアサンと蛇谷水琴の戦いは一気に終局を迎える。緊急ニュースのテロップでリヴァイアサンが海中の亜空間に潜り込み始めたことが報じられたのだ。
誰もがこの戦いはこれで終わったと思った。
水中を泳ぎながら戦うなど現実的ではないし、そこまでして追いかけて、せっかく撃退したリヴァイアサンを引き戻すのも勿体ない。
次にどこから現れるかわからないものの、とりあえず目の前の脅威は取り除くことができた。その結論で大半のものが満足していた、……鍛冶川鉄斎と蛇谷水琴を除いて。
テレビに流れる蛇谷水琴の自傷行為、および霊的儀式、それを見た鍛冶川家の分家衆の男たちは口々に己の意見を言葉にし始める。
「流れる血に沿って霊力を放出するなんてありえない、死ぬ気なのか!?」
「正気じゃない、蛮勇を通り越して無謀としか言いようがない!」
「……命懸けでリヴァイアサンを討伐する、それが彼女の意志なら尊重すべきでは?」
「リヴァイアサンの撃退はほぼ確定しているんだぞ! トドメを刺すためとはいえ蛇谷水琴氏の命は惜しい、あまりにも……」
あるものは驚愕と共に怒りを、あるものは諦観と共に尊敬の念を表しながら口々に己の思いを語りだす。
混沌とし始めた場の中で一人、鍛冶川鉄斎だけが全く別のことを考えていた。その表情は普段の鍛冶川家当主としてのものではなく、一人の技術者としてのものだった。
「……そうか、何も子を成すことだけが血を分ける方法でもあるまい」
左手から血を垂らす蛇谷水琴の映像を見つめながら鉄斎はそう呟いた。その後しばらく、鉄斎は綺麗に整えられた顎髭を触りながら何かを思案する。テレビ、畳、障子と視線を移しながら、その流れが自分の左手に行き着いたところで何らかの結論にたどり着いたらしい。鉄斎はそのまま立ち上がり、周囲に座る分家衆の男たちの視線を無視してその部屋を出ていってしまった。
異様な静けさが室内に満ちている中で、鍛冶川京華がこう呟いた。「海が、鏡になってます」と。
それが事実だと気づくや否や、部屋に残された人々は顔を見合わせつつも、とりあえずテレビを視聴し続けることにしたようだった。
■■■
左手のど真ん中に突き刺さる
……思考が乱れた。
落ち着いて霊力の流れをコントロールすることに集中する。これからやる事それ自体は難しくない。子供の時からなんども修行の一環としてやってきたことなのだから。
修行のときと今の違いは、使用している道具が毛筆と墨か、霊石錐と血液かの違いでしかない。
(やり始めたはいいものの、発動するタイミングが難しい)
リヴァイアサンは今も亜空間に潜行中で少しずつ遠ざかっている。かといって、それに焦って中途半端な状態で術式を発動してトドメをさせなければ意味がない。
すでにかなりの量の霊力を消費している。今夜の龍神から受けるであろう折檻に思いを馳せると気が遠くなりそうだった。
……だから思考を乱すなって、集中しろ。
すでに私の視認する範囲での海面上からは波が消えている。よくSNSとかに投稿されているウユニ塩湖風の景色のように、海面はそのまま空に浮かぶ雲を写し出していた。
鏡のようになった海面に私の血が垂れるたびに波紋が広がっている。その波紋に合わせて聞き慣れた音が徐々に私の耳に届き始めた。
少し貧しさを感じる音色だが、間違いなく水琴窟が響かせるそれと同じだ。この規模の儀式でも問題なく私の言霊呪名は効力を発揮したらしい。
音の調律を合わせるイメージで波紋と共に響く音色を理想的なものに近づけていく。
連なること七度、私の理想とする音域の音色が響き渡ったところで機が熟したことを直感した。躊躇っている時間すら惜しい、リヴァイアサンは今もなお亜空間に沈みつづけているのだ。
左手から霊石錐を引き抜いてすばやく巾着袋にしまい、右手に握っている琴天津の剣に霊力を込めながら足元の結界を解除する。重力に身を任せ、風すら吹かなくなった洋上を落下していく。海面ギリギリのところで分断術式を発動した。
「
割れた海の奥底で、今度こそリヴァイアサンの妖結晶まで私の術式が届いた感触があった。
その手応えに満足しながら、私は海の裂け目に落ち続けた。
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