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「――ん……」

 ふわりと浮上した意識に導かれ、瞼が上げられた。

 天井、壁、家具――室内の内装を見て、ここが自室ではないということを、ぼんやりと意識が判断する。

 そうして、自分が宿泊先の館にいることを理解した。

「……え――?」

 館と、今確かにそう思った。飛び起きて、記憶を辿る。

 ずきり――鈍い痛みが、またもや後頭部に走った。短い唸り声が、喉奥から漏れ出る。

 それすらも同じ――顔を歪めながらも額に左の手をあて、目を閉じた。

 数時間前の、まだ夜が明けていない頃。突然のサイレンに起こされて、何もかもわからないままに、暗闇を彷徨いながら歩いた。

 そうして出会った二人は、わたしのことを知っているようだった。

 そろり、目を開ける。

「わたしは……セナ――?」

 二人が、わたしに向かって呼んだ名前。

 しかし、やはりふわりとした意識に邪魔をされた。

 わたしは、セナというのだろうか……わからない。

 あの二人のことも、どうしてここに宿泊しているのかも、自分が何者なのかも。

 寝て起きたところで、やっぱりわからなかった。

 ただただ唯一、ここが誰かの館であるということくらいしか――

「そんなことわかっても、仕方がないのに……」

 それでも、あの二人か、あるいは館の主人が、わたしのことを教えてくれるだろう。

 困ったら頼って良いと、そう言ってくれていた言葉を思い出して。

 わたしは目に留まった、床に転がっているボストンバッグから服を取り出して着替えた。

 顔を洗うべく、洗面台へ向かう。鏡に映る姿は、気弱そうな印象を与えた。

 セミショートの黒髪。前髪は少し長めだ。そろそろ切った方が良いだろう。

 ダークブラウンの瞳が、じっとこちらを見つめている。どこか既視感があるのは、自分の顔だからだろうか。

 冷たい水に、顔を晒す。頭を上げ、再び見つめた鏡は、しかし。当たり前だが、先程抱いた第一印象をそのままに映していた。

 じっと見ていたいものでもない。くるりと踵を返し、ざっと部屋を見渡してみるものの。どうやらわたしの荷物は、このバッグ一つだけのようだった。

 しかし、身元の分かる所持品が一切ない。

 誰かに連絡を取ろうにも、通信機器は見当たらなかった。

 金銭の類もない。

 鍵はあるが、どうやら家のものではないようだ。この部屋のドアの鍵だろう。

 これは少し、いや。かなり異常なことではないだろうか。

 本当にわたしの持ち物は、これですべてなのか。

 不安が過ぎる中、だがしかし。わたしの腹の虫は、主人と違ってなんとも呑気なようだった。

 とはいえ、食料はどこにも見当たらない。ともかく一度、この部屋を出てみることにしよう。

 バッグを置いて、身なりを整えて。わたしは、扉を開けた。

 目の前に広がっていたのは、日の光が差した明るい廊下。

 朝の爽やかな空気が、どこからか入ってきているのだろう。澄んだ風に乗って、森の香りがした。

 清々しい気持ちに、自然と頬が綻ぶ。

「おや、セナさん」

「あ……」

 扉をパタンと閉じた、その同時。隣からガチャリと音がして、少年が顔を出した。

 今は一人なのだろう。そのまま扉を閉じて、こちらに向き直った。

 爽やかな笑顔が、とても良く似合う。

「おはようございます。昨夜は、あれからよく眠れましたか?」

「おはようございます……その、一応は……」

「そうでしたか。……どうやらその様子では、依然ボクのことはわからないままのようですね」

「……すみません」

 悲しそうな顔を向けられてしまった。申し訳なさから俯き謝ると、慌てた声が降ってきた。

「いえ、どうか謝らないでください。嘘や冗談というわけでもなさそうですし……困ってしまいましたね」

「困る……?」

「え、ええ……ボクたちのことだけでなく、昨晩の様子ですと、セナさん。貴方ご自身のことも、わからなくなってしまっているようでしたので。それでは、困ってしまうでしょう?」

 少年は眉尻を下げたまま、小首を傾げた。

 わたしが黙ってしまっていると、くすり。目の前のひとは、今度は穏やかに笑って、くるりと背を向けた。

「お腹は空いていませんか? 難しいことは、朝食をいただいてから考えましょう」

「はい」

 にこりと笑って歩き出す背を、駆け足で追いかける。

 しかし、歩く速度を緩めてくれていたのか。易々と隣に並ぶことができた。

「食堂などの場所は、覚えていらっしゃるのですか?」

「いえ。何がどこにあるのかも、さっぱりで……」

「そうでしたか。食堂は下の階にあります。こちらですよ」

 折り返し型の階段を下りて、突き当たりを左へ折れる。そうしてまっすぐに進むと、食堂が現れた。

 辿り着くまでも、着いてからも。ずっとわたしは辺りをきょろきょろと見回していた。

 終始そんな姿を見られていたことに気付いたのは、朝食を目の前にしてからだった。

「本当に、何も覚えていらっしゃらないのですね。まるで、この館へ初めて足を踏み入れたかのような反応でした」

「え……」

「ごめんなさい。つい、見入っていました。どうか、怒らないでくださいますか? 疑っていたわけではないのです。ただ、物珍しそうにされている姿が、可愛らしかったもので……」

 優しげな笑顔に、どきりとする。怒っていたわけではないのだけれど、言いそびれてしまった。

 戸惑いに落ち着かず、視線を下げる。そこには、パンやスープといった朝食が並んでいた。

 これを用意してくれたのは、このひとだ。

 どうやら、誰もいないらしい。こうして、自由に使ってもいい食堂なのだろうか。

「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください。簡単なもので、申し訳ないのですが……」

「いえ……いただきます」

「はい。お口に合うといいのですけれど」

 温かいスープやパン。焼いたベーコンに、ソーセージとスクランブルエッグ。それから、フレッシュなサラダにオレンジジュースまで。

 食材は、冷蔵庫や調理場にあったと言うが、即席でこれだけ用意してくれたなら、十分というものだ。

 広い食堂のテーブル。向かい合わせに座った少年と、時々目が合って微笑まれた。

「どうですか?」

「美味しいです。とても」

「それは良かったです」

 黙々と食べ続ける。何を話せばいいのか、わからなかったからだ。

 相手も気を遣ってくれたのだろうか。黙って食事をしている。

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