第12話
*** 12 ***
そして遂に、“それ”は現れた。
暗雲を裂いて地上に肌を晒したそれは、巨大で、煩雑で、純白だった。
清涼な風を纏いながらも、腐った果実の匂いを漂わせていた。
形容するのならば、絶えず歪み蠢く、白く滑り輝いた肉の神殿。
神々しくもあり、禍々しくもある。
そんな人智を超えた存在が、宙に浮かんでいた。
電波塔の頂上に立ってその現界を目撃した遊び人──ユダは、うっすらと目を細める。
──なんだ? この感覚。
遠巻きに眺めているだけでもわかる、圧倒的にバカげた魔力量。
それは神秘省から半ば強奪するように取り寄せていた、前回の堕天使に関する資料に目を通していたユダの想定を遙かに上回るものだった。
だが、ユダが戸惑いを覚えたのはその点に関してではない。
──歴史に癒えない爪痕を刻んだ災厄の堕天使様ってのは・・・・・・こんなもんなのか?
想像以上に驚いていない自分に、驚いていた。
いや、驚いているだとか驚いていないだとか、そういった類の表現は正確ではない、より正確に表現するならば、まるでこの感覚は──そう、既視感。
──俺はこいつを・・・・・・いや、こいつとよく似た存在を、ずっと前から知っている。
ユダは思わず頭を掻きむしる。
「なんだってんだ? この馴染み深さ、親しみやすさはよぉ?」
しかし次の瞬間、そんな違和感は頭から吹き飛んだ。
堕天使の巨躯が強く発光すると同時に、体表にいくつも空いた孔から、どす黒く濁った魔力の塊が出現した。
一斉にこれらを放出すれば、それだけで街一つは一瞬で消し飛ぶだろう。
そんな柄でないことは自覚しつつ、思わずユダは端末越しに、この国の最高権力者へと確認する。
「おい、一応聞いておくが、近隣住民の避難は済ませてあるんだよな?」
「ええ。ひとまず半径一〇〇キロ圏内でしたら。もっともあの堕天使に対しては、些か心許ないですが」
「はっ、確かに本気で堕天使様から逃げようってんなら、大気圏脱出くらいは目指さねえとな」
現に前回の堕天使出現においては、討伐に成功するまでにユーラシア大陸の形が大きく変わってしまい、世界中の地図を書き換える羽目になったほどだ。
その圧倒的な魔力が凝縮された弾丸が地上に向けて放たれんとした、まさにその瞬間。
堕天使に向かって一直線で突き進む、一体の飛行物が現れた。
遊戯者は嗤う。
「ようやく、おでましってわけかい」
──その飛行物の正体は、一本の箒だった。
その箒の先端には一人の少女が腰掛け、更にその背後には一人の青年が器用に両足で立っていた。
それはさながら、御伽噺に登場する魔法使いのように。
「いくぞレイ。最後の戦いだ」
「
「──
空飛ぶ箒を赤い波紋が包み込み、流星のように尾を残しながら緋色の光弾は突き進む。
そのちっぽけな飛行物体に向かって、堕天使は体の孔から強大な魔弾を何百発も砲撃した。
いかにドールがその体内に堕天使の肉片を宿しているといっても、所詮は一欠片に過ぎない。
もはや無尽蔵の魔力を有する堕天使本体とは比ぶべくもない、圧倒的な魔力量の差が存在する。
しかし魔術師の戦いにおいて、魔力量の多寡はそのまま勝敗に直結しない。
堕天使はその身に宿している膨大な魔力を、ひたすら撒き散らすだけの存在。
しかし魔術師は、その魔力をより効率的に、より理想的な形で出力するための回路を構築する。
ましてや魔術の第一人者、トーリ・“ワイズマン”の最高傑作たるドール・レイ。
彼女の
速度、威力、弾数、全てにおいて回避不可能であるはずの数百発の魔弾をいともたやすく掻い潜り、緋色に輝く流星は堕天使へと肉薄する。
「──
「──絶対禁止呪文・大殺界」
世界は暗黒に包まれた。
術者であるレイの意識だけを残し、太陽光を含めた全宇宙に存在する全物質の時間が停止したためだ。
幾千、幾万、幾億もの見えない刃が不可視世界から召喚されると、コンマ零秒差で堕天使を切り刻む。
