第一章の五 瀬織津姫/橋姫③

「あらやだ。迷い猫かしら?」


 奏はおいで~と子猫に声を掛ける。しかし子猫は隣にいる橋姫を警戒してか、全く動こうとしない。子猫には橋姫が見えているのだ。橋姫がすっと近付く。しかしその瞬間、子猫は脱兎のごとく逃げ出してしまった。


「あらあら」


 奏は逃げ出した子猫を追いかけようとする。空からはぽつりぽつりと雨粒あまつぶが落ちてきていた。




 さて、その頃とある小さな少年の家では。


「ママ~! ミーちゃんがいないよ!」


 少年は飼っていたペットのミーちゃんがいなくなっていることに気付いた。


「テレビの裏にでも隠れているんじゃないの?」


 母親は言うが、少年がテレビの裏を覗いても、ソファの下を覗いても、どこにもいなかった。少年はミーちゃんを探すべく、曇天どんてんの空の下家を飛び出していった。


「ミーちゃん! ミーちゃん!」


 名前を呼びながら走るも、子猫の姿はいっこうに見当たらない。少年が走っていると、雨がぽつぽつと降り出して来た。それでも少年は足を止めない。


「ミーちゃん! どこ!?」


 その内雨脚が強くなってくる。びしゃびしゃと雨水を跳ねながら少年は走っている。すると目の前に大きな橋が見えてきた。


『この橋には神様がいるのよ』


 昨日の母親の言葉が蘇る。


「かみさまー! お願いします! ミーちゃんをみつけてください!」


 少年は祈るように叫んでいた。




 その頃奏たちは、逃げ回る子猫を探していた。白い子猫は橋の下に潜り込んでいる。


「猫ちゃん、おいで」


 奏は子猫へと呼びかける。しかし子猫は警戒して動かない。


「困ったわね」


 雨は本降りに変わっていた。奏が子猫の方へ一歩踏み出すと、子猫は再び走り出してしまった。


「待って! そっちは!」


 奏の制止を振り切り、子猫は川のほうへと走ってしまう。


「ダメ!」


 しかし子猫は流れが速くなってしまっている川岸へと逃げてしまった。


「ミーちゃん?」


 そこへ一人の少年が現れた。少年は五歳くらいだろうか。


「ミーちゃん、おいで!」


 少年の呼びかけに耳をぴくっと動かした子猫だったが、やはりその場から動こうとはしなかった。

 少年はゆっくりとミーちゃんと呼ぶ子猫の元へと近付こうとした。

 その時。

 子猫が後ろの川へと落ちてしまう。


「ミーちゃん!」


 少年は弾かれたように駆け出し、子猫を抱きかかえるがそのまま川に流されそうになる。


「ちょっと!」


 奏も急いで川辺へと近付くが、段々と流れが速くなっている川だ。無闇に入ることは出来ない。懸命に手を伸ばすも、少年との差は無情にもどんどんと離れていく。

 奏は少年がパニックにならない様に必死に声を掛けていたが、このままでは少年は川に流されてしまう。その時、奏の後ろに白い影がやってきた。


「橋姫っ?」


 橋姫は無表情のままゆっくりと増水していく川へと入っていく。そして左腕で少年を抱きかかえると川辺へと戻ってきた。


「大丈夫? ミーちゃんも無事?」


 何が起きたのか分からなかった少年は、橋姫の言葉に弾かれた様に胸にかかえた子猫の様子をうかがった。子猫は気絶しているようだった。


「早くお家に帰りなさい」


 橋姫はにっこりと微笑む。


「お姉さんは……?」


 片腕のない橋姫の姿に、少年は心配そうに尋ねる。橋姫は微笑を絶やさずに言った。


「君の願いは聞き届けました。ミーちゃんと一緒にさぁ、お帰りなさい」


 その言葉に少年は後ろ髪を引かれるように、子猫を胸に抱いて帰って 行った。




健太けんたっ?」


 家に帰りついた少年――健太の様子を見た母親は驚いていた。

 全身びしょ濡れの中、子猫を胸にかかえている。


「どこに行っていたのっ?」


 とにかくお風呂に、そう言って母親はすぐに準備を始めた。

 お風呂から出た少年に、母親は川での出来事を聞いていた。片腕の無い女性に助けられたことを聞いた母親は、


「その女性はきっと、神様ね。橋姫様に違いないわ」


 そう言うのだった。


「はしひめさま?」


 健太は母親を見上げながら問う。先ほどまで警戒していた子猫は、健太の膝の上でスヤスヤと健やかな寝息を立てていた。


「橋姫様はね、あの橋を守っている神様なのよ。明日の朝、お礼に行きましょうね」

「うん!」


 少年は破顔して頷いた。




 橋の下。

 奏は呆然と橋姫の行動と健太のいなくなった先を見つめていた。


「今のは……?」

「あの少年が願ったことでした。だから私はそれを成就じょうじゅさせたのです」


 橋姫は奏の問いかけに答えた。

 奏は橋姫を見つめた。雨はいつの間にか止んでいる。奏の視線を受けた橋姫は、自分の顔に何か? と問うた。


「いえ。ただ、その成就させた願いは、あずさちゃんの言っていた『男女のえにし』以外の縁結びになるんじゃないかしら? と思って」

「あずささんがそんなことを……?」


 橋姫は『えにしを結ぶ』条件を確かに出していなかった。言われてみたらそうかもしれない。先ほどの少年と子猫の『えにしを結んだ』と言われたらその通りだ。

 橋姫も意外だったようで、驚いて目を見開いていた。そして、


「ふふふ……」


 と柔らかく笑っていた。

 そうか、男女のえにしにこだわらなくても別に良いのだ。


「ありがとう、奏さん」

「お礼ならあずさちゃんに言って頂戴」


 奏は苦笑しながら返した。




 その翌日。

 あずさは晴天の中再び橋姫の橋へと向かっていた。

 するとあずさより先に先客がいた。小さな男の子とその母親だった。


「はしひめ様、ミーちゃんをたすけてくれて、ありがとうございました!」


 男の子はそう言うと橋に向かってお礼をしていた。母親も無言で何かを祈っているようだ。

 二人には見えていないだろう。

 その様子を優しく微笑みながら見守っている橋姫の様子が。

 それを見たあずさは昨日、橋姫が願った何かが起きたことを悟った。その親子が橋から離れると、あずさはゆっくりと橋姫の元へと向かった。


「橋姫」

「あら、あずささん」


 神は柔らかい声で答える。

 あずさは神の声を聞くことが出来ていた。ただ、それ以外の声は聞こえない。あずさはきっと神が自分の能力に合わせてくれているのだと思っている。


「昨日は大変だったの?」

「そう、ね。でもあずささんのお陰で、わたくしの願いは成就じょうじゅすることとなりましたよ」


 柔らかく答える橋姫の表情は晴れ晴れとしていた。


「ありがとう、あずささん。今度はあずささんと奏さんのえにしを結んであげますよ?」


 いたずらっぽく微笑む橋姫に、伝説の鬼女の様子は全く見受けられない。あずさは少し顔を赤らめて、


「もう! 奏とはそんなんじゃないんだからっ!」


 と全力で否定するのだった。

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