3.春の風は花の風
「きゃあぁぁぁぁ!」
頭の後ろから突風が吹いてくる。風に煽られ髪の毛がめちゃくちゃな方向に引っ張られているのを感じる。だけど今のマリーにはどうすることもできなかった。ただ固く目を瞑り、しがみつくだけで精一杯。
どうしてこんなことに――できることなら時を戻したい。少年とともにバルコニーから飛び降りることになる前まで。
* *
スミレを咲かせてちょうだい。
そう言うと少年はきょとんと目を丸くし、「スミレ?」と小首を傾げた。マリーも同じ方向に首を傾けた。
「そうよ。春になったらいっぱい咲くお花よ。もしかして、スミレをご存じない?」
「ご存じだぞ! スミレは小さい紫のやつだろう」
「そうよそうよ! とってもいい香りがするからわたくし大好きなの。スミレ、咲かせられる?」
「できるぞ。オレサマはすごいからな!」
「素敵!」
マリーはぴょんぴょん飛び上がって手を叩く。少年は両手を腰に当ててますますふんぞりかえった。
「よし、咲かせてやる。よこせ」
「え、なぁに?」
今度はマリーがきょとんと瞬く番だった。対する少年は澄ました顔で腕組みをする。
「何もないところから花を咲かせるのは大地の
「竜はできないの?」
「できる! セツリだからやらないだけだ。オレサマの専門は水だからな、草木を伸ばすことと花を咲かせることはやっても怒られない。苗か種を持ってこい」
「わたくし、持ってないわ」
「じゃあ無理だ。諦めろ」
「まあ! 約束が違うわ」
マリーが詰め寄る前に少年はバルコニーの手すりにひょいと飛び乗った。そこからマリーをまっすぐ見下ろした。
「雨ならいつでも降らせてやるぞ。おまえは美味しいものをくれたからな。そうだ、今から湖に行こう。水面を走ると魚がパシャパシャ飛び出て面白いぞ」
「そんなのいらない! わたくしはスミレが欲しいの。すぐ咲いてくれないと困るの」
「じゃあ次はスミレを用意してから呼べ。また来てやる」
「あっ待って!」
くるりと背を向けた少年に慌てて追いすがる。逃がしてなるものかと彼の服の裾をしっかり掴んだ。
「スミレ、いっぱい咲くところだったら知っているわ。森の女王のところよ。春になれば女王のまわりが一面紫色の絨毯みたいになるの。それを咲かせてくれる?」
「じょおう?」
少年が訝しげに眉を寄せた。マリーは彼を見つめながら彼方を指し示す。
「森一番の長生きブナをご存じない? あそこならスミレがあるわ。毎年お母さまと一緒に摘みにいくもの」
「ぶな……女王……」
少年の眉は相変わらず寄せられたまま、面持ちは次第に不満げな色に歪んでいった。
「行きたくない。行かない」
「まあ! あればできるって言ったのあなたよ。あなたがビスケットを食べちゃったんだから、お願いを聞いてもらわなくちゃ困るの。わたくしスミレが欲しいのよ」
「うーん」
少年はしばらく思案していたが、やがて「わかった」とバルコニー内に飛び降りた。マリーの目の前に立ったと思うと胴を掴まれた。あっという間に肩に担がれ、マリーの視界がぐるりと反転した。
「きゃあ! な、なにを」
「行ってすぐ帰ればいいんだ。行くぞ」
「な……、えっ?」
少年が床を蹴った。手すりに飛び乗った彼はそのまま宙に飛び出した。マリーはけたたましい悲鳴を上げた。
落ちる!
バルコニーの高さは三階。屋敷の一階は天井が高めだから、もしかすると他の三階建ての建物よりも高いかもしれない。――いやそんなことはもはや些細なことだった。とにかくこんな高さから落ちれば確実にただでは済まない。
――死んでしまうのかしら。
八歳の誕生日を目前にして、まさか今夜人生を終えることになるなんて。盛大なパーティーを開きましょうねと微笑んでいた父や母の顔が浮かんだ。歳の離れた兄も「今年のプレゼントはきっと気に入るから楽しみにしてて」と笑っていたのに。
頭の後ろから突風が吹いてくる。風に煽られ髪の毛がめちゃくちゃな方向に引っ張られているのを感じる。身体ががくんがくんと弾むたびにマリーは少年の肩をぎゅっと掴んで耐えた。
――三階ってこんなに高かったかしら。
ふと忍びこんできたのはそんな疑問だ。来るはずの衝撃が来ない。バルコニーから落ちたにしては長すぎる。
目を開けて確かめる勇気はなかった。けれど感覚的には大股でぽーんぽーんと跳ねる動きだ。まるで大地をしっかり踏みしめて駆けていくような。
「着いたぞ」
めちゃくちゃな動きがようやく止まった。降ろされたマリーはくたりと崩れ落ちた。
――地面だわ。
身体の下にはしっかりとした大地がある。とりあえず落下事故は免れたらしい。
頭の上から「ここであってるのか」と聞こえてきたが今は目を開ける気力がなかった。ただ手のひらに伝わる柔らかな感触からここはバルコニーではないらしいとわかるだけ。
緑の香りの濃い夜風がマリーの頬や額を優しく撫でていった。しばらく風に癒されてから、マリーはそうっと目を開けた。
視界に入ってきたのは剥き出しの地面。大地に張りつく健気な野草。
そこは夜空よりも暗い木々に囲まれた、だだっ広い草むらの真ん中だった。少し離れた場所にひときわ大きな影がそびえ立っている。
「……森の、女王?」