呪文の発動が終わる。
世界に光が戻る頃には、粉々になった堕天使の肉片は真っ赤な雨となって地上へと降り注いでいた。
「あぁ!?」
ユダ・“リーパー”はついに困惑を抑えきれず、激しく顔を歪めた。本来、賭博師たる彼が内なる感情を素直に表情に出力することなど滅多にないはずだが、今回に限ってはあっさりとその閾値を振り切ったというのだから、彼の胸中は推して知るべしといったところだろう。
しかしその困惑は決して、レイと堕天使の攻防が知覚できなかっただとか、レイがあからさまに禁止呪文を使っただとか、堕天使があっさりとやられただとか、 そんな表面上の些事に対してではなかった。
ユダが困惑を覚えた──いや、この際はっきりと断言しよう──驚愕した理由は、今こうして地上に降り注ぐ堕天使の肉片一つ一つから、ユダがよく知る信号が発せられていたからだ。
それは賭博師たるユダが、生き死にを賭けた大一番の勝負において幾度となく見てきた“信号”。
──何だ? この嘘っぽさは。
それは過去の映像に映っていた堕天使であったなら、決して晒すことは有り得ない“表情”だった。
何故ならば堕天使とは、世界に存在する魂の総数を減らす、ただそのためだけに地上に出現した“機構”に他ならないのだから。
「こいつが一体、何の嘘をついて、」
ずぶり、と湿った音を立てて。
背後からユダの左胸を、ほっそりとした白い腕が貫いた。
「・・・・・・っ、あ、」
「──ユダ? どうかし」女王の声が途切れる。
からりと床に転がり落ちた端末が、白魚のような裸足に踏み潰されるのを視界の隅に捉えた。
──ちくしょうが。
普段ならすぐに気付くはずの、あまりに安直な不意打ち。
だが、半径数キロに及んで降り注ぐ肉片が発する“嘘臭さ”に紛れ込んでいたせいで、背後に出現した殺気への反応が遅れた。
しかしそれでも、ユダはこの遊戯をできる限り最後まで見届けなくてはならない。
それは義務感でもなければ使命感でもない。そんなもの、生まれて一度も背負ったことはなかった。
ただひたすら、好奇心故に。
自分の胸を貫く細腕を両手で掴むと、そのまま可動域ぎりぎりまで首を捻って、背後の相手を確認する。
「うわ。すごい気迫。厄介なのに観察されているのはすぐわかったから、真っ先に始末してみたけど・・・・・・やっぱり正解だったみたい」
──こいつが、さっきわざとらしく派手に飛び散った堕天使の本体・・・・・・“核”ってわけか。
それは、見知らぬ顔の女だった。
しかし、その喋り方には、どこか聞き覚えがあった。
その表情にも、どこか見覚えがあった。
その白い痩せぎすの体は、ボロきれのような黒い布で覆われていた。
地上に吹きすさぶ風には一切干渉されない不規則な揺らめきから、その黒い布は肉体から溢れ出る魔力によって、むりやり具現化されたものだとわかった。
口内に溜まった血を吐き出しながら、ユダは問いかける。
「あんた、名前は?」
背後に佇む黒衣の女は、淡々と答えた。
「玲衣」
「かつては災厄から国を救った偉大なる魔法使い──今はしがない堕天使ってとこかしら?」
「──はっ、そういうことかよ」
これでようやく、諸々の疑問が氷解した。
かつて討伐を果たしたトーリ・“ワイズマン”によって、すでに『魂弾』という攻略法が判明しているはずの堕天使が、懲りずに地上へと出現した、その理由。
たとえ人間があるウイルスに耐性を持ったワクチンを開発したところで、時が経てば更にそのワクチンを上回る、より強力なウイルスへと変異する。そのサイクルと理屈は同じだったのだ。
かつて『魂弾』によって滅んだ堕天使はそれでも尚、地球上の魂を減少させるべく、『魂弾』に耐性を持った進化を遂げる必要があった。
そんな自然界にありふれている摂理によって、かつて『魂弾』として堕天使に撃ち込まれた玲衣という人間の“魂”は、堕天使という“機構”に組み込まれた。
