5.確かなこと

 明け初める天を駆け抜ける。瑞々しい風が鱗をしゃらしゃらとかき鳴らした。イェルクは鼻の穴をぴすぴす膨らませ、新緑の香る爽やかな空気を胸いっぱい吸いこんだ。

 しばらくぶりに訪れた屋敷は薄青い闇と静寂に包まれていた。イェルクはヒトの姿をとってからマリーの部屋のバルコニーにそうっと降り立った。


「……あ? なんだ……」


 隅に設えられたテーブルに歩み寄る。卓上にあったのはビスケット、ではない。腕輪に指輪にネックレスといった煌びやかな装身具の山。色とりどりの宝石が嵌められた品々の中からイェルクは緑玉の美しい髪飾りを手に取った。

 ――なんとなく見覚えがある。

 いつだったか大はしゃぎで身につけていた気がする。本当にいつのことだったか――両腕を組み、うーんと記憶を遡っていると、


「イェルク!」


 小鳥の囀りが響いた。

 瞬きをひとつ、一拍遅れて背後を振り返った瞬間イェルクは真正面からドンと衝撃を受けた。飛びこんできたのは今まさに思い浮かべていたこの屋敷の末姫マリー。華奢な身体を難なく受け止めたイェルクの鼻腔を花の香りがくすぐった。


「今まで何をしていたの!? わたくし、ずぅっと待っていたのよ!」

「……マリー?」

「四ヶ月と半分よ。イェルク、四ヶ月と半分もここに来なかったのよ。毎日毎日ひとりでお茶をするのがどんなに退屈かわかって!? せっかくのクッキーも全然減らないし、全然美味しいって思えないの。やっぱりイェルクが一緒じゃなくちゃだめよ!」

「マリーだ!」


 あらためて真正面に向き合った。お日さま色の髪に夜明け前の空のような瞳、薔薇色の頬。脳内で思い描いていた姿そのままの少女がそこにいた。

 ――いや、また背が伸びたかもしれない。それにふわふわと花の蜜みたいな香りがする。

 目が合うとついイェルクの口許が緩んだ。そうするとむむむと吊り上がっていたマリーの眉尻はその角度を保てなくなった。固く引き結ばれていた口の端ももぞもぞと上がり――結果ふたりでえへへと照れ笑った。


「……よかった。もう、会えないのかと思ったわ。その……呆れられちゃったんじゃないかしらって」

「それはないぞ! マリーは大好きだからな」

「まあ、本当?」


 マリーはぱあっと破顔すると胸の前で両手指を組み合わせた。


「今日は早起きできてよかったわ。なんだか胸がそわそわして目が覚めてしまったの。イェルクが来ていたからなのね」


 花のような可憐さでにっこりと口角を上げる。

 イェルクのささくれ立った心はほこほこ温かくなっていった。なんだ、もっと早く会いに来ればよかった。


「あっそうだわ!」


 マリーがパチンと手を鳴らした。すっかり忘れていたという様相で生真面目な顔を作った彼女は勿体ぶるように口を開いた。


「わたくしね、とっておきのヒミツを教えてもらったの。だからイェルクにも早く教えてあげなくちゃって思っていたのよ」

「あ?」


 少女はきょろきょろとあたりを見回し――そんなことをしなくてもこんな時間に誰もいるわけがないのだが――「あのね、」とイェルクの耳元に顔を寄せた。


「流れ星のことなのだけど」


 イェルクは目をまん丸に見開いた。

 弾かれたようにパッと後ずさればマリーの目も丸くなった。たまらずバルコニーの柵に手をかけ背中を向ける。


「イェルク?」

「お、オレサマ、いっぱいいっぱい探した。でも見つけられなかった……」

「まあ……。もしかしてずっと探してくれていたの?」

「探した。でも、なかった。流れ星は、落ちてこない。落ちたら消えるんだ」

「……待って、おかしいわ。だって流れ星は、黒くて、キラキラしてると伺ったのよ」

「うーん?」


 いつでも逃げられる体勢でしどろもどろに答えていたイェルクは、次の瞬間その眉間にしわを刻んだ。「くろ?」と首を傾げるとマリーはこっくり頷いた。


「コーシャクさまは流れ星を幾つもお持ちなんですって。本物をお持ちだったら、間違いないでしょう?」

「コー……?」

よ。お兄さまがご当主になられたから、そのお祝いにいらしたお客さま」

「ニンゲンか?」

「ええそうよ。人間の、おとなの人よ。お兄さまの三つ上って仰ったかしら……。星を見るお仕事をされていて、毎日星をご覧になるそうよ。だから星のことにとってもお詳しいの」


