5.お日さまの下で

 小振こぶりのバスケットを抱えてマリーは掃き出し窓を出た。先にバルコニーに出ていたロッティにバスケットを預ける。テーブルセットの定位置に深く腰かけるとすかさずフリンジ付きのブランケットが膝にかけられた。

 透き通った淡黄色のハーブティーが注がれた。両手でカップを持ち上げたマリーはやさしい香りを胸いっぱいに満たしてから口に含んだ。仄かに甘い。まろやかなお茶がゆっくりと喉を滑り落ち、お腹の中がじわりと温まっていく。カップを抱える指先もほこほこ温かい。




 バルコニーには暖かな陽の光が燦々と降り注いでいた。吹き抜ける風には幾分冷たさも残っているけれど春の色がずいぶん濃くなってきた。暖かなお日さまと温かなお茶は心がほっこりするし、下ろしたばかりの帽子ボンネットとワンピースはリボンとフリルがたくさんついていてとても可愛い。目を閉じれば小鳥の囀りが聞こえてきて、これで花の香りがしていれば完璧なのだけれど。


「お嬢さま、お日さまが森の女王に差しかかるまで、でございますよ。お身体が冷えますからね」


 念押しの声にマリーの眉間にむっと力がこもった。ボンネットのリボンをあごの下でふんわりと結び直してくれているロッティを上目遣いに睨んだ。


「何度も言わせないでちょうだい。これはピクニックなの。時間のことなんて考えたくないの」

「そうは参りません。風邪はしっかり治さねば」

「もう治ったもの」


 ぷっと頬を膨らませる。ロッティは素知らぬ顔で手押しワゴンからクッキーの缶を取り上げた。


「ピクニックの件は本当に残念だとロッティも思ってるんですよ。ですが下見の者が二回見に行って二回とも同じ報告を持って帰ってきたのです。まさかひとつも咲いていないなんて、今年のスミレは遅うございますね」

「竜の人が全部咲かせて春風にしてしまったからよ。わたくし言ったでしょう? 風邪だって竜の人が大雨を降らせて、ずぶ濡れになってしまったからだし」

「――そうでしたね。お嬢さまの心根の優しさには大変胸を打たれました。ですが今回のことはやはりロッティの落ち度でございます。お嬢さまが寝入ってしまう前にお迎えに上がっていればよかったのですから、これ以上庇っていただくわけには」


 マリーの眉間にむむむむ、としわが刻まれる。いくら言ってもロッティはマリーの言うことを信じてくれない。あの日のクッションにはお日さまの魔法がかけられていて、マリーは厚着だった。そのために汗をかいて冷えたのだろうというのが医者の見立てだ。




 テーブルの上にはキャンディの瓶やサンドイッチが所狭しと並べられていく。マリーはわざと大きく溜息をついた。


「お誕生パーティーもできなかったのにピクニックまでここで代わりだなんて」

「仕方ございません。奥さまもお忙しくていらっしゃいます。スミレが咲いてなくてちょうどよかったではありませんか」

「よくないわ。砂糖漬けをお義姉ねえさまにお出ししたかったのよ」

「では次の春はピクニックからお誘いしてみては」


 微苦笑を浮かべ、ロッティが林檎を差し出した。マリーはへの字口でしばらく見つめていたが、


「バスケットを貸して。本を読むことにするわ。ロッティは下がっていいわよ」


 はっきりと首を横に振った。


「でしたらわからない字をお教えいたしましょう」

「綺麗な絵がついているし、ひとりで読んでみるわ。あとで答え合わせしてちょうだい」

「かしこまりました」


 ロッティがお辞儀をした。




 彼女の姿が見えなくなってからマリーはバスケットの蓋を開けた。ピクニックに持っていくつもりでいろんな〝お気に入り〟を詰めこんだのだ。扇子、絹のハンカチと下に潜っていくと一番底に皮製の表紙が覗いた。その縁に指を引っかけたとき、


「遅いぞリティの子!」

「きゃあ!」


 突然響いた大きな声にマリーはびくりと肩を震わせた。

 大きな飾り鉢の脇に人影が見えた。見覚えのある少年が両腕を組み、眉間にむっとしわを寄せてこちらを見つめている。


「ルルーにいっぱいいっぱい怒られたんだぞ! だから探してやった。オレサマは偉いからな!」

「まあ! あなた確か、竜の人よね? ヤコーセーではなかったの?」

「やこおせ? なんのことだ」

「お兄さまから聞いたの。お昼は寝ていて夜に起きるのをヤコーセーって言うんですって。いつも夜に来ていたでしょう? だから」

「オレサマは寝たいときに寝るし、起きたいときに起きるぞ」


 少年が目をすがめた。お日さまの下で見ると砂金の混じった瑠璃のような色をしている。

 ――こんな色は初めて見たわ。

 瞳の色だけではない。髪は単なる黒ではなく青みがかった色だし、肌は滑らかに白い。まるで陶製の人形みたい。

 マリーがじっと見入っていると少年は両手を腰に当て、焦れたように「話を聞け!」と叫んだ。


「いっぱい来てやったのに、ずっといなかった! ずっと待った! リティの子、なんでいなかった?」

「あら、だって!」


 バスケットの蓋を閉め、マリーは精一杯のしかめっ面で少年を見返した。


「あなたのせいよ。わたくし、風邪をひいてしまったんだもの」

「かぜ? リティの子は風の精霊なかまになったのか」

「違うわ、病気になったの。くしゃみと咳が止まらなくてずっとベッドから出られなかったのよ。おかげでピクニックにも行けなくなったわ。ロッティはスミレも咲いてないからよかったですね、なんて言うけれど」

「それだ!」

「え?」


 ツンと顎を上げ、ちょっとすねたをしていたマリーはきょとんと振り向いた。少年がふふんとふんぞり返っている。


「オレサマが見つけてやったぞ。どうだ、すごいだろう」

「なんの話? すごいって、……きゃあ、待って! いや!」


 スタスタ歩いてきた少年に腕を掴まれたところでマリーは大声を上げた。頭をよぎったのはあの夜のこと。


「めちゃくちゃに振り回されるのはいやよ! 絶対いや!」

「なんだ、行かないのか? もういらないのか、スミレ」


 行くってどこへ。そう返すつもりで息を吸いこんだマリーは、その語を口にする代わりに目を輝かせた。


「――スミレがあるの!? それは、咲いてるスミレ!?」

「いっぱい探したぞ。いるなら連れてってやる」

「欲しいわ! あ、でもあまり揺れないように、やさしくお願いできないかしら……」

「あ? ゆれない……」

「わたくし、物ではないのよ? この間みたいなのは懲り懲りよ。目が回るし、舌も何度も噛みかけたもの」

「うーん」


 少年は思案気に腕を組む。

 やがて「わかった」と顔を上げると彼はマリーの左側に立った。細い腕が座面の下と背もたれに伸びた。直後、マリーの顔にさっと影が差した。

 マリーの視界は滑らかに傾いた。音もなく身体が浮き上がり、あっという間にテーブルセットが遠く離れていく。声にならない声を上げ、全力で背もたれにくっついた。できることなら肘置きをしっかり掴んでおきたいところだが、あいにくと両手はバスケットで塞がっている。お気に入りであるそれを手放すことはできない。

 かしいだ身体が僅かに滑った。


「きゃあ!」


 ヒュッと心臓が跳ねた。が、いつ現れたのか椅子の外側に重なった壁に突っかかり、マリーが椅子から転げ落ちることはなかった。

 緩やかな曲線を持つその壁はごつごつ、ざらざらとしていた。青みがかった黒いそれを上へ上へと辿っていったマリーは、そこに信じられないものを見た。

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