「才能の無い子は、野球やる資格ないと思った?」(2)
事故が起きたのは、俺が高校一年生の秋のことだ。
中学時代、県大会で胴上げ投手になるなど、輝かしい実績を持っていた俺。当然のごとく、甲子園出場実績のある自元の強豪私立高校から声がけがあった。
推薦入学したのち、それなりに有名人だった俺は、部内でもすぐ脚光を浴びた。とはいえそこは強豪私立。他県から優秀な選手たちが集まってくる中では、思うように出番を与えてもらえない。
チャンスがめぐってきたのは、夏の県大会予選が終わり、チームが新体制に切り替わった頃だ。練習試合でスタメン出場をする機会が与えられると、それからたびたびブルペンに呼ばれるようになる。
当時チームには、三人の先発候補がいた。
キャプテンで二年生の、暫定エースの先輩。外野手と投手を兼任している、どちらかと言えば中継ぎ中心の同じく二年生。最後に、三塁のレギュラーを、ほぼ手中に収めつつあった俺だ。
三人の中で最も球速が速いのが俺で、スピードガンの計測では、マックス百四十三キロまでは出ていた。
制球力にこそ課題を残していたものの、経験を積んでいけば行く行くはエースになれる逸材だと言われていたし、実際に俺も、そうなれると信じて疑わなかった。
とにもかくにもがむしゃらだった。
毎日の練習のみならず、自宅でも時間が許す限り厳しいトレーニングを自らに課した。周囲の一年生とも競争をし合い、同世代には負けられないという意地が、俺を突き動かしていた。
厳しい夏が過ぎ、木々が赤く色づく秋がきた。吹く風が涼しさが増してくる頃になると、一年生の中から一人~また一人と脱落者が出て、部員の数も減っていく。
生き残っていること。
同世代の中で唯一のレギュラー候補であることが自負となり、俺のプライドを相応に充足させていった。
そんななか、運命の日がやってくる。季節は確か、十月の初め頃だ。
大事な練習試合を前にして、俺は高熱を出していた。試合前日になっても熱は一向に引かず、やむなくその日の夜に、明日は休ませてくださいと監督に連絡を入れた。
せっかく、アピールするチャンスだったのに、と呪詛の言葉が頭の中で渦を巻いていた。
ところが翌朝になると、俺の熱は嘘のように下がっていた。微熱程度はあるものの、これなら普通に歩けると判断した俺は、止せば良いのに熱覚ましの薬を服用し、ふらつく身体に鞭を打って自転車で学校を目指した。
学校から自宅まで、徒歩でも通える距離──自転車であれば、二十分と掛からなかったこと──が、結果として不運を呼び込んでしまったのかもしれない。
校舎の姿が見え始めたあたりで、交差点に差し掛かる。横断歩道を渡り始めたとき、真横から信号無視の軽自動車が接近しているのに気づいてなかった。
黙って大人しく家にいれば良かったのに。熱さえなかったら、避けられていた事故だったのに。
今となっては、無数の後悔だけが残されている。
結果として、俺はその軽自動車と接触して激しく転倒した。「大丈夫です」と気丈に振る舞い起き上がろうとしたとき、左肩に走った激痛が今でも忘れられない。
俺の野球人生は、今まさに最高潮を迎えようとした瞬間、あっけなく終わってしまった。
『
救急搬送された先の病院で、医師から告げられたのはそんな言葉だった。
腱板とは肩関節に安定性をもたらす、筋肉および腱の複合体のことである。腱板損傷とひとくちに言っても、炎症だけで済む比較的軽微なものから、断裂にまで至る重傷なケースまで幅広く存在する。
俺の場合、幸いにも完全に断裂している箇所はなかったものの、部分的な損傷が複数箇所見受けられ、肩を高く上げたとき、腕を強く振ったときなどに、強い痛みがともなうようになったのだ。
