第8話

***  8  ***


 そこは、白い部屋だった。

「堕天使が再び降臨するとき、ドールたちに埋め込まれた彼の物の欠片はどのような反応を示すと思いますか?」

 大男が背中を丸めるようにして、鉛筆を走らせる音だけが小さく響くその部屋。

 部屋の中央に置かれた簡素な椅子は、本来なら今座っている人物が使うようなランクのものではない。

 陶器のような素肌を覆う僅かな下着と、薄く透き通ったヴェールのような衣だけの女王が、静かにもう一人の女に問いかける。

「どうでしょう陛下。芸術以外には疎くて私にはとても」

 アトラスの周囲には書き損じた夥しい紙が丸められ、彼を閉じ込めるように足場をなくしていた。

 その様子をみながら、壁際に座るカタリナ・“アート”は静かに答えを続ける。

「そうですね、では堕天使の登場に引っ張られてアーくんたちに埋め込まれた欠片の力が隆起した結果、ドールの体の主導権を本体に奪われるというのはどうでしょうか」

「完全にない、と言い切れないところですが……欠片はあくまで欠片です。そこまで致命的な影響力はないと見ていいでしょう」

 淡々と、女たちの会話が続く。

「もう少し……もう、すk、し……もう、ソコま……っ、で……!」

 目をを血走らせた男の口から、浅い呼吸が漏れる。鼻を伝う血がポタリ、と白い部屋の足元に広がる染みを広げていく。

「……っ」

 カタリナ・“アート”は動かない。

 彼の戦いに、魂への道程にもはや介入する余地はない。

「完成は近そうですね。魂の到達……彼はそこにどのような景色を見るのか」

 歌うように、少年のような声で女王が囁く。

「楽しみですね。カタリナ・“アート”」



 もうじきアトラスの絵が完成するという知らせが入ったのは、それから三週間が経つ頃だった。

 あの日、アトラスからのスケッチの依頼を聞いた女王陛下は驚くほどあっさりとその要求をのんだ。すぐにベイクウェルによってアトラスが彼女を描くための時間、段取り、約束事などが取り決められていくさなか、カタリナがふと思いついたように「そうだ、私とアーくんは完成まで泊まらせてもらうし、どうせなら“ワイズマン”さんたちもそうなさったら?」などと宣った結果、僕とレイもなぜか帝国の心臓部への宿泊が許された。

 正直そのまま断って帰るか悩んだが、気になることもあった。

 ――堕天使の再臨。

 それが何を意味するかを考えたとき、あえてここを離れる理由はそれほど多くなかったのだ。

 そしてアトラスが女王公務の合間を縫ってスケッチを進める、その間僕たち魔術組が何をしていたかというと。

 釣りをしていた。

「……」

 右隣に、麦わら帽子の影に隠れたレイの仏頂面を感じる。小柄な影が動いた気配は今日もないので、釣果はいつも通りなのだと思う。

「……釣り、楽しい?」

無益だ、という感情は魂の発露だと思いますかトーリ?

「……」

 じゃあやめればいいのに、という言葉を少し考えた末僕は飲み込んだ。

 そう噛みつくように言われては、僕からかける言葉は何もない。どうして僕たちはこの間までいた江の島で釣らないで、城内の生物学の研究観察施設を兼ねた生簀で糸を垂らしているのだろう。

 釣りを始めたのは、レイだった。

 城内の散策をしていた折に、レイが興味を示したので僕が道具をそろえさせた。

 始めようとした理由も、クソゲーなのに毎日ここに来る理由も、僕はレイに聞いていない。

「っと」

 手にした竿に手ごたえを感じ、静かに引き寄せる。リールを巻いたりする機能もないような簡易的で原始的な釣り竿を握り直し、そのままゆっくり獲物を水面付近で疲れさせてから、静かに空気にふれさせ、そのまま網ですくう。

「おめでとうございますトーリ、累計二十三匹目ですね」

 正直、釣るたびにレイからの差すような視線を感じるので、居心地が非常によくない。

「……その、毎回数を伝えるのはやめないか」

「それはなぜですか? まさかないとは思いますが、隣に一匹も釣れていない友人がいて気を使っているからでしょうか」

「……」

 帰りたい。僕は何をしているんだろう。

 そして――

「あー、堅い堅い! レイちゃんはもう、なんていうか空気から堅いんだって! そんなんじゃ魚も遊戯アソビにこねーの!」

「ユダ様」

「わーってるよイちヴゃん、はいフィッシュ―」

 僕を挟むかたちでレイの反対側に座る男――ユダ“リーパー”が竿を引き上げる。派手なコートに白い一級品のスーツ、城内であることを差し引いても釣りをする格好では絶対にない。傍らの女に繋がれた鎖が異質さを際立たせている。帰りたい。

