4

「んん……」

 窓から差すオレンジの光に照らされて、目が覚めた。

 今は何時だろうか。そろりと体を起こして、思う。

 キーツはどこ、と――

「――キーツって、誰……?」

 刹那、一気に目が覚めた。

 今、浮かんだ名前――それは、いったい誰のことなのか。

 しかし、ずきり。瞬時、またもや走った痛みに、後頭部を押さえる。

 あれ……何だかここ、膨らんでいるような……? たんこぶだろうか。

 わたしは、頭を打っていたのか。それで、記憶がないというのだろうか。

 わからない……けれど、と思う。

 キーツ。それが、連れの名前なのだとしたら。

 そのひとは、もうこの館にいるはずだ。わたしは、ではない。と思ったのだから。

 それが、手掛かりではないだろうか。

 もしかしたら、広く感じたこのベッドも、二人で使っていて。

 運悪く昨日から不在で、会えていないだけなのだとしたら。

 であれば、そのひとが帰って来ることを、わたしはここで待っていればいいのではないか――

「――本当に……?」

 そうなのだろうか?

 わからない。

 けれど、隈なく探したあの時に、他にひとはいなかった。

 そうであると信じたい。

 でなければ――

「とにかく、起きよう……」

 わたしは、ベッドから起き上がる。喉が渇いてしまった。何かを飲もう。

 そう決めて、食堂へ向かうべく部屋の扉を開けた。

「っ――!」

 しかし、わたしはそこで立ち尽くしてしまった。

 これ以上ないというほどに、自然、目が見開かれる。

 息を呑むとはこういうことかと。どこか冷静な頭が、そんな情報を処理した。

 ギィ……手を離れた扉だけが、音を立てて勝手に開いていく。

 果たしてそこには、昼間にはなかったはずの光景が、眼前に広がっていた。

「え――?」

 ――ぐらり。よろめく足元で、。柔らかくも存在感のある感触とともに、奇妙な音がした。

 それは通常、廊下では決して聞くことなどない響き。

 突如として肥大する心臓。鼓動が警鐘を鳴らすかのように、音量を増す。

 いったい何の音? 何かを踏んだようだけれど……。

 見てはいけない――そう思うのに。

 裏腹に、好奇心がむくりと頭をもたげた。

 そろそろと、視線だけを足元へやる。

 と、靴の下――そこには、が転がっていた。

「ひっ――!」

 ガンっと、左肩が扉にぶつかる。

 息が止まる。

 瞬きは忘れてしまった。

 ぶつけた痛みなんて感じる余裕もなく、ただただ目の前にあるそれらを凝視した。

 理解が追い付かない。

 これは何だ。

 何が起こっている。

 どうして廊下は、壁は、のか。

 この赤の、正体は……。

「まさか、これ全部、血……?」

 鼻を刺す、錆びた匂い。赤黒い液体――このおびただしい量は、どこから……。

 そして、いったい何の――

 吸い込んでしまった匂いに、むわっと込み上げる吐き気。

 口元を押さえ、その場に蹲る。

 しかし匂いの元へ近付いてしまったがために、頭がくらっとした。

「――セナ!」

 傾いだ体を受け止めてくれたのは、ロングのブロンド、エルサさん。

 力強い腕で、立たせてくれる。

 背に腕を回し、歩けるように促してくれた。

「大丈夫か? 気をしっかり持て」

「は、はい……」

「二階はダメだ。どこもかしこも、こんなんなってやがる。下に行くぞ」

 そう言ってエルサさんは、階段へとわたしを誘導した。

 わたしに合わせてゆっくりと下りていきながら、辺りを警戒するように見回している。

 そうして連れられて行ったのは、リビングルームだった。

 そこには、エルサさんの連れの少年、トーリくんがいた。

「セナさん! 良かったです。ご無事だったのですね」

「ああ、見に行って良かったよ。こうやって口押さえたまま、廊下へ倒れそうになっていやがった」

 未だに口元を両手で覆っているわたしを見て、エルサさんはふうと息を吐く。

「どうやら、一階に異変はねえらしい。とりあえずは落ち着け、な?」

「は、はい……」

「どうぞ、水です。落ち着きますよ」

 差し出されたコップを受け取ろうと、右手を伸ばす――が、震えて持つことができない。

 片手ではだめだ。とにかくと、ソファーに座って、わたしは口元から左手も離した。

 その瞬間――

「――セナ……?」

「セナ、さん……?」

 二人が私を見て、驚愕に目を見開いていることに気付く。

 いったい何に驚いているのだろうか。

 どうして、わたしから距離を取るのだろう。

 ――その答えは、引きつりながらも歪んだ女の口元から、発せられた。

「セナ、あんた……なんで、この状況で――」


 ――そんな愉しそうに、笑ってんだ?


「え――?」

「まさか……気付いておられないのですか?」

「とんだ女だよ、あんた! あの血だらけの廊下で、ずっとそうやって笑ってたってのかよ!」

 二人は何を言っているのだろう。

 わたしがこんな時だというのに、笑っているというのか。

 そんなこと、あるわけが――そろり、両手を口元に当てる。

 つつつと、指で唇の形をなぞって、そうしてようやく理解した。


 わたしは、笑っている――


「どう、して……?」

「どうしてだって? はっ、あたしが教えて欲しいね。――まさか、あれをやったのはあんたか? セナ」

「え――?」

「ボクたちが戻った時には、既にあの状態でした……他に成し得ることが可能な人なんて……」

「ま、待って……待ってください! わたし、そんなこと――!」

「じゃあ何で笑ってんだ。あんた、普通じゃねえよ」

「そんな、こと……」

 誤解なのに。わたしにだって、わからないのに。

 二人の目が、猜疑に染まる――

「ってえことはよお、記憶がないってえのも、本当は嘘なのかもなあ……」

「え――」

「あたしらを油断させるため……とか?」

「そんな……セナさん、どうして……」

「ち、違……本当に、わたし――」

「んな顔で言われたって、説得力ねえよ」

 蔑みの視線――なのに、わたしの口角は上がったままだ。

 どうして……どうして、こんなことに……。

 良くしてもらったひとたちに誤解されて、疑われて、睨まれて、距離を取られて。

 あんなものを、見たというのに。


 わたしの表情は、恍惚に染まっている――


「あーあ。ったく、すっかり騙されちまった」

「本当ですね……噂の正体。そのものご本人だったのならば、あのような小芝居は無意味でしたのに……」

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