最初から“魂”を有している存在となれば、もう外部から撃ち込まれる“魂”によって存在を根幹から揺るがされることもない。
──どおりで一目見た瞬間、堕天使様の雰囲気に、驚くほど違和感を覚えなかったわけだ。
たとえ本質的には世界の“機構”に過ぎないとしても、必要があれば“魂”を所有して、人間のように振る舞う。
そんな前例を、ユダはずっと前から見知っていた。長年、一緒にテーブルを囲んで茶を飲み、チェスに興じていたというのに。
堕天使にも同様の変化が起きえないというのは、とんだ読み違えだった。
「・・・・・・さっきの堕天使様らしからぬ、『死んだふり』も・・・・・・最初から作戦だったってわけかい」
ひゅうひゅうと血の味が混じる呼吸を浅く繰り返しながら、ユダは尚も“堕天使”玲衣へ問いかける。
「ええ。さっきからそう言ってるでしょ。で、他に質問は? なければもう、サヨナラするけど」
そう言って玲衣は、その指先から業火で形作られた龍を召喚した。
ユダは唇の端を曲げて力ない笑みを浮かべる。もはや呆れを通り越して笑うしかなかった。魔術に疎い自分でも、一瞬で理解できる。あれは立派な高等魔術だ。それもそうか。かつてはあのトーリと比肩すると謳われた一線級の魔術師、その魂を組み込んだのだから。当然ながら前回の堕天使と違い、ただ力任せに魔力をぶちまけるだけではない。極限まで研ぎ澄まされた回路を得たわけだ。
さっきまでの考えなしに魔弾を撒き散らすだけの戦法も、全てフェイクだったということか。
皮肉な話だ。かつて愚かな人間を一掃するために地上へと出現した堕天使が、より人間へ近い境地へその身を堕とすことで、より厄介な存在へと進化を遂げるとは。
──だが、それでも尚。
「じゃあ、最後に一つだけ聞くけどよぉ・・・」
「何?」
「俺みたいな非戦闘員にばかり、気をとられていて大丈夫か?」
──
刹那、天地が逆転した。
否、そう錯覚するほどの認知が追いつかぬ速度で、玲衣の体が背負っていたはずの重力が消失した。
──え?
ごしゃり、と鈍い音を立てて。
玲衣はその脳天から、地面へと激突した。
頭頂部から爪先にかけて稲妻のように走り抜ける、猛烈な痛みと吐き気。そして疑問。
──ばかな
いったい、
なんの、
まじゅつを
??
「魔術じゃねえよ」
その一言で、ようやく揺さぶられた玲衣の意識がわずかに定まり、そして気付く。
自分の腰に、女の両腕が巻き付いていることに。
何故『女』とわかったかというと、その両腕は肩から手首にかけ豪奢なドレスに覆われていたからだ。
──ずっとあの人間のそばで突っ立っていた、鎖に繋がれていた女のドール!! 彼女が背後から私の腰に手を回して、魔術も何も関係なく、頭からむりやり地面に叩きつけた!? 馬鹿な、でもそれって、
「──バックドロップッ!?」
「へへ、四ヶ月かけてイヴちゃんを“調整”した成果が──レスリングのジムに通ってもらった甲斐があったぜ」
堕天使の肉片が埋め込まれた、六体のドールによる戦い。
あるいはその先に待っている、第二次堕天使討伐戦。
いずれにしてもその戦いの本質とは、膨大な魔力を有する堕天使の肉片、それをどう運用するかに他ならなかった。
必然的に、人気女子プロレスラーが運営するジムに大金を積んでドールを弟子入りさせ、四ヶ月かけて魔術戦に関係のないプロレス技を習得させる行為など、今回のゲームにおいては何一つメリットがない、愚行に他ならぬはずだった。
しかし、無意味こそ遊戯の本質。
誰も警戒するはずのない飛び道具こそ、仕込んでおく価値がある。
これがただ普通に肉片の魔力を応用しただけのよくある反則技『
現に今、人間を滅ぼすべく地上に遣わされたはずの堕天使様は、突然のバックドロップにこれ以上ないほど混乱している。
──こんな、ふざけた技で・・・・・・っ!
よろめきながらも鈍痛に襲われる頭を抱え、立ち上がろうとする玲衣。しかしそんな彼女の両足は容易くイヴの蟹挟みによって転がされ、そのまま流れるようにイヴの両腕は玲衣の頸動脈に、両足は玲衣の両股に巻き付き、裸締めの体勢へと移行した。
イヴの両腕に込められた万力はぎりぎりと機械のような精密さで玲衣の頸動脈を圧迫していく。
胸に穴が空いた瀕死の重傷で血を吐き散らしながらも、ユダは楽しそうに野次を飛ばした。
「ほら、どうしたどうした。早く何とかしないとオチるぜ」
「・・・・・・ッ!」
「なあ堕天使様よぉ、もしかするとアンタも、天上のお偉いさんに命令されて地上に降りてきただけのパシリに過ぎねえのか? 『世界のバランスをとるために人類を滅ぼせ』ってよぉ。だとしたら伝えておけ、『余計なお世話だ』ってなぁ・・・・・・!」
「・・・・・・ッ!」
「何千年も何万年も昔から、人間ってのは勝手に殺し合って、潰し合って、減らし合うようにできてんだよ・・・・・・! ま、せっかくこんなところまで降りてきてくれたってんだから、今回は特別に『
「な、め、るな──!」
頂点に達した憤怒は束の間の明鏡止水へと切り替わり、未知の鈍痛に乱れていた玲衣の脳内に、簡易的な魔術の計算式を走り書きさせた。
元より、奇策によって掴んだ優位など長続きはしないものだ。
玲衣が背中から生やした氷の翼は、背後から密着していたイヴの体を紙屑のように呆気なく貫いた。
そして玲衣は気付く。
万策尽きているはずのユダの唇に、浮かぶはずのない笑みが浮かんでいることに。
しかし玲衣は気付かなかった。
たった今自分が貫いた背後のドールの唇にもまた、浮かぶはずのない笑みが浮かんでいることに。
イヴの胸中に生じる、未知の衝動。
──「覚えたところで、九十九パーセント役には立たねえだろうな」と、ユダ様は仰っていた。
──たくさん練習して、たくさん汗と血を流して、身につけたプロレス技。
──ほぼ確実に失敗するか、隠したまま終わるはずだった技。
──来る日も来る日も練習ばかりして、たくさん痛い思いをした。先生にもたくさん怒られた。でも練習中に飲んだポカリスエットは、おいしかった。
──そんなバックドロップが、役に立った。華麗にキメることができた。
──ああ、これがユダ様の仰っていた、“賭けに勝つ”感覚・・・・・・。
刹那、イヴの臓腑の奥深くから沸き起こる、根源的な熱の塊。
「気分はどうだい? イヴちゃん」
「──トキメいてしまいます」
堕天使の肉片を埋め込まれたドールによる、“魂”の到達。
その不条理から生じる爆炎が、イヴ、ユダ、玲衣を蹂躙し、焼き尽くした。
「──まさか、自分のドールに魂を獲得させ、爆発させることまで、策に組み込んでいたとはね・・・・・・」
常軌を逸している。
つい先ほどまで玲衣の頭を占めていたはずの怒りや屈辱は綺麗に霧散し、今はただひたすら敬意だけが残されていた。
ずるずると地を這いながら、玲衣は静かに呟く。
「だけど残念。どれだけ人間が足掻いても、私は物理的な攻撃では殺せない・・・・・・そういう風にはできていない」
腰から下が消し飛び、両腕も肘から先が欠損しながらも、玲衣は生きていた。
今は飛び散っているこの肉体も、時間が経過すれば元通りに再生するだろう。
──そして私は予定通り、何も変わらず人類を滅ぼし続ける。
──それが今の、私の役割。
「
不意に頭上から声が降り注ぎ、玲衣は天を仰ぐ。
そこに立っていたのは、銀髪赤眼の少女。
さきほど爆散したイヴと同じドール──かつての堕天使の肉片を埋め込まれたドールであり、また自分自身と同じ魂の欠片が埋め込まれた存在でもある、レイが立っていた。
そして何故かレイの背中には、かつての玲衣の相棒であった男、トーリ・“ワイズマン”が、力なく手足を放り投げた状態で背負われていた。どうやら意識を失っているらしい。
まあ、今の自分にはどうでもいいことだが。
「あら、誰かと思えば私のパチモンちゃんじゃないの。一体どんな気分かしら? 人生に意味を見出せないまま、ダメ男の介護に負われているのは」
「
「・・・・・・で、何か用? せっかく瀕死のところ来てもらって悪いけど、どうせ無駄だよ。私を殺そうっていうんならね」
「ええ。恐らくはユダも、そのことは重々承知していたと思います。その上で、ひたすら貴方の足止めに徹した。自分とイヴの命を捨て駒にしてまで。恐らく彼には、私達に勝算があると読んでいた──いえ、賭けていたのでしょう」
「・・・・・・何をするつもり?」
「あなたもよくご存知の魔法です。『魂弾』ですよ」
そう言って、レイは銃口を模した指先を、地に伏している玲衣の眉間へ突きつけた。
「本来、この地球上で『魂弾』を使用できる魔術師はトーリ一人・・・・・・のはずでしたが、私もまたトーリの魔術回路を植え付けられた存在です。そして私自身が『射手』の役目を担うことによって、前回の討伐戦では不可能だった、トーリに残っている全ての『魂』を弾丸として撃ち込むことができる」
玲衣はしばし絶句した。何を言うべきかわからなかった。ただ、現に目の前で意識を失いレイに背負われているトーリと、そのレイの指先から確かに魂の波動が迸っているのを確認した瞬間、今の発言が冗談でも何でもないことを知り、思わず憐れみの視線をドールに寄越した。
「ああ、ごめんね。まさか、ここまで状況が呑み込めていないとは思わなかった。私はかつての堕天使じゃない。すでに玲衣の魂が組み込まれている存在なの。つまり私という存在が、“魂”への拒絶反応によって消滅することは有り得ない」
「はい。それは承知しています。そもそもこの状況──玲衣、あなたが第二の堕天使となっている現状は、トーリとウルスラ・“ラボ”両名の議論によって、すでに想定済みでした」
「・・・・・・何ですって?」
「堕天使の肉片を埋め込まれた六体のドールにおいて、唯一玲衣の魂が埋め込まれた私だけが自壊を免れていた。その現状の説明に足る、堕天使の肉片が玲衣の魂に対してのみ免疫を獲得している理由として考えられる中で最も有力だった仮説こそ、あなた──玲衣の堕天使化に他ならなかったからです」
「ふうん、なるほどね。・・・・・・で? だからといって堕天使に・・・・・・私に『魂弾』が通じる可能性は、微塵もないように思えるけど」
「ええ。私もそう思いますし、そう言いましたよ。流石に気が合いますね。ところがトーリはそう考えなかったようです。ま、後は仕掛けをご覧じろ、ということで」
レイの指先からトーリの“魂”が発射される。それはするりと、“堕天使”玲衣の脳内へ入り込んだ。
「トーリの掲げるバカげた仮説──最後の検証を始めましょう」
──そんなわけで、ようやく物語は僕の視点へと戻ってきたわけだけれど。
そこは天も地もなく、ただひたすらに真っ白で、広々として、殺風景な空間だった。
そんな虚ろな空間には僕以外に唯一人、黒衣を纏った玲衣が、簡素な造りの黒い椅子に腰掛けていた。
「ここが君の脳内かい? えらく寂しいな」
「“人類絶滅”、それだけが唯一、世界が私に課した役割だからね。・・・・・・ところで」
久しぶりの再会だというのに、さして感慨もないようだ。玲衣は椅子に腰掛けたまま頬杖を突いて、じろりと僕を睨む。
「まさかあなた、自分と私の“魂”をぶつけ合って相殺でもするつもり? もしもあんたがそんな夢物語を信じているのだとしたら、もう気の毒としか言いようがないわね」
それはもうわざとらしく、玲衣は溜息をついてみせた。
「すでにあなたは“魂”のほとんどを前回の堕天使討伐戦で消耗している。今この脳内に撃ち込まれたのは辛うじてあなたの自我を形成していた残りカスに過ぎないわ。一方、私はどこかの誰かさんによって撃ち込まれた一〇〇パーセントの“魂”全てが消えることなく、堕天使という“機構”へと組み込まれてここにいる。“魂”の総量は比べものにならないわ。相殺なんて不可能よ」
「ずいぶんと嫌みったらしい言い方じゃないか。もしかして君、僕に殺されたことまだ根に持ってる?」
玲衣はしばしきょとんとした顔で静止して僕を見つめた数秒後、唐突に噴き出した。
「はははっ! そっちは吹っ切れたみたいで何より! 別に? 今となってはどうでもいいことよ! どのみち“堕天使”という高次の存在に取り込まれた時点で、人間的な情緒はほとんど消え失せているから」
「そうかい? まあ、恨まれていないようなら安心したよ。何気に僕はずっと引きずっていたからね。あ、そうそう。レイに僕の“魂”を『魂弾』として撃ち込んでもらった狙いについて種明かしさせてもらうと、それは“魂”の“相殺”じゃなくて“支配”だよ。僕はこの堕天使の体を乗っ取るつもりでいる」
「ふん、どうせそんなことだろうと思ったわ。でも不可能よ。見ての通り、すでに一つしかない椅子は埋まっている。“魂”の総量で劣るあなたが、私から力尽くで支配権を奪うこともできはしない」
「うん。だから奪うんじゃなくて、譲ってもらおうかな、って」
「・・・・・・何ですって?」
「玲衣、君が第二の堕天使である可能性が浮上して、その仮説が証明された以上、僕のやるべきことはただ一つだけだ。僕は君を救いにきた」
「────は?」
「その椅子を譲ってくれ、玲衣」
「────僕が、第三の堕天使になるよ」
玲衣の双眸が、信じられないものを見るように、大きく見開かれた。
学生時代から、僕やウルスラが馬鹿をやらかした時に度々見せる、お馴染みの表情だった。
ああ、懐かしいな。
「あなた、自分が何を言っているかわかってるの?」
「元々、今回の第二次堕天使討伐戦において、僕達が解決すべきは短期的な問題ではなかった。堕天使が世界の“機構”である以上、ここで君を倒したところで第三、第四の堕天使が現れる。それも、倒す度により強力で厄介な存在へと進化して、ね。だったらどうすれば良いのか? 答えは簡単だ。人間は堕天使を討伐することなく、そして堕天使は人間を殺すことなく、ずっと地上に存在し続けてもらえば良い。しかも幸運なことに現在の堕天使は君という“魂”の器としての形を得たことで、この解決策はより現実的なものになった。だから玲衣、君には自ら堕天使という役割を放棄して、僕に譲ってもらう。そしたら新しい堕天使と化した僕は未来永劫、天から降ってくる仕事をサボって、縁側で茶でも啜っているさ」
「ふざけないで! そんなこと、できるはずがない! 人類を滅亡させる、これは天に課せられた役割よ。個人の意志でどうにかなるものじゃない! どう足掻いても、私達みたいなちっぽけな個が抗うことはできない衝動なのよ!」
「そうかい? ま、騙し騙しやっていくさ。昔から、僕たちはそういう存在だったろう? “不可能を可能にする”、それが僕たち魔術師の本来あるべき、“魂”の形だったはずだ」
「────っ、」
「もちろん、君がどうしても堕天使を続けたい、人類をぶっ殺しまくりたいっていうんなら、仕方ないから諦めるけどさ。──でも今の君、あんまり楽しくないだろ?」
「ふ、ふふふ、」
すると玲衣は、腹を抱えて笑い出した。
体をくの字に折って心底愉快そうに笑う彼女を見て、ああ、僕は今日ここにきて良かったのだと、そう思った。
「ねぇ
そして玲衣は、腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「──あなたは、本当に
彼女と入れ替わるようにして、僕は深々と中央の椅子に身を沈める。
どこまでも茫洋と果てしなく続く、真っ白な空間を僕は見据えていたが、それでも玲衣という存在が、遙か彼方へと遠ざかっていく感覚があった。
そんな彼女に声が届くよう胸の内で祈りながら、僕は答える。
「僕はトーリだよ。人は僕を魔法使いと呼んだり、あるいは明日からは堕天使と呼んだりするんだろうけど──今はとりあえず、君に惚れてる男ってことで」
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