2
「――ん……」
ふわりと浮上した意識に導かれ、瞼が上げられた。
天井、壁、家具――室内の内装を見て、ここが自室ではないということを、ぼんやりと意識が判断する。
そうして、自分が宿泊先の館にいることを理解した。
「……え――?」
館と、今確かにそう思った。飛び起きて、記憶を辿る。
ずきり――鈍い痛みが、またもや後頭部に走った。短い唸り声が、喉奥から漏れ出る。
それすらも同じ――顔を歪めながらも額に左の手をあて、目を閉じた。
数時間前の、まだ夜が明けていない頃。突然のサイレンに起こされて、何もかもわからないままに、暗闇を彷徨いながら歩いた。
そうして出会った二人は、わたしのことを知っているようだった。
そろり、目を開ける。
「わたしは……セナ――?」
二人が、わたしに向かって呼んだ名前。
しかし、やはりふわりとした意識に邪魔をされた。
わたしは、セナというのだろうか……わからない。
あの二人のことも、どうしてここに宿泊しているのかも、自分が何者なのかも。
寝て起きたところで、やっぱりわからなかった。
ただただ唯一、ここが誰かの館であるということくらいしか――
「そんなことわかっても、仕方がないのに……」
それでも、あの二人か、あるいは館の主人が、わたしのことを教えてくれるだろう。
困ったら頼って良いと、そう言ってくれていた言葉を思い出して。
わたしは目に留まった、床に転がっているボストンバッグから服を取り出して着替えた。
顔を洗うべく、洗面台へ向かう。鏡に映る姿は、気弱そうな印象を与えた。
セミショートの黒髪。前髪は少し長めだ。そろそろ切った方が良いだろう。
ダークブラウンの瞳が、じっとこちらを見つめている。どこか既視感があるのは、自分の顔だからだろうか。
冷たい水に、顔を晒す。頭を上げ、再び見つめた鏡は、しかし。当たり前だが、先程抱いた第一印象をそのままに映していた。
じっと見ていたいものでもない。くるりと踵を返し、ざっと部屋を見渡してみるものの。どうやらわたしの荷物は、このバッグ一つだけのようだった。
しかし、身元の分かる所持品が一切ない。
誰かに連絡を取ろうにも、通信機器は見当たらなかった。
金銭の類もない。
鍵はあるが、どうやら家のものではないようだ。この部屋のドアの鍵だろう。
これは少し、いや。かなり異常なことではないだろうか。
本当にわたしの持ち物は、これですべてなのか。
不安が過ぎる中、だがしかし。わたしの腹の虫は、主人と違ってなんとも呑気なようだった。
とはいえ、食料はどこにも見当たらない。ともかく一度、この部屋を出てみることにしよう。
バッグを置いて、身なりを整えて。わたしは、扉を開けた。
目の前に広がっていたのは、日の光が差した明るい廊下。
朝の爽やかな空気が、どこからか入ってきているのだろう。澄んだ風に乗って、森の香りがした。
清々しい気持ちに、自然と頬が綻ぶ。
「おや、セナさん」
「あ……」
扉をパタンと閉じた、その同時。隣からガチャリと音がして、少年が顔を出した。
今は一人なのだろう。そのまま扉を閉じて、こちらに向き直った。
爽やかな笑顔が、とても良く似合う。
「おはようございます。昨夜は、あれからよく眠れましたか?」
「おはようございます……その、一応は……」
「そうでしたか。……どうやらその様子では、依然ボクのことはわからないままのようですね」
「……すみません」
悲しそうな顔を向けられてしまった。申し訳なさから俯き謝ると、慌てた声が降ってきた。
「いえ、どうか謝らないでください。嘘や冗談というわけでもなさそうですし……困ってしまいましたね」
「困る……?」
「え、ええ……ボクたちのことだけでなく、昨晩の様子ですと、セナさん。貴方ご自身のことも、わからなくなってしまっているようでしたので。それでは、困ってしまうでしょう?」
少年は眉尻を下げたまま、小首を傾げた。
わたしが黙ってしまっていると、くすり。目の前のひとは、今度は穏やかに笑って、くるりと背を向けた。
「お腹は空いていませんか? 難しいことは、朝食をいただいてから考えましょう」
「はい」
にこりと笑って歩き出す背を、駆け足で追いかける。
しかし、歩く速度を緩めてくれていたのか。易々と隣に並ぶことができた。
「食堂などの場所は、覚えていらっしゃるのですか?」
「いえ。何がどこにあるのかも、さっぱりで……」
「そうでしたか。食堂は下の階にあります。こちらですよ」
折り返し型の階段を下りて、突き当たりを左へ折れる。そうしてまっすぐに進むと、食堂が現れた。
辿り着くまでも、着いてからも。ずっとわたしは辺りをきょろきょろと見回していた。
終始そんな姿を見られていたことに気付いたのは、朝食を目の前にしてからだった。
「本当に、何も覚えていらっしゃらないのですね。まるで、この館へ初めて足を踏み入れたかのような反応でした」
「え……」
「ごめんなさい。つい、見入っていました。どうか、怒らないでくださいますか? 疑っていたわけではないのです。ただ、物珍しそうにされている姿が、可愛らしかったもので……」
優しげな笑顔に、どきりとする。怒っていたわけではないのだけれど、言いそびれてしまった。
戸惑いに落ち着かず、視線を下げる。そこには、パンやスープといった朝食が並んでいた。
これを用意してくれたのは、このひとだ。
どうやら、誰もいないらしい。こうして、自由に使ってもいい食堂なのだろうか。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください。簡単なもので、申し訳ないのですが……」
「いえ……いただきます」
「はい。お口に合うといいのですけれど」
温かいスープやパン。焼いたベーコンに、ソーセージとスクランブルエッグ。それから、フレッシュなサラダにオレンジジュースまで。
食材は、冷蔵庫や調理場にあったと言うが、即席でこれだけ用意してくれたなら、十分というものだ。
広い食堂のテーブル。向かい合わせに座った少年と、時々目が合って微笑まれた。
「どうですか?」
「美味しいです。とても」
「それは良かったです」
黙々と食べ続ける。何を話せばいいのか、わからなかったからだ。
相手も気を遣ってくれたのだろうか。黙って食事をしている。
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