 片手を頬に添えたマリーは、宙を眺めながら記憶を辿っているようだった。

 イェルクはぷっくり頬を膨らませた。人差し指を立てて勢いよく天をさす。


「オレサマが見た流れ星はみんな緑色だった!」

「みどり? ……黒いキラキラではなくて?」

「緑だ! 黒だったら流れてもわからないぞ。空も黒い」


 本当は白っぽくて弱々しい流れ星も時々見た。けれど強い光のものは決まって美しい翡翠の輝きを纏っていた。だからずっと緑色の光や石を探してきたのだ。

 なのに黒くてキラキラだって?

 マリーは頬に手を当てたままきょとんと目を瞬かせた。


「それもそうね……。あら、どちらが正しいのかしら」

「オレサマは、嘘は言わない」

「もちろんわかっているわ。でもコーシャクさまも、嘘をついているようには見えなかったのだけど……」


 思案げに小首を傾げる少女を前にイェルクは身体の横で両手を拳の形に握りこみ、むむむむと唇を引き結んだ。自分は間違っていない。そう思う一方で、やはり実物を手に入れられなかったことが悔やまれた。自分こそが正しいのだと証明することができない。

 けれど竜である自分があれだけ追いかけても見つけられなかった流れ星を、ただの人間が手に入れられるものだろうか。


 顔の下で手を合わせたマリーが、イェルクをそうっと覗きこんできた。気を悪くしないでねと前置きすると遠慮がちに囁いた。


「わたくし思ったのよ。流れ星が黒くてキラキラしているのなら、わざわざ探す必要はなかったんだわって。それを伝えたかったの」

「……あ? 流れ星いらないのか?」

「だって、もうあったんですもの。流れ星はあなたよイェルク」


 ふたりの間に静寂が訪れた。数拍の後、イェルクは眉を顰めた。


「おかしなことを言う。オレサマは竜だぞ」

「ええ、わかってるわ。でも、そうなの」


 イェルクの口がへの字に歪んだ。

 マリーはにこにこと笑っている。おかげでイェルクの頭の中はますます疑問符だらけだ。両腕を組んだまま一生懸命考える。だが答えがひらめく気配はない。


「だってね、おんなじなのよ。流れ星は、当たり前だけど空を流れるでしょう? それに黒くてキラキラしていて、お願いをしたら幸せになれて、」


 少女は自身の指を折ってゆっくり数えていく。三本の指が折られたところで顔を上げると、そのままイェルクに掲げてみせた。そうして、


「イェルクも空を飛べるし、竜の姿は黒くてキラキラしているわ。いつもわたくしのお願いを聞いてくれて一緒にいるととっても楽しいの。ほら、おんなじ」


 一本ずつゆっくりと指を戻していった。最後に綺麗に開いた手のひらを見せると、ね、と微笑む。彼女はとても満足そうだ。

 うーんと唸る。たっぷり二呼吸の間をおいてからイェルクは考えるのをやめた。


「わかった」

「あのぅ、本当にわかった?」

「わからないけどわかった」


 マリーは時々よくわからないことを言う。だけどそれはイェルクにとっては些細なことだ。マリーにはマリーの世界があり、イェルクにはイェルクの道がある。何もかもが違うのに全てわかりあうなんて到底不可能だろう。

 それでもひとつだけ確かなことがある。


「オレサマも、マリーといるのは楽しいぞ」

「まあ、よかった!」


 爽やかな光の中で少女がくるんとひと回りした。ふわ、と広がった薄絹のドレスが落ち着くより早く、白魚のような指がイェルクの手を引っ張る。たたらを踏みつつ両手を繋げばマリーの笑い声が溢れた。

 バルコニーに朝を告げる小鳥たちの歌が響き渡っていた。くるくる回るだけの可愛らしいダンスはふたりの足がもつれるまで続いた。



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