暗闇の鬼ごっこ
1
重力に従ってこの身へ降ってきたのは、沈黙――訪れた静寂が、耳に痛い。
カチコチと規則正しく刻まれる、時計の音。どこか遠くで葉を揺らす、風のざわめき。それらさえ、やけにはっきりと室内に響く。
電気の点いていない、薄暗い部屋。唯一の月明かりでさえ、雲が覆い隠してしまった。
闇夜の中。開けたままの窓から、ふわり。カーテンを揺らす風が、わたしたちを遮って吹き抜ける。
重たい空気が、匂いが。肺をいっぱいに支配して、やんわりと静かに。しかし、確実に胸を圧迫していた。
――こんなにも呼吸が苦しいのは、何故……?
あの二人に誤解されたのが悲しいからか。胸を殴り、蹴られたからか。命の危機によって早められた鼓動が、未だに収まっていないからか。
それとも――
「わたしを、殺す……? ねえ、キーツ。冗談だよね?」
笑ってみせたいのに、頬が引きつる。声が震える――どうして、そんなひどいことを言うの?
質の悪い冗談だと、嘘だと言って。今なら笑い飛ばして、なかったことにできるから――
切なる願いを込めて、縋るように見つめた青い瞳は、しかし。依然として、鋭い刃の切っ先のように、わたしを射抜いていた。
そこには一切の優しさも、慈しみも、労りも、思いやりも、温かみも、遠慮ですら存在しない。
ただただ鋭く見下し、蔑み、冷たく厳しい、愛のない――まるで、憎んでさえいるかのような表情。
だから……言いながら、わたしは力なく、口を閉じた。
――ここにも、希望はない。
今向けられている感情に、一片たりとも嘘はない。偽りも、曇りさえもない。ただただ純粋な、憎悪……。
じわりと、キーツの輪郭をぼやかす涙が浮かぶ。
どうして……どうして、こんなことになったのだろうか。
やっと会えたのに。
それなのに、こんな視線を向けられて。
あんな言葉を投げられて。
わたしは、このひとに殺されてしまうというのか――
はらはらと落ちていく涙を、拭うこともできない。
何も覚えていないというのに、どうしてか……とても悲しい気持ちに支配された。
苦しくて、痛い――殴られ、蹴られたからじゃない。
昨日出会ったばかりのひとに誤解されるよりも。暴力を振るわれるよりも。包丁を向けられるよりも。辛くて、耐えがたい。
ただただ、心が叫び声を、悲鳴を上げていた。
聞き分けのない、子どものように。
わたしにとって「キーツ」は、こんなにも愛しいひとなのだと知れた。
大事で、大切で、大きな存在――
そのひとが、わたしを殺すと言う。
このひとに嫌われたと思う。それだけでも悲しいのに。
憎まれて、蔑まれて――そんな中で、どうして逃げられようか。
どうして、一人で生きられようか……。
「――だったら、殺して……」
呟きは、するり。思っていたよりも簡単に、喉を、唇を擦り抜けて、音になった。
「何?」
険しい顔が、更に皺を刻む。
わたしは吐き出すように、言葉を放った。
「キーツ、あなたが本気なら、わたしを殺して……何もわからないわたしを、あなたが欲しい答えをあげられないわたしを、殺して――わたし、何を言われているのか、全然わからない。ここはどこ? わたしは誰? あのひとたちは何? 何を言ってたの? あの廊下は何? 転がっているのは何? 噂って何? ここで、この館で、いったい何が起こってるの? わたしは、わたしは……あなたに、いったい何をしたの――?」
壊れた涙腺は、捻ったままの蛇口。
残念なことに、蛇口は自分で水を止められない。
――わたしは、涙が涸れるまでこのままなのかもしれない。
そんなことを本気で思ってしまえるほどに、ぼろぼろと。それは、止まることを知らないようだった。
「……確認ができるまでは、お前を生かしておいてやる」
「え――?」
見上げた瞳は、相変わらずわたしを睨みつけていて。けれど、眉間の皺はどこか辛そうだと、わたしの目には映った。
「勘違いするな。お前が噂の人物だと確定したその時は、殺す」
「キーツ……」
「俺は犯罪者ではない。間違いで人を殺すようなことだけはしたくない。だから、お前の記憶が戻ったその暁には、必ず今の問いに答えろ。逃げることは、許さない」
問い――この館を眠れる森の赤い館にしたのは、お前か。
いったい、どういうことなのだろうか。
赤、館――そういえば、あのふたりも噂がどうとか言っていた。
――あんたが噂の、猟奇殺人犯なんだろ。
――この館を真っ赤に染め上げたのですから。それが、何よりの証ですよね。
「眠れる森の赤い館って、いったい……」
「……この館に関する噂だ」
「噂……?」
「昔はただの森に囲まれた静かな洋館だった。だが、今は違う」
「キーツ……?」
彼は、どこか遠くを見つめるように壁へ視線をやった。
その表情は、見ている者の胸を締め付けた。
「……つい最近だ。ここが惨劇の館――猟奇殺人鬼の亡霊が棲む洋館だという噂が、立っている」
「え――」
女が言っていたのは、このことだったのか。
少年が言っていたのは、このことだったのだ。
「おまけにその狂った殺人犯は、この話を『眠れる森の赤い館』だとかいう、ふざけた名称で言いふらしている」
「眠れる森の、赤い館……」
「死にたければ、亡霊が殺してくれる。亡霊を暴きたければ、来るがいい――そういった煽り文句が、ご丁寧に添えられて」
「そんな……」
「俺は、この館を血塗られた場所にした者を、許さない」
言って、まっすぐにわたしを射抜くキーツ。
その瞳には、やはり憎しみと。そして、悲しい色が見え隠れしていた。
猟奇殺人……ここで、そんなおぞましいことが起きたとは、信じられない。
確かに、手入れが行き届いているとは言い切れない館かもしれないけど。だけど、どこにも惨劇の痕跡なんてなかった。
そういう意味では、綺麗だった。
でも、噂じゃないんだよね。
この扉の向こう――あの廊下が、その証。
そして、それをわたしがやったと、疑われている――
「殺人って……いったい、誰が被害に遭ったの?」
「それは、わからない」
「え?」
わからないって……殺人が起きたのに、そんなことがあるのかな……?
しかし、ちらと窺い見た男の顔は、真剣そのものだった。
「遺体は出てきていない。噂が一人歩きしている状態だ」
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