 ――どうして、この二人組まで一緒に釣りをしているのだろう。アトラスの絵がもうじき完成することを伝えにきたユダ・“リーパー”はそのまま帰るのかと思いきや、てきぱきと道具を広げだしどっかり腰を落ち着けてしまった。最初からそのつもりだったらしい。

 帰りたい。

 というか帰ってほしい。

「……まだ何かあるのか、“リーパー”」

「ツレねぇなぁ、ちょっと遊戯アソビに来ただけじゃねーか。“ワイズマン”サンこそ、真っ昼間からこんなところで油売っちゃってずいぶん余裕なんじゃねーの?」

「……元々、そんなにがっついてもなくてね。別に魂の作り方が解明されさえすれば、それが僕らじゃなくてもかまわない。“アート”が肉薄したなら、それを待ってればいい」 

「オイオイ、あんまおもしれ―ことすんなよ。なんざ、イマドキ逆に新しいぜ」

 “リーパー”に鼻で笑われ、僕は片眉を上げる。

 とっさに試してみただけだが、なるほど。天性の読みあいと勘で世界をとった男には思い付きの嘘など通用しないらしい。

 実際のところは、神秘省から回された科学の人材にある程度任せているので、その結果待ちではあるのだが。しかし確かに、そちらは今の状況となっては、予備の策を走らせている程度にしか思ってない。

「そういう君はどうなんだ? “アート”に先を越されたくなければ、この間よろしくのドンパチでもすればいいだろうが、それをしないのはなぜだろうな?」

「ァ? 理由の一つはてめえと同じだよトーリ・“ワイズマン”……いや、二個目も同じか?」

 釣り竿に新しい餌をつけて水面に放りながら、器用に指を二本立てて見せる。

「『堕天使が復活するなら、動くのはそれからでいい』から」

「!」

図星ビンゴだろ。魔術の第一人者サマともあろう男が、ずいぶん遊戯アソビ足りてねぇポーカーフェイスっぷりじゃねえか」

 腰を浮かしかけたレイを視線で制しながら、自分の浮きを中心に水面に漂う波紋を、ゆっくりと鎮めることだけに集中する。

 見た目通りの遊び人と侮っていたわけではない、ないが。

 いったい、どこまで知っている。

「んで、もう一個の理由が『女王サマがスケッチに乗り気なのに、邪魔して殺されたかねえ』」

「……それはまた、ごもっとも」

「だからま、俺も安心して油を売れるってワケよ。人間は遊戯アソビが仕事だからな」

「子供みたいなことを言うのですね。流石遊戯の第一人者」

 レイが警戒を徐々に緩めながら会話に割ってきたのを、“リーパー”は存外面白そうに受け答えた。

「やっぱ堅いなァレイちゃん。そうだなァ、あんたらはホモ・ルーデンスって説は知ってるか?」

 いいえ、と一人が答えて、大学でかじった程度でよければ、と一人が答えた。

「そ。平たくいやァ、人間のあらゆる文化に先駆けて遊戯アソビがあったってハナシだ。人類が育んだあらゆる文化はすべて遊戯アソビの中から生まれた。つまり、遊戯アソビこそが人間活動の本質である――つってな」

 人間の本質。

 それはつまり……魂へ至る遊戯のアプローチか。

遊戯アソビがなきゃ人間じゃねえ。人間じゃなきゃ魂がねえ。そして、魂がなきゃ魔術は使えねえ」

「……何が言いたい?」

「だってそうだろうが、なぁ? 結局のところ“ワイズマン”。 人間の根源たる遊戯アソビも理解してねえオタクが魔術の第一人者何て呼ばれてるのァ、俺からしたらちゃんちゃらオカシイってこと」

 流しでこちらを見遣る遊び人の目の奥に、怪しい光が宿る。

「安い挑発ですね。喧嘩なら買いますよ、トーリが」

「勝手に卸売りするなレイ」

「ハン、まぁ魂の到達はどうであれ、俺たちァ揃いも揃って二人一組ツーマンセルだ。随分ドールと仲良しみたいだが、俺も遊戯アソビの第一人者として人形遊びで負ける気はねえからさァ」

