第3話:ランニングに作業ズボンにサンダル履きのジイさん

 パチンコ屋の休憩所の、街道を挟んだ向かい側に、古くてボロボロの、二階建てのアパートがあった。木造モルタル塗りの本当に古いアパート、七十年代の建物に違いない、名前は忘れた。住んでる奴らも何だかヤケに年季の入った、パッと見で素性のよく分からない感じの、オッサンや爺さん、或いは婆さんだった。まあ、あり勝ちと言えばあり勝ちな、よく見るタイプの賃貸住宅だ。


 そのジイさんは二階の一番奥の部屋に住んでいた。だいたい六十歳くらいに見えたが、或いはもっと若いのかも知れなかった。


 背が低く、痩せこけていて、夏の間はいつも、ヨレヨレの黄ばんだランニングシャツに、薄い青色のブカブカの作業ズボンの裾を何回も折り返して履き、茶色いゴムのサンダルを突っ掛けていた。半分白髪の髪は比較的長く、肩くらいまであったが、ファッションなどでは断じて無く、単に不精によるものと思われた。さらに前頭部から頭頂部にかけて痛々しくもハゲ上がっていて、何だろう、落ち武者的なビジュアルだった。あと眼が、両方とも外側を向いていて焦点が合っておらず、一体どこを見ているのか、見当がつかなかった。あと膝を痛めているのだろう、いつも左脚を引き摺るようにして歩いていた。


 仕事はしていない感じだった。日中もよくそのジイさんの姿を眼にした。休憩所がある雑居ビルのほぼ正面にその「木造モルタル荘」が位置していたため、一階の自販機横でタバコを吸ってると、よくそのジイさんの姿を目撃したのだ。


 ほぼ毎日、そのジイさんが左脚を引き摺りながらアパートの部屋から出掛け、やがてレジ袋を手に提げて帰ってくるのを眼にした。たぶん近所のスーパーに食材を買いに行っているのだろう。


 ほぼ毎日、互いの姿を眼にしているのにも関わらず、挨拶を交わしたことは無かった。声を掛けたことすら無い。


 コミュニケーション不能、何故だかそう感じた。


 意思疎通と相互理解は困難を極める、という予感があった。暗く、陰気な雰囲気、基本的に無表情。左右違う方向を向いてる瞳は何を考えているのか全く読め無かった。他者からの意思疎通を拒む、或いは意思疎通への試みそのものを挫くような、堅くて強情な何かが、その相貌には浮かんでいた。ひょっとすると、言葉が通じない、または耳が聞こえない等の障害も想定された。


 そして今日も、そんなに大きくない食材の入ったレジ袋を右手に持ち、左手で手摺を攫み、不自由な左脚を上半身を傾けてやっとの思いで引き上げながら、錆びた鉄製の階段を一歩一歩、時間をかけて登って行く。


 俺は陽炎の立ち昇る路面の向こうにジイさんの姿を見ながら、缶コーヒー片手に今日もタバコを吸っていたが、視線が合うことは無かった。真正面からほぼガン見だったが、汗だくになって煙を吐き続ける俺の姿など、ジイさんの眼中には入らないようだった。


 眼が悪いのかも知れなかったし、


 或いは、


 俺が見てる景色とは違うものを、


 ジイさんは見ているのかも知れなかった。



 


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