第三章の四 牛鬼再び②

 そもそも牛鬼ぎゅうきに出会った人間は、通常でも会っただけで体調を崩すのだと言う。あずさには神の加護がついているため、その毒は通じない。結人はそもそもが妖怪だ。しかも妖怪の中でも高い位に位置する。牛鬼ぎゅうきの毒は通じない。

 しかし奏は普通の人間なのだ。守護霊がついているとは言え、その守護にも限界がある。

 牛鬼ぎゅうきの毒息を弾き返せる守護霊でも、視覚から入ってくる毒素はどうしようもなかった。


「この馬鹿は、それを知ってか知らずか、最初の聖水をコイツにぶっかけた」


 最初の聖水には毒を中和する力があったのに、だ。

 そのため、体内に溜まっていた毒素が今まさに、爆発しようとしているのだと、守護霊は言う。


「そんな……! どうにか出来ないのですか?」


 あずさの必死の訴えに、守護霊は悔しげに言う。


「私には、どうすることも出来ない」


 奏に迫っている絶対的な死は、回避出来ないものなのか。


瀬織津姫せおりつひめ……!」


 あずさは悲痛にも似た思いで、橋姫を呼ぶ。橋姫は分かっていたかのようにすっと姿を現した。


「橋姫! お願い! 奏を助けて!」


 あずさの願いを、橋姫は首を振ることで答えた。


「どうして……っ!」


 あずさの悲鳴に橋姫は答える。


「奏さんには……、死相が出ています……」

「死相……?」


 あずさは呆然と繰り返す。


「神様でも、どうにも出来ない、の……?」


 あずさの声に、橋姫は悲痛な表情で頷くしか出来なかった。


「結人は知ってたの、死相のこと」


 あずさは隣に立つ結人に尋ねる。結人は、小さくあぁ、と答えるだけだった。


「ダメっ! 絶対にイヤっ! 奏が死ぬなんて嘘だよ!」


 あずさは叫ぶ。

 奏はそんなあずさを見つめ、ごめんね、と呟いた。


「どうして、奏が謝るの……?」

「ちょっと、ダメかもしれない」


 奏は最早立っているのもようやくの様子だった。


「でもね……」


 奏はゆっくりと牛鬼ぎゅうきを見据える。


「ただで殺されるつもりも、ないわ」


 そう言うと、奏は一気に走りだす。


「なっ……!」


 それに驚いたのは牛鬼ぎゅうきの方だった。動くのもようやくの身体で、よもや自分へ突進してくるなど考えていなかったようだ。奏は文字通りの全力で牛鬼ぎゅうきへとタックルをする。虚を突かれた牛鬼ぎゅうきは天狗の団扇うちわを思わず取り落とす。その隙を逃さず、結人が九尾の狐と化し、尻尾で団扇うちわを取り返した。


「奏っ?」


 あずさは何が起きたのか分からず、奏の名を呼ぶしか出来なかった。天狗の団扇うちわを奪われた牛鬼ぎゅうきの顔が怒りに赤くなる。


「殺してやる……!」


 牛鬼ぎゅうきは目の前で倒れる奏に向けて鋭い爪を振り下ろそうとする。


「させないよ!」


 そう言ったのは守護霊の老婆だった。老婆は何事かを呟くと気合いと共に牛鬼ぎゅうきへと術を叩きつける。牛鬼ぎゅうきは突然の攻撃にひるむ。その隙に結人の尻尾が奏をこちらへと引っ張ってくる。


武甕槌命たけみかづちのみこと……!」


 奏がこちらへ戻ったのを確認したあずさは叫んだ。すると雷と共に赤毛を逆立てた青年の姿が現れた。


「呼んだか?」


 青年は言う。


牛鬼ぎゅうきを、倒して!」


 あずさは叫んだ。


牛鬼ぎゅうき、か……」


 武甕槌命たけみかづちのみこと牛鬼ぎゅうきを見据える。牛鬼ぎゅうきはさすがに分が悪いと踏み、羽ばたきをする。その場からいなくなろうと考えているようだったが、そこに、天からいかずちが降ってくる。


「ぎゃっ!」


 牛鬼ぎゅうきが悲鳴を上げた。その隙に橋姫が水柱を牛鬼ぎゅうきの四方に立てた。


「この水は……!」


 牛鬼ぎゅうきが驚愕の声を上げる。


「許しませんよ、牛鬼ぎゅうき


 橋姫の声と共に四方の水柱が狭まっていく。


「や、やめろ……!」


 牛鬼ぎゅうきはなす術なく小さく呟く。その間も四方の水柱は狭まり、小さな円となって牛鬼ぎゅうきへと迫っていく。そして、その水が牛鬼ぎゅうきへ触れた瞬間、牛鬼ぎゅうきは断末魔を上げる。




 じゅうぅぅぅ……!




 辺りに肉が焼けるような匂いが漂う。


「やめろぉぉぉぉぉ!」


 絶叫しながら牛鬼ぎゅうきの姿が溶けていく。そして完全に水柱が一本になった時、そこに牛鬼ぎゅうきの姿はなかった。


「橋姫、今のは……?」


 あずさは呆然と橋姫に尋ねる。橋姫は、聖水で作った水柱だと答えた。


「そうだ! 奏っ!」


 あずさは弾かれたように傍に寝転んでいる奏に駆け寄る。


「大丈夫? 奏」


 あずさが奏の顔を覗き込んだ時、もう奏は目を開けることも出来ないようだった。かすれた声で言う。


「ごめんなさいね、あずさちゃん……。楽しかったわ……」


 ふっ、と緩く笑う奏に、あずさはポロポロと涙を流す。


「そんなこと、言わないでよ……!」


 牛鬼ぎゅうきはもういない。けれど、それと引き換えに奏までいなくなるなんて、あずさには耐えられない現実だった。


「ごめんなさいね……」


 奏はそれだけ言うと、動かなくなった。


「奏……?」


 あずさは目に涙を溜めて呟く。


「奏?」


 ゆっくりと奏の身体を揺さぶってみる。しかし、奏はぴくりとも動かなかった。


「やだよ……、やだよ、奏!」


 叫ぶあずさに、しかしその場にいる誰もが声をかけることが出来なかった。

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