2.オレサマは竜だぞ!
ハッと目を開けた。手すりの隙間に目をやればちょうど女王の頭上に星が差し掛かっていた。
「えっ……わたくし寝ていた?」
慌てて飾り鉢から顔を出した。そして慌てて身体を引っこめた。思わず両手で口を押さえて息を殺した。心臓がばくばく騒ぎ始める。
テーブルのそばに誰かいる。
少なくともロッティではなかった、と思う。一瞬だったので見間違いだった可能性もあるけれど。
そう、見間違い――一度そこに思い至るとどんどんそんな気がしてきた。だって暗いから。もしかしたら椅子を見間違えたのかも。
マリーは静かに深呼吸をし、今度はそうっと顔を出した。
やっぱり人はいた。ロッティではなくて、背格好からして多分男の子。マリーが目を瞑っても、ぱちぱちと瞬きしてみてもその姿は全く消える気配がなかった。幻でもないみたい。
ランタンにぼんやり照らし出された瞳はきらきら輝いていた。年はマリーと同じくらいか。黒い髪は短く、そこそこ整った顔立ちをしているものの全然知らない横顔だ。
――どこの子かしら。
それにここまでどうやって。
マリーの部屋は三階。掃き出し窓が唯一の出入口であるこのバルコニーに外階段はついていない。室内を通らずに来ようとすると壁をよじ登るか飛んでくるくらいしか方法がないのだけれど。
思案に耽っていたマリーは、おかげで彼の手が何度も卓上に伸ばされていたことに気づくのが遅れた。
「あっ、だめー!」
腕に飛びつくと少年をテーブルから引き剥がした。彼とテーブルの間に割りこみ両手を大きく広げたが時すでに遅し、皿はすっかり空である。
「ああああ全部食べてしまったの!?」
「あ?」
「それよ、ビスケット!」
少年の右手を指さす。マリーの視線を辿った少年は掴んでいた最後の一枚をなんの
「なんだ、おまえも欲しかったのか?」
「精霊に用意したのよ!」
「うん、オレサマのものだぞ。リティが約束した。ここにあれば食べていい」
「勝手に決めないでちょうだい。これはわたくしが用意したのだから、わたくしに黙って食べてはだめなの!」
「おまえ、リティの子だろう。見ればわかるぞ、リティに似ている。お日さま色の髪もおんなじだ」
「さっきから何を言っているの?」
マリーは背筋をまっすぐ伸ばし、右手を自身の胸に当てた。
「わたくしはマリーよ。お母さまのことを言っているならセシーリアだからシシィだわ。お父さまはお母さまをシシィと呼ぶもの。あなた間違っているのではなくて?」
「リティはリティだぞ。おまえリティを知らないのか。ニンゲンなのに」
少年が目を丸くした。その信じられないようなものを見る目つきにマリーはますます眉根を寄せた。みんな知っていて当たり前みたいな言い方をされても困る。この街にどれだけの人が住んでいると思っているのか。
「そんなのどうでもいいの!」
マリーは少年に詰め寄った。
「ビスケットを返して。あれは風の精霊に用意したの。春風を吹かせてもらわなくちゃ困るのよ」
「はるかぜ?」
「わたくし、早く春になってほしいの。春風が吹くと春が来るでしょう? だから今すぐ風の精霊を連れてくるか、あなたが風を吹かせてちょうだい」
どうせできっこない。半分は諦め気分で、それでも一言言わないと気が済まなかった。
少年は腕組みをしてマリーの言葉に耳を傾けていたが、
「そうか、わかった」
顔色ひとつ変えずに答えた。ふたりの間に沈黙が降り、マリーはゆっくりと小首を傾げた。何がわかったって?
「春の風は花の風。簡単簡単。まあ見てろ」
少年の口角がにやりと持ち上がる。少し吊り上がった瑠璃の瞳は楽しげに揺れ、あたりをきょろきょろ見回した。
少年のお眼鏡に適ったのは先ほどまでマリーが隠れていた飾り鉢。植えられているのは若い苗だ。ようやく数枚の葉をつけたそれを見つめ、少年はすっと息を吸いこんだ。
「咲け!」
彼が一喝するとみるみるうちに茎が伸びた。葉が増え蕾が膨らみ、やがて白い花弁が夢見るように綻んだ。
「わあ……!」
少年は花を摘み取りマリーに向き直った。茎の部分を持ってひと振りすれば一陣の風が起こった。鋭さを持たないそれはふわりと温かく、マリーの頬や髪を撫で、夜の空気に柔らかくほどけていった。鼻先に残るのは甘い花の香り。
「どうだ」
「今のは春風!? ううん、それよりあなた花を咲かせられるの!? 風の精霊なの?」
「あ? オレサマは竜だぞ。風を吹かせるなんて簡単簡単」
「りゅう?」
えへんと胸を張る少年をマリーはまじまじと見つめた。
いつだったか兄に綺麗な絵のカードを見せてもらったことがある。花や動物やいろんな精霊が生き生きと描かれたカードはどれもとても美しく、うっとり眺めた覚えがあった。
その中でひときわ異彩を放っていたのが竜のカード。雷鳴の轟く天を駆ける姿は少し怖くて、でも目が離せない格好よさもあってドキドキした。
だけど――
「……わたくしの知ってる竜とは、ずいぶん違うような気がするのだけど……」
マリーはもじもじと上目遣いに両手指を組み合わせた。
竜といえば何と言っても銀の鱗に覆われた長い体躯が特徴的だ。それから銀色に輝く翼に鋭い爪と牙を持つという。けれど目の前にいるのはどこからどう見ても人間の男の子。少し、顔がいいかなと思うくらいの。
少年はおかしなことを聞くとばかりに腕組みをした。
「リティが、ニンゲンの家に来るときはニンゲンの格好をしろと言った。壊れるから」
「ああ!」
それもそうだ。カードの竜だって人間より遥かに大きく描かれていた。このバルコニーはマリーにはちょうどいい広さだけど、竜にとってはきっと止まり木にもならないに違いない。
「それじゃあ本当にあなた、竜なの?」
「そうだぞ。オレサマはすごいんだぞ」
「まああ! 竜に会えるなんて思ってなかったわ」
マリーは手を鳴らして飛び上がった。少年の元に駆け寄るとその手を両手でしっかりと握った。
「だったら、きっと簡単にできるわよね?」
「あ?」
「わたくし、スミレが欲しいの。今すぐスミレを咲かせてちょうだい!」
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