『スポーツは……できるんですか?』
こわごわと尋ねた俺に、『条件つきになるけれど』と答えた医師の顔が曇ったのを今でも忘れられない。
この瞬間、俺の夢は夢ではなくなり、両の手のひらから零れ落ちていく砂のように、崩れて消えた。
通院を終えて部活動に顔を出したとき、肩に負担の掛からないポジションで野球を続けないか? とそんな提案も監督からされた。
だが、エースナンバーを背負って甲子園の土を踏むことを夢として掲げていた俺にとって、レギュラーになれるかどうかもわからないのに、野手として再スタートを切るだけの情熱はとうに損なわれていた。ベンチ要員になるかもしれないし。そんな不甲斐無い姿を晒すくらいであれば、ここでキッパリ諦めようと思った。
だから俺は──野球部を辞めた。
※
あの日の光景が鮮明に蘇ってくると、心の中に暗い影が落ちる。賑やかだったはずの居酒屋の喧噪までが、俺に後ろ指をさしてくる嘲笑みたいに思えた。
沈黙が二人の間に横たわる。鯛の刺身を箸で突くかちゃかちゃという音だけが、やたらと耳障りに感じられた。
やがて澱んだ空気を払うみたいに、そっか、と彼女が呟いた。
「もう、野球は嫌いになっちゃった?」
コーチをお願いした件、凄く後悔しています。とそんな彼女の本音が透けて見える沈んだ声だ。
野球、嫌いになったんだろうか──と自問してみる。
それはないだろうな、とすぐ返答が戻ってくる。
嫌々足を運んだ小学校のグラウンドだったけれど、久しぶりにボールに触れて、活き活きと動き回る小学生たちを見て、他ならぬ俺自身が楽しかった。あの子はああすればもっと上手くなるのに、とか、こうすればもっと結果が出るのにな、とか、色々考えるのが楽しかった。
『しょうらいは野球選手になるのが夢です。そのために、毎日野球部でれんしゅうをしています』
あの頃の──小学四年生の自分が羨望の目を向けていた野球選手の背中が、自分じゃなくなったのが虚しいだけなんだ。
「……まあ、野球は好きだよ。今でも」
「あれ、そうだったの? なんか、ずっと辛そうな顔をしているからさ、てっきり」
彼女が瞳を瞬かせる。
「うん。別に、野球が嫌いになったわけじゃないよ。嫌いだったらさ、そもそも今日だって顔を出してなかったし。でも、好きなんだけど──なんて言うのかな。ボールに触れているのが、なんとなく辛いっていうかさ」
昔の自分を思い出すんだよ。……好きだからこそ。
自分が思い描いていた理想と、現実がかけ離れてしまったのが……許せないんだ。
「そっか。なるほどね」
絡まった思考の糸を解いて結び直すみたいに、霧島が数秒沈黙した。
「だからそんな顔しているのか。新君の気持ちは理解できるけど、あんまり納得はできないかな」
「え? 今の話に納得できない要素あった?」
「うん、あるよ」とためらいのない声で霧島が言った。「だってさ、まったく野球ができなかったわけでもないんでしょ?」
「うん、そうなんだけど。……いや、でもそれは」
そうはいかないんだよ。
肩が悪くて腕が高く上がらないから。
強い送球ができないから。速い球が投げられないから。
……言い訳めいた台詞ばかりが、脳内を駆け巡る。
「ピッチャーじゃなくても良いなら、続けられたんでしょ?」
「ん、それはまあ……」
実際、その通りなだけに、歯切れの悪い返答になってしまう。
「だったら、続ければ良かったのに」
なんだよ。女のお前に、俺の気持ちなんてわかるのかよ。
俺だって、野球を続けられるんだったら続けたかったよ。
──続け……たかった?
