4.森の女王

 いつからそこにいたのだろう。さっきのスミレ同様、この人も淡い光を纏っていた。頭の上でひとつにまとめたプラチナブロンドは闇夜にあってもうっすら輝き、結わずに残した横髪が軽やかになびいていた。毛先から細かな光の粒子がさらさらと舞い落ちていく。

 女性が静かに歩み寄ってくる。人間離れした美しさ、尋常ではない神々しさ。一目でわかる。この人は、ではない。


「……じょおう?」


 ぽつりと呟けば女性の瞳が、つ、とマリーに向いた。長い睫毛の奥に覗く深緑の瞳にまっすぐ見据えられ、マリーは息を詰める。

 深い緑色のドレスから伸びるほっそりした白磁の腕がゆるやかに持ち上がった。ほぼ同時に背後から悲鳴が上がった。少年が左の頬を押さえていた。


「やっやめ……痛い痛い痛い痛い!」

「身勝手に力を振りまいてはならぬと何度言わせる気じゃ。まだわからぬか」

「ルルー! リティの子にも同じことをしろ! リティの子が春風を吹かせろって言ったんだぞ。だから手伝ってやったんだ。オレサマは悪くない!」


 女王がすうっと半眼を閉じた。


戯言たわごとは十分じゃ」

「なんでオレサマが怒られる! リティの子の願いだぞ! ためになることをしろって言ったの、ルルーだぞ!」

「見苦しいと言うておろう」

「嘘じゃない! リティの子に聞いてみろ」


 背中にドンと衝撃を受けた。いきなり後ろから押されたマリーは「きゃあ!」と短い悲鳴を上げ、たたらを踏んだ。

 幸い受け止めてくれた手のおかげで転ばずに済んだ。ほう、と息をついて見上げてみれば見目麗しい顔がすぐそばにある。


「ひっ……!」


 声が出ない。はくはくと喘いでマリーはその場に座りこんでしまった。女王の視線がすっと少年に向けられた。


「……震えておる。人に害を与えてはならぬとも言ったはずじゃが」

「あ? オレサマは何もしてないぞ。ルルーにびっくりしてるんだろう」

「濡れているのはどう説明するつもりじゃ。人は、そなたのように頑丈ではない」


 少年はむすっと唇を突き出した。開いた手を水平に振り切るとマリーの寝巻きがふわっと広がった。水気が消え、軽さと温かさを取り戻したガウンの前を合わせるとようやく人心地がついた。小さく息をついた途端またくしゃみが出た。


「人の子」


 頭の上から声が降ってきた。誰も動かず、何も言わなかった。数秒ののちにマリーはあたりを見回し、きょとんと振り仰いだ。視線の先では深い緑色の双眸がマリーを見下ろしていた。


「スミレを苦しめようと思うたのはなぜじゃ」

「え?」


 マリーが言葉の意味を飲みこむより早く、首の後ろを掴まれたような感触があった。そのまま身体が持ち上がり、あっという間に少年の隣に降ろされた。目をしばたたかせ、女王と少年を交互に見やっていると「そなた、」と呼ばれた。


「あれに命じたはまことか?」

「あのぅ……なんの話か、よくわからな……」

「花には花のことわりというものがある。時をかけ、少しずつ力を蓄えて開花を迎えるのじゃ。それをあの幼子おさなごは身勝手にも一息に使い果たさせた」

「幼子じゃない! オレサマは竜だぞ! 偉いんだぞ!」

「聞いて呆れる。分をわきまえぬ竜など竜ではないわ。花たちに根こそぎ力を使わせたうえ、またすぐ咲け開けとはあまりに無体。花が不憫じゃ」

「……わたくしのお願いは、スミレを苦しめてしまうことだったの?」


 そろりと隣を窺い見れば少年はへの字口でそっぽを向いたまま。きっとそれが答えなのだろう。




 女王の静かな瞳にひたと見据えられ、マリーは両手を頬に当てた。


「どうしましょう……。わたくしのせいだわ。わたくしがスミレを欲しいと言ったの。苦しくなるなんて知らなくて」

「そなた、皆でいつも来ているであろう。春まで待てなかったのか」

「……わたくしをご存じなの?」

「そなたの母などこの地に嫁いできた頃より知っておるぞ。そなたの父がここに連れてきたゆえな」

「まあ!」


 マリーの目が丸くなる。女王の言葉が「今も時折見かける」と続くとマリーはますます驚愕の声を上げた。


「今も!? お父さまとお母さまがご一緒に!?」


 両手で口許を覆い固まってしまったマリーの顔を少年が覗きこんだ。


「どうした、ルルーが知ってたからびっくりしてるのか? ルルーは物知りなんだぞ。オレサマよりうんと長生きだからな!」

「……ずるいわ」

「あ?」

「お父さまもお母さまもわたくしに内緒で来ているなんてずるいわ! わたくしだって一緒にお出かけしたいのに! ピクニックはみんなでした方が絶対に楽しいのよ」

「……そうなのか?」

「そうよ! お弁当とお菓子をどっさり持ってみんなで遊ぶのよ。お花を摘んで、お喋りして、とっても楽しいんだから。黙って来てるなんて、お父さまもお母さまもずるいわ!」


 一息に叫んだ。

 宵の風が森の香りを運び、少年が大きく首を傾けた。夜鳥がほうーと鳴く陰でくすりと忍び笑う声がマリーの耳に届いた。


「次は頼んでみるがよい」


 果たして今の笑い声は女王のものだったのか。それを確かめる前に女王はくるりと背を向けてしまった。ブナの木へと歩みを進める彼女は静かな視線だけを肩越しに寄越した。


「さあ、人の子は眠る時間じゃ。そこの、聞き分けのない幼子はわれが預かるゆえ、そなたはまた花の咲く時分にの」

「あっ……待って、森の女王」


 ぱっと立ち上がるとマリーは女王に駆け寄った。


「あの、あの……スミレを咲かせるのは、やっぱり無理なのかしら……」

「スミレ?」


 小さく振り返った女王の瞳に不審の色が宿った。後ずさりたい心を押さえつけ、マリーは両の手でぐっと拳を握りこんだ。唾を飲みこむと上目遣いに勇気を出した。


「わたくしにお義姉ねえさまができるの。わたくしのお誕生パーティーに合わせて、いらっしゃることになったの。お母さまがお得意のチーズケーキで歓迎すると聞いて、わたくしはスミレの花の砂糖漬けを……」

「砂糖? リティの子は花を食べるのか?」

「スミレはみんなが好きよ。可愛いし、いい香りがするし。飾りにしたらとっても素敵なケーキになるわ。でもまだ咲いてないから……、砂糖漬けも時間がかかるから、それで」

「傷ついた者たちにこれ以上無理はさせられぬ」


 ぴしゃりと跳ねのけられた。マリーは言葉を飲みこみ、しゅんと項垂うなだれる。


「……今日は、お邪魔しました。スミレにもごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げると踵を返した。




 とぼとぼと足を動かす。だが五歩も歩かないうちに「待て、」と声がかかった。そっと頭に何かが乗った。女王の手だ。


「この地のスミレに無理はさせられぬがの、どの種族にも慌て者がいるものじゃ。探してみるがよい」

「あわてもの……?」


 まっすぐ向き直り、目をぱちくりとさせていると女王の唇が弧を描いた。頭の隅の方から霧のようなものがふわりと広がっていく。強い眠気に抗えない。まぶたが重い。

 女王が何か言っている。薄れゆく意識の中、声は意味を結ばないまま沈んでいった。

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