手加減など微塵も感じられない拳――重いそれは、わたしの頭があった場所を空振る。

 わたしは寸でのところでソファーから転がるように落ちて、バタバタと足をもつれさせながらも、急いで扉へ向かった。

 震える手で、ガチャガチャと何とか扉を開け放って。閉める余裕もないままに、よろけながらも隣にある玄関へと一直線に向かった。

「ほらほら、逃げろ逃げろ――!」

 そう高らかに叫びながら、哄笑を響かせるエルサさん。

「良いね、その顔……もっと怯えろよ。もっと歪ませてみろよ――!」

 女は、この狂気を愉しんでいた。

 わたしへの加虐に、快楽を得ている。

「おら、どうした! 逃げねえと、追い付いちまうぜ!」

 わたしを追い立てる声に、びくり。怯んでしまった身体は、玄関を前にして派手に転んでしまう。

 足が上手く動かなくて、力が入らない――立てない。

 どうやら、腰が抜けてしまったようだ。

「あん? もう動けねえってか? チッ、つまんねえなあ……」

 ゆらり。ゆっくりと歩いて来る女。

 絶対的支配者の顔で、わたしを捉えて離さない。

「良いのか? なあ、そこで終わりか?」

 言われ、なんとか這い蹲って進む。

 まるで、床を這いずり回る、羽根をもがれた虫のようだ。

 その無様な姿に、女の高笑いが響く。

「良いねえっ……! そうでなくっちゃなあ! そうでなきゃ、面白くねえよなあ――!」

 叫んだかと思いきや、唐突にこちらへと走ってきて、拳を振るう。

 気付き、転がりながらもなんとか避けて。体は、やっと玄関へと辿り着いた。

 しかし――

「立たねえと、開けられねえよなあ……」

 その通りだった。扉は、まるで高い壁であるかのように眼前で立ち塞がっている。

 やっと目的地に着いても、これでは外に出られない。

 どころか、どの部屋に向かったとしても、それは同じだった。

 このままでは、扉を開けて逃げることなど絶対に不可能。

 それは、まさしく絶望――完膚なきまでに、わたしの望みを絶つことを意味していた。

「安心しな。すぐには殺さねえからさあ……いろいろと、聞きてえこともあるし」

「ひっ……」

 眼前に迫る、妖艶な顔。

 握り込まれた拳が、わたしの顔を目掛けて飛んできた。

 咄嗟に、腕で顔を庇う――が。

「――ぐっ……!」

 衝撃を感じたのは、頭部――ではなく、がら空きの腹部だった。

「う、げほっ、うぐ……っ……」

「やあっと、笑うのを止めたか……気持ちわりいんだよ。ずっと、にやにやしやがって――!」

「があっ……!」

 重い蹴りが、わたしを襲う。

 それは足を、腕を、腹を、頭を目掛けて容赦なく降り注いだ。

「ほら、もっと顔を見せろよ。喚いてみせろよ。恐いか? 痛いか? 苦しいか? あたしはそんな歪んだ顔を見るのが好きなんだよ……だから、もっともっともっともっともっともっと泣き叫べ――!」

「ううっ……」

 痛い……痛いのだろうか。わからない。全身が痛いような気がする。

 殴られ、蹴られるたびに、衝撃で体が動く。

 まるで、サンドバッグだ。

 力は、もう入らない。

 わたし、このまま死ぬんだ……。

 何もわからないままに。

 ――ああ、それは、嫌だなあ……。

 だって、こんな時なのに、どうしてだか思ってしまうんだ。

 顔もわからないのに、その名が消えない。

「キーツ……」

 会いたい……。

 わたしには、あなたが必要なのに。

 ねえ、あなたは今、どこにいるの?

 わたしを見ていてくれなきゃ、だめだよ――

「何だ。もう壊れたのか? 呆気ねえなあ、動かなくなっちまってよ。おら、おーい! ……ダメだ。もう喋れねえか?」

「では、後のことはボクに任せてください。抜かりなく、調しておきますので」

「ああ、好きにしろ。鳴かなくなったオモチャなんていらねえし……ああでも、聞けそうなら聞き出しとけよ」

「わかりました。エルサさん、終わったら――」

「ああ。いつものだろ? ちゃんとくれてやるよ」

「はい……! 絶対ですよ! 忘れないでくださいね!」

 女の離れる気配がする。代わるように現れた包丁に、今度こそ終わるのだと思った。

「安心してください、セナさん。ボク、長いので、上手いですから。おかしな真似などなさらず、従順に、素直であれば、余計な痛みなど感じることはありませんからね。イイ子でいてくだされば、最後にはちゃんと痛みを感じないように、一瞬で終わらせてあげます。ではまず、気付けのために――手にしましょうか……!」

 ぼんやりとした視界に煌めく、夕陽を映した刀身。

 振り上げられたそれに、目を閉じた。


「――悪いが、そいつには俺も用がある」


 突如として聞こえてきた声は、低い、知らない男のもの。

 バタンと扉を開けたと、同時。凶器を蹴り上げ、全員の視線を釘付けにした背中が、まるでわたしを護るように立ちはだかった。

「だ、誰だ!」

 動揺したそれは、女の声。

 しかし、男は答えることなく、降ってきた包丁――少年の握っていたそれを掴み、すかさず流麗な動きで、喚いた女へと向かって投げた。

「エルサ――!」

 咄嗟に伸ばされた少年の腕が、間に合うはずもなく。

 刀身は、女の右腕――利き手側を貫いた。

 女の悲鳴がこだまする。

「今のうちだ。大人しくしていてもらおう」

 そっと囁いて。男は転がっていたわたしを抱き上げ、一足飛びに階段を駆け上がる。

 女は床に蹲り、少年はそんな彼女に駆け寄っていて、こちらには目もくれない。

「話せるか」

「あ、あなたは、いったい……」

 男は客室――扉が開け放たれたままの、わたしの泊まっていた部屋のベッドへと、遠慮なくこの体を放った。

 軋む体をなんとか起こして、男を見上げる。

 短い銀髪に似合った青い瞳が、鋭くわたしを見下ろしていた。

 わたしを助けてくれた。いったい誰なのだろうか。男のひと……まさか――

「もしかして、キーツ? そうなの? ねえ、教えて。わたし、何も覚えてないの。なのに、こんなことになって……」

「覚えていない? ……まさか、記憶がないのか?」

「そうなの。あ、でも、それはまた後にしないと。今はそんなことよりも、ねえ、どうして二階に来たの? 早くここから逃げないと、あの二人がやって来ちゃう。それに見たでしょ? この廊下の惨状。どこかに、あれをやったひとが潜んでいるかも」

「どうして、そう思う」

「え?」

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