「噂が……あれ? でも、そんなことがあるのかな……?」

「何だ」

「その、そういえばなんだけど。昨日の昼には館の主人が旅行に出掛けたって話を、聞いたから……」

 主人の家族が、揃って旅行へ行った。

 噂が本当なら、呑気に旅行などしている場合ではないだろう。

 彼も言いたいことを汲み取ってくれたようで、わたしの言葉に怪訝な顔をした。

「昨日の昼? 有り得ない。被害者と見なされている人間が、旅行中だと?」

「え――」

 被害者と噂されているのは、館の主人?

 それじゃあ、この話は――

「その話、誰が言った?」

「さ、さっきの、包丁を持っていた、彼が……」

「あの男か……何か知っているのかもしれないな」

 ぼそりと呟くように言って。青い目がわたしから外れた。

 ねえ、何かって、何?

 トーリくんがわたしに嘘を吐いていたと、そう言うの?

「とにかく、俺はお前がその噂の人物だと睨んでいる。そうだった場合、お前を殺すのは俺だ。あの二人に何をしたかは知らないが、他の者になどくれてやるつもりは毛頭ない。だから、真相がわかるまでは、死なないよう守ってやる。俺から離れることも、逃げることも許さない……精々、あの二人に殺されないよう気を付けるんだな」

 そう言われて、止まりかけていた涙が、また溢れようとする。

 今はまだ、生きていて良いのか。

 わたしは、あなたのそばで生きていても良いのだろうか?

「だから、泣くのはもう止めろ」

「キーツ……」

 ぽんと、大きな手のひらが頭に乗せられて、そこからじわりと、全身に温もりが広がっていく。

 蛇口は、閉められた――

「うるさく泣き喚かれると、あの二人に居場所が知れる」

「そう、だね。気を付ける」

 慌てて涙を拭って、へにゃりと笑う。

 ねえ、お願いだから、どうかこれ以上は、優しくしないで。また、泣いてしまうから。

 だって、どうしたって、やっぱり苦しいの。

 あなたは、不器用なその手のひらで、いつかわたしを殺す。

 そんなあなたの隣にいろだなんて、それはなんという罪の罰か。

 一時ひとときの夢に、残酷な優しさを与えられて。空っぽのわたしは、どうすれば良いのかわからないでいる。

 それでも。もう、一人ではいたくないから。独りには、なりたくないから。

 だからわたしは、自分の足で立ち上がった。

「お前、どうして記憶がない?」

「わからない。わたしが知りたいくらい」

「何も覚えていないのか? 名前も?」

「何もわからない。でも、あの二人はわたしをセナと呼んでいた。だから、セナなんだと思う」

「そうか……」

「ねえ、そんなことよりも、早くここから出ないと。逃げないと、あの二人が来るよ」

 優しく笑い合っていた数時間前が、まるで夢や幻であったかのよう。

 穏やかに過ぎた記憶は、今や遥か彼方。

 悪魔に憑依されてしまったかのように、突然に様子が一変した二人。

 豹変し、狂気に染まった顔を思い出し、ふるりと身体が震えた。

「この部屋の鍵なんて、きっと簡単に壊される……そうなったら、こんな狭い室内に退路なんてないよ!」

 この、さほど大きくもない館に逃げ場なんてない。

 相手が傷を負っている今のうちに、去らなければ。

 一刻も早く、ここから逃げなければ――そう、訴える。

 しかし――

「この館からは、出ない」

「何で……どうして?」

「それでは意味がない。俺には、捜さなければならないものがある」

「探し物? そんなの、あの二人から一度逃げてからでも――そうだ。早く助けを求めよう? こんなの、わたしたちの手に負えることじゃない!」

 あの真っ赤に染まった廊下も。

 転がっていた何かも。

 尋常じゃない二人も。


 すべてが、普通じゃない――


「それでは遅い。既に手遅れかもしれない中で、助けなど待ってはいられない。少しでも可能性があるうちに見つけなければならないというのに、頭の固い邪魔者連中など、頼れるものか。そんな余裕はない。俺は、必ず見つける――そのために、ここへ来た」

「キーツ……」

 だから逃げないと言う。邪魔者は呼ばないと言う。

 わたしや、噂の犯人を殺せなくなるから。

 そのために、あの狂った二人から逃げ続けながら、探し物をすると、そう言うのだった。

「……どうしても探さないといけないの? 殺されるかもしれないのに?」

 自分の命を危険に曝してでも、それでも。

 それは、何よりも大事な物だとでも言うかのように、目の前の男はただ頷いた。

「そう……」

 ――ちくり。胸を刺す感情が、湧き上がる。

 わたしは殺すのに、探し物は大事なのね。

 あなたの命よりも、何よりも大切な物なのね。

 ……わたしには、あなたが必要なのに。

 それだというのに、あなたは違うって言うのね。

 そんなのはだめ……だめだよ、わたしを見ていてくれなきゃ。

 そうでしょ。だって、あなたはわたしの――

「チッ……降ってきたか」

 ふいに届いた声。わたしはハッとして、顔を上げる。音に誘われて、顔を窓へ向けた。

 充満していた錆臭さと混ざろうとするかのように、湿った匂いが風に乗ってくる。

 さあっと、闇夜の中で雨が降っていた。

「雨音に紛れて、近付かれる……」

 ぼそりと、困ったというよりかは、悔しそうに顔を歪めて。そうして憎々しげに、どんよりとした雨雲を睨みつける。

 その横顔に、わたしは先程抱いた感情を思い返していた。

 ――あれは、何だったのか。

 生まれた感情は、いったい……。


 キーツはわたしの、何――?


「とにかく、この部屋を出るぞ。歩けるか?」

「う、うん」

「手を出せ」

「え?」

「お前に逃げられると厄介だ。早く手を出せ」

 戸惑う暇もなく、上着だけを羽織り、他の荷物はすべて置き去りにして。

 窓を閉めた男に導かれるがまま、わたしは部屋を後にした。

 廊下は電気が点いている。良く見えるが、それは向こう側も同様だ。

 大きな背中を見上げて、気を引き締める。

 大丈夫――痛むけれど、動かせないわけじゃない。

 引かれた手が、大きくて温かい。

 力強くて。でも、優しいから。

 だから、わたしは歩ける。

 こんな、惨劇を絵に描いたような廊下でだって、歩いて行けるんだ。


 ――たとえ、ぐちゃり、ぬちゃりと、音が立っていたとしても……。


 ああ……でも、見てしまう。

 警戒しないといけないのに……それなのに、周りよりも、何よりも。

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