卵・薄力粉



 一年ぶりに見るママは、相変わらずとてもすてきだった。

「まあ、まあ! お帰りなさい。なんてすてきなレディなのかしら」

 ママは苦しくなっちゃうくらいに私を抱きしめて、右と左の頬に一回ずつキスをした。そして、煌めく宝石の欠片を見付けようとでもしているみたいに、じいっと私の瞳を見つめた。私も、ママの瞳を見つめ返した。夜のように真っ黒な目は妙に熱っぽくて、見たことのない感情が渦巻いているみたいに見えた。



「それでね、タカちゃんとキミちゃんも一緒に、お菓子を作っているの」

 学園であったことを、ママに報告する。ママは私のためだけにお菓子を作ってくれながら、うんうんと嬉しそうに聞いている。

 私も手伝うと言ったのに、ママは微笑みながら首を横に振った。「疲れてるでしょ、座っていて」と言うママの表情は頑なだった。学園専属のタクシーで帰ってきたんだから、特に疲れてなんていないんだけど、私はママに甘えることにした。

 椅子に座ったまま、甘い匂いが漂ってくるのをじっと待つ。


「そうだ。休暇の間、二人を呼んでスイーツ会をしても良い? タルトレットの交換会をするの。楽しいのよ」

「……それは、どうかしら」

 ママが声を曇らせた。どうかしらって、どういうこと?

「お友達は、呼ばない方が良いんじゃないかしら」

「なぜ? どうして呼んでは駄目なの?」

 ママは答えてくれない。私は椅子から立ち上がって、ママの元に駆け寄ろうとした。けれど立った瞬間にママが「雪ちゃん」と私を呼んだので、私はその場から動けなくなってしまった。

 ママの声が、なんだか怖かった。


「ママ、どうしたの? なんだか変よ、ママ……」

「そうかしら? 変かしら? でも雪ちゃん、お友達は呼ばない方が良いわよ。お友達が遊びに来て、雪ちゃんがいなかったら、お友達、困っちゃうでしょう?」

 ママは一心不乱に、タルトレットの生地をこねている。備え付けの大きなオーブンは、いつでも焼き始められるようにしっかり予熱されている。大きなオーブン。私ひとりくらいならすっぽり入ってしまうくらい、大きなオーブン。

「雪ちゃん。ママねえ、お菓子を作るようになってずいぶん長いのよ。雪ちゃんが産まれるずっと前から、ママはお菓子を作ってるの。色んなものを作ったわ。どれも美味しかった。やっぱり、手作りだから美味しいのよね。お店で買うのと、やっぱり違うのよね。それでね、雪ちゃん。手作りなのよ。手作りだから美味しいのよ、雪ちゃん」


 テーブルの上のお皿には、最後の飾り付けに使う大きないちごが並べられている。どれも綺麗な形をしていて色合いも良い。でもこれは買ったものじゃなくて、ママが丹精込めて、お庭で育てたいちごだ。手作りは美味しい。とっても綺麗に育ったいちごも……。

「雪ちゃんも……」



 タルト生地のこびりついた手で、ママが私の肩を掴んだ。細くてしなやかな身体の、どこにこんな力があるのだろうと不思議になるほど強い力で、ママは私をオーブンの前に引っ張っていく。何が起こっているのか理解できず、私は人形のようにオーブンの前に棒立ちになる。

「なんてすてきなレディなのかしら!」

 ママの声と同時に、耐え難い熱風が背中を襲った。オーブンの扉は開かれ、百八十度で焼くべきものが投入されるのを、今か今かと待っている。

 その熱で、ようやく私は我に返った。


「熱い! ママ、熱いよ! やめてママ!」

 ママは目を見開きながら、私の肩を押して私をオーブンに押し込めようとする。首筋がオーブンのふちに触った。ジュウッと音がして、激痛が走った。遅れて、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻に届く。私の焼ける匂いだ。

「熱いーーー! ママやめてーーー!」

 狂乱しながら、私は必死でママを押した。けれどママはそれ以上の力で私を押し返す。


「ごめんね雪ちゃん。本当はお菓子にね、よく眠れるお薬を入れていたのよ。本当はこんな苦しい思いさせるつもりなかったのよ。本当よ。だってママは雪ちゃんのママなんだから、雪ちゃんがつらいのはママだって嫌だもの。でもごめんね雪ちゃん。雪ちゃんがあんまりすてきなレディになっていたものだから、ママもう我慢できなくって、ごめんね。ごめんね」

 首筋から、ぐにゃっとした嫌な感覚が伝わった。酷い火傷で、皮がめくれてしまったのかもしれない。熱いなんて感覚はもう分からなくなって、ただただ死の恐怖だけが私を支配している。



 ママは、食べるために私を育てたの? 私はママのことが大好きだったのに。ママも、私のことが大好きだったんじゃないの?

 それとも、大好きだから食べるのかしら。ママは私を愛しているから、私を食べたくて仕方がないのかしら。

 ……それなら、食べられたって良いのかもしれない。愛されているのなら、こんな苦しみを続けるよりも、愛を受け入れてしまった方が良いのかもしれない。


 灼熱の中へ押し込まれまいと踏ん張る手足から、力を抜いてみた。そして、ママに向かって微笑んでみた。ママも嬉しそうに微笑んで、そして私を抱きかかえるようにして、オーブンの中へ……。



 意識を手放しながら考える。

 大好きなママ。私を愛しているから、私を食べるママ。


 でも……だったら私も、ママを食べた方がいいのかしら。


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