ぞくりと全身を悪寒が突き抜けた。
憤りの感情がしぼんでいくと、代わりに後悔の念がじくじくと染み出してくる。俺だって──本当はわかっていたんだ。肩に負担の少ないポジションでなら、あるいは代打専門としてなら、野球を続けられたんだと。
その可能性自体を、模索してこなかっただけなんだ。
「だって、野球は好きなんだよね?」
「うん……」
さっさと話を切り上げたかった俺は渋々頷く。だが、いま一つ納得できていない様子の霧島は、なおも食い下がってくる。
「肩を怪我した。エースにはなれなくなった。もしかすると、長時間プレーすると肩が痛むかもしれない。でも──それで諦めちゃったのは、もったいないよね? 現実を知ってさ、分相応な生き方をしても、良かったんじゃないかな?」
「でも、速い球が投げられなくなったなら、もう野球を続ける意味がないって思ったんだ。俺の夢は──エースピッチャーとして、甲子園に出ることだったから」
自分でも、子供染みた言い訳だと思う。後ろめたい感情が、じろりと俺を睨んだ気がした。
ふ~ん、と呟いた霧島の顔が、いよいよ呆れたものになる。
「ねえ、新君。今日の練習見てどう思った? みんなが上手なわけじゃなかったでしょ? 才能の無い子は、野球をやる資格ないと思った? 速い球を投げられなかったら、ピッチャーをやる資格なんてないと思った?」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。
もちろん、そんなはずはない。あるはずがない。
「理想になんてさ、届かなくてもいいじゃない。夢なんてさ──」
霧島がぐいと烏龍ハイを喉に流し込む。
「どうせ、殆どの人は叶えることができないんだよ。そんな自分に絶望して、立ち止まって、それでも、暗闇の中で進むべき道を探して歩いていくんだよ。そこに──新たな夢を見つけてね」
「新たな、夢──?」
きっと、その答えにも俺はずっと昔から気づいていた。
でも、理想から遠ざかった自分を受け入れたくなくて、夢を諦めたつもりになっていたんだ。
今さらのようにそんな事実に気づかされると、無性に恥ずかしくなってくる。なんだかんだ言って、霧島って教師なんだな~なんて、感心させられる。
「でもね。頭ではそう理解できていたとしても、落としどころを見つけていくのは大変だよね。私だって、現状に不満はあるし」
「霧島が?」
彼女の言葉は心底意外だと思った。
頭脳明晰。
容姿端麗。
見た目もよくて、頭もよくて、欠点なんて何ひとつなくて。誰もが羨む存在が霧島七瀬という女性だった。彼女が望むならば、それこそ、なんでも手に入ると思うんだが。
烏龍ハイを、あおるように飲み干して、霧島がお代わりを注文した。
「教師になりたい、というのが幼い頃からの私の夢で、実際、その夢は叶ったんだけれど、それなのに、時々辞めたいな……って落ち込むことがあるの」
新君に説教する資格なんてないね、と自虐的に霧島が笑ってみせる。引きつった口元の笑みを引き取って、霧島の話はそこから学校に対する愚痴に変わっていった。
子どもたちにどこまで指導してよいのかわからなくなる。保護者への対応の難しさ。教師間に存在している、上下関係からくる軋み。先生同士の不和と、感じる疎外感。
「なんか理想と違うっていうかさ──。まあ、不満なんて言い出したらきりがないし、どこの職場でも、どんな仕事でも、同じなんだろうけどね」
「まあ、そういうものなんだろうな」
大きさはそれぞれ違うとはいえ、大抵の人が悩みを抱えているもの。それは、すべてが完璧に見える霧島でも、同じことなんだ。俺も、お前も、一人の人間でしかないんだな、と思い至ると、自分の悩みが酷く矮小なものに見えてくる。
「ごめんね。私のせいで湿っぽい話になっちゃった。なんか楽しい話でもしようか」
「そうだな」
霧島がちろりと舌を出す。んー、と話題を探すように唸った。
「新君はさ、……誰か付き合っている人とかいるの?」
出し抜けに放たれた問いに、ぎくりと心臓が高鳴った。
「いねえよ。そんなもん……」
「じゃあ、好きな人は?」
「いない」
「へ~意外。モテそうなのにな」
そんなの、霧島のほうだろ。
「モテるのは霧島の方だろ。中学の頃はファンクラブが存在してたと聞いたことあんぞ?」
「え、嘘だ! 誰がそんなこと言ってたの」
アルコールのせいだろうか。紅潮した顔で彼女が言う。
「まあ、嘘なんだけど」
「嘘なのかよ。
でもさ、俺の中では確かに存在していたけどな。霧島七瀬ファンクラブ。会員は、俺一人だけだけど。
二杯目の烏龍ハイに口をつける霧島の横顔を見ながらそんなことを思う。不意に彼女もこちらを向いたため、逃げるように視線を外した。
俺はさ、今でもお前のことが好きなんだよ。……もちろん、今さらこんなこと言えるはずもないけどな。
そこからお互い、仕事の話と野球の話はやめて、中学時代の思い出話に花を咲かせた。
夜はゆっくりと、ふけていった。