水の在処

べたべた

第1話

 軽快なドラムのリズム、肌を撫でるサックスの音。お気に入りのジャズ・ナンバーは今夜も僕を揺らした。

 暖色の照明が店内を包み込むように照らし、タキシードを着こなしたマスターはグラスにウォッカを注ぐ。周りにはあと七、八人の客がいて、僕は独り、カウンター席で酒を飲んでいた。僕は曲を聴きながらグラスを手に取り、ゆっくり口に向かって傾けた。動かない時計のような寂しさと哀愁を感じさせる、優雅で、扇情的な時間。誰にも邪魔されることのない、自分の居場所がそこには有った。

 左手には演奏ステージ。ステージ上には四人のジャズ•バンドのメンバー。

 さぁ、曲も盛り上がりのようだ。サックスが主張を激しくする。演奏者は体をのけぞらせ、音を全身で表す。今、ステージ上では彼が主役である。そして、その一人突っ走るような音を支えるドラム、ベース、ピアノ。その響きは美しくバランスを保ち、安堵と不安の両方を感じさせる音の波は、僕の心を強く打ち付ける。そう、僕は夢中だった。

 そして、演奏を、終えた。

 

 

 

 目を開けると、そこは僕の車の中だった。

 ゆっくりと、CDを取り出してケースに入れた。演奏者の吐いた息、音の粒が、まだ、車中にほのかに残っている感覚がある。

 ふと、前を向いた。フロントガラス越しに輝く街の夜景。小高い山に位置する公園の、駐車場から見下ろす、無機質だが綺麗な光の斑点。人の作り上げた景色なのに、何故かそれには、人の存在を忘れさせるような魅力がある。

 ぼうっと景色を観ていると、雪が降っていることに気がついた。おそらくこれが初雪であろう。なんだか急に寒気がして、後部座席に放り投げていた上着を取って羽織った。

 ハンドルの影のドリンク・ホルダーにひっそりと置かれた缶チューハイを手に取る。強くそれを握り、くっと飲み干すと、座っていた運転席を倒して寝っ転がった。

 なんだ、僕はつんと鼻に付く香りに気が付いた。いつの間にか、この油っぽく酸味のある臭いが車内には居着いていた。

 そうだ、僕は4日間も体を洗っていない。


 

 

 僕は一年前に職を失っていた。しかし、望まず失った訳ではない。自分から辞めたのである。

 入社六年目のことだった。これは、自分がしたい仕事なのか、何かが違うと突発的に思いだし、夏の始まりと同時に、僕は誰と相談するでもなく退社した。頼りになる人脈はあった。しかし、両親にさえもこれは伝えていない。

 やりたいことも具体的に思いつかなかった僕は、半年間ほぼ一切の行動も取ることはなかった。ただ、一ヶ月前、金銭的な理由からやっと週3のバイトを始めたが、寝床は大体この、嫌なほど美しい夜景の見える公園の駐車場に停めた車の中。

 なぜだろう。何故こんなことになってしまったのか。少し前までは、社会の歯車の一部として動いていたはずなのに。いや、僕は好きでやったんだ。これは僕の人生の転換期なのだ。これから、何かが変わる。すごいことが起きる。

 しかし、何か行動を起こさなければいけないとは分かっていても、行動しようとする気持ちが湧きあがろうとする訳ではなかった。僕は何がしたいのだろうか。何をすれば良いのだろうか。

 僕が昔、あれほど差別的な目で見ていたホームレス、浮浪者を、少し前からは、とても人間的で、好意的だと感じるようになってしまっていた。路上に横たわる人、雑巾のような服を来た人、それらを見るたびに安心した。いや、違う。本当はこれは同情なのだ。それらの人々は身体的な理由で働けない人が多い。僕のような「何か理想と違うから仕事を辞めた」という、贅沢で恵まれた理由ではないだろう。そうか、彼らは社会にも、運命にも見放された、なんて可哀想な存在なのだろう。

 僕は違う。きっとやれる。

 



 ジャズは良い。心を落ち着かせる楽器の音色達。それらが合わさって生まれる旋律は情熱的で、どことなく倒れそうな危うさを兼ね備えている。

 ジャズは、僕がお金を使ってきた数少ない趣味だと言えるだろう。楽器は持っていないが、車内には多すぎるほどのCDがある。今夜聞いたものもその内の一つだ。

 CDを流すと、いつでもそこは僕だけのバーに姿を変えた。暗黒の世界は淡いオレンジに染まり、少し凹みの入った銀色の缶は精巧な曲線を携えたグラスに形を変える。そして、カーオーディオは、演奏ステージに。こうして、ジャズを聴く時だけは、僕は僕でいられるような気がした。




 美しく光る黄金色の地面と、それを押しつぶすように広がる藍色の空。太陽は真上にあり、地平線がはっきりと見えている。周りには、何もなかった。そこは砂漠だった。

 そうか、これは夢か。僕は車で寝てしまったのか。しかし、なぜ砂漠なのか。今から冬になるところだというのに、太陽光線は無慈悲に僕を突き刺している。僕は何も持っていないし、これは、いくら夢でも死んでしまうのではなかろうか。

 



 しばらく汗を垂らしながら歩いた。小さく盛り上がった砂の山を3つ程越えただろうか。周りを見渡すと、少し遠くに緑色を確認することができた。

 焦るようになんとかそこまで足を動かした。緑色のそれはなんと木であることが分かった。そして、その近くには少量の水が流れているではないか。オアシスだ。

 何と都合の良い夢なのだろう。

 急いでその水を手で掬って飲んだ。夢中になって水を啜った。肉体が徐々に潤いを取り戻していくのが分かる。

 あるところで、僕はあることに気がついた。水は、薄汚れていて、不味かったのだ。僕はこのような水を啜っていたのか。しかし、何故だろうか。それは、公園で飲む、ありふれた、恐らく砂漠より水質のいいであろう水道水よりもいっとう美味しく、愛おしいように感じるではないか!

 僕は流れる水の、小さな音に耳を傾けた。命を繋ぐ水の、美しい音色が聞こえる。今にも消えそうな響きだった。それは、まるでジャズのように軽快で、危うい。

 この響きはこれからも絶えず続くのだろうか。もちろん、その問いとは無関係に流れ続ける水は、気ままに今日も僕を生かしたようだった。

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