 傍らで会話に参加せずこちらを見ている遊戯のドールの立ち姿は相変わらず異常だ。中性的なレイやノア、軍事のドールとは違い、女性的な要素がかなり強調されている。そういう意味では芸術のドール――大男アトラスに近いかもしれない。

を上手に使えるのがそんなに自慢か“リーパー”?」

「第一人者として遊戯アソビに選り好みはしない主義でね」

返す挑発は癇に障った様子もなく、一笑に付される。

「その安い挑発、こっちも喧嘩ゲームすんなら種銭はあるが……ま、今日はただの挨拶だと思って流せや“ワイズマン”」

 大きく伸びをした遊戯アソビの第一人者があくびをしながら立ち上がると、豪奢なコートについた砂や草を払いもせずに、道具を担ぎ上げて背を向ける。ようやく祈りが通じて帰ってくれるらしい。

「ああ、最後に……レイちゃんのその名前って、“ワイズマン”がつけたの?」

 タダでは帰らない男が、去り際、足を止めこちらを向かずに聞いてくる。

「そうです。業腹ですが」

「業腹?」

「以前由来を聞いたところ、『魂がないからレイ』と」

「ハイ嘘。レイちゃんそれ信じたんだ? “ワイズマン”のでまかせ」

 僕を睨みつけていたレイの瞳が丸く開く。それとは対照的に、僕は目を伏せるしかできなかった。

 ――やはりこいつは知っている。

ウルスラしか知らないと思っていたが、彼女の事を。

、なに? 話してないわけ? 魔術組は仲良しかと思ったけど、案外そんなもんかねェ?」

「僕は……」

「頼むぜ、遊戯アソビ相手に退屈な奴はいらねえからさァ」

 言いたいことを言って、男はドールと去っていく。

 残された僕らに沈黙が漂う。

釣りを始めたのは、レイだった。

 城内の散策をしていた折に、レイが興味を示したので僕が道具をそろえさせた。

 始めようとした理由も、クソゲーなのに毎日ここに来る理由も、僕はレイに聞いていない。

 「……まだ釣るか?」

 「……」

 ――聞かなくても知っていた。

 なにせは、釣りが好きだったのだから。



「トーリは、鰓呼吸についてどう思いますか」

 長い沈黙を破ったのは、レイの方だった。

「どう、といわれても……」

「以前あなたに言いました。私は、誰よりも早く魂に辿り着くと。そのためならあなたとも協力するし、手段は問わないことも」

 僕の答えを期待していたわけではないのだろう。レイが被せるように続ける。

「私は鰓呼吸ができません」

「……僕もだ」

「それはあなたが人間だからです。そして、私が人間を模して造られたからです」

 バケツの中でじっ、と息をひそめる魚を見る。

 鰓呼吸の仕組みでいいなら知っているし答えられる。レイが欲しているのはそういう答えでないこともわかっている。

 この魚も、水中で息をひそめているのだろうか。

「私たちドールは、人間と同じ姿かたちをし、同じように見て、聞いて、食べて、話すことができます。ですが、私は、人間を模して造られたのに魂がありません」

「……」

「そのことが、どうしようもなく怖いのです」

 僕らは並んで水面を眺める。

 隣を見ても、きっと麦わら帽子がレイの表情を隠しているのだろうから。

「魂の欠けた私が見ている景色と、トーリが見ている景色は本当に同じなのでしょうか。スープの味は、匂いは、同じなのでしょうか。魂のない私の言葉は、トーリと同じように届くのでしょうか」

「レイ、それは」

「トーリの言葉は、魂のない私にもちゃんと届いているのでしょうか」

 決して強くない言葉に込められた彼女の思いを。

 僕はできる限り丁寧に咀嚼しようとした。

 その思考が――大きな爆発音で遮られる。


「ご無事ですか陛下」

 噴煙の中、部屋に大臣が歩み入る。

 白かった部屋に大量の紙と、火の粉が舞い上がり。

 その奥。

「ああ、アーくん、アーくん…!」

 部屋の瓦礫の中、膝をついたカタリナの肩に手を乗せる女王は、その衣に周囲の穢れも炎も寄せ付けず、壁に開いた大きな穴を見つめる。

「……とうとう一人成ってしまいましたか」

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