星明かりの下、まるでマリーの問いかけに答えるかのように宵の風が吹き抜けていった。新芽がつき始めたばかりの木立の風景は記憶の中のそれより少し寂しい感じがする。マリーはふるっと小さく身体を震わせると両腕で自身を抱きしめた。
「おい。スミレってこれか? この辺全部咲かせればいいのか」
「え、ええと……そうなるのかしら?」
しゃがみこみ顔を覗きこんでくる少年に、マリーは小首を傾げた。間違ってはないはずだ。けれどこう暗くては自信も持てない。
よし、と少年が両手を大地につけた。
「みんな、起きろ! 咲け!」
静まり返った森に少年の声が響き渡った。一瞬びくりと肩を震わせたマリーは胸の前でそろりと両手を組み合わせた。
そよ風が草木を優しく鳴らす。目を凝らして見守っていたマリーはハッと息を呑んだ。目を瞑ったりぱちぱち瞬きをし、地面にできるだけ顔を近づけてみた。――見間違いではない。あたり一帯がうっすら光を帯びている。
そこここの草の葉が音を立てて伸びていく。株の中心から伸びた細い茎はその先に蕾をつけ、あっという間に夜色の花を開かせた。
「春の風は花の風。それ!」
少年は立ち上がると両手を振り上げた。動きに合わせて風が下から上へ吹き上げた。
勢いよく巻き上がった風に鋭さはなかった。ややもすると何かがはらはらと降り注ぎ、甘い香りが漂ってきた。この香りはとても馴染みがある。
マリーは顔を庇っていた腕をゆっくり下ろした。頭に乗った何かをそうっとつまんでみれば、それは淡い光の膜で覆われた小さな花だった。
「まあ、スミレ!」
弱々しい輝きはどんどん小さくなっていき、やがて花ごとほろりと夜風にほどけた。
「どうだ、言った通りだろう」
「すごいわ! 本当に咲かせられるなんて」
少年にパッと駆け寄るとマリーは彼の手を取った。
「ねぇあなたも手伝って。スミレをたくさん摘んで帰りたいの」
「摘む?」
「そうよ。暗くてわかりにくいんですもの。ふたりで摘めばいっぱい集められるでしょう?」
「おかしなことを言う。スミレは全部風になったぞ。春風を吹かせるんだろう?」
ふたりの間に沈黙が降りた。
冷たい風がひゅっと首筋を撫で、マリーは両手を頬に当てた。
「ぜんぶ!?」
「違ったのか?」
「嘘でしょう!? もう咲いてないの!?」
のんびりと返された声をよそにマリーはその場にしゃがみこんだ。すっかり暗くなった一帯を注意深く探して回るが。
「ひどい……これじゃあ台無しよ」
「なんだ、言う通りにしてやったのに」
「わたくしはスミレの、花、が欲しいの! ちゃんとそう言ったもの!」
「うーん。ならもう一度咲かせればいい。ほら起きろ! みんな咲け!」
少年が、ばん、と大地を叩いた。だが今度はいつまでも静かなまま。
おかしいなと首を捻り、少年は何度も地面を叩きつけた。マリーは下唇を噛みしめる。
「……スミレ、咲く?」
「絶対に咲く! 見てろ」
すっくと立ち上がった少年はおもむろに両手を振り上げ天を仰いだ。そうしてそのまま固まってしまった。
空に何があるのだろう――彼の視線を辿ろうとマリーも顔を上げた。その瞬間大量の水が降ってきた。
「きゃあぁぁぁ!」
頭を抱えて小さくなる。突然の大雨はマリーの全身を激しく打ちつけた。もはや雨の域を越え、水瓶をひっくり返したような降り方だ。どこか雨宿りできるところを探すべきか、女王の木の下まで走ればよいのではとそんな考えがよぎったところで、雨は降り始めたときと同様ぴたりとやんだ。
小さくなっていた身体をおそるおそる伸ばした。ぐっしょりと濡れた服が重たい。風がふわりと肌を撫で、くしゃみが出た。身じろぎすれば服の冷たさが感じられて堪える。
「……うーん? おかしいな」
少年は唸りながら腕組みをした。身体を真横に折るような勢いで首を傾げているけれど今のマリーにとってはそれどころではない。歯がカチカチ鳴るし震えが止まらない。寒い。
「ね、ねえ、いきなり、なに……」
「おいみんな、咲けったら咲け!」
どかどかと足踏みをしていた少年はそのうち両足を揃えて跳ね出した。彼も同じようにずぶ濡れになっているのに寒くはないのだろうか。どうしてあんなに普通にしていられるのかしら。
少年がぴたりと動きを止めた。顔色がさあっと変わっていく。
「げ、ルルー」
「……え?」
「ちがう! オレサマは悪くない! リティの子に頼まれたんだ。……あ!? 嘘じゃないぞ!」
静かな広場に少年の声が響く。一点を睨み必死に言い訳をしている、ようにも見える。一体何が見えているのかしら。うろうろと視線を彷徨わせてみるも森は相変わらず暗いまま。特に何も見当たらないようだけど。
少年がぱっと駆けてきた。マリーの背後に回ったと思うとまるでマリー自身を盾にするように身を隠してしまった。
「えっ、え、なに?」
マリーの両肩を少年はがっちり掴んで背中に張りついていた。振り返ろうと頑張っても姿は見えず、ふたりしてその場でくるくる回る。
「なんと見苦しい。潔く前に出よ」
聞き覚えのない落ち着いた声音が耳朶を打った。ハッと振り向けば視線の先、ブナの木の前に背の高い女の人の姿があった。マリーはぽかんと立ち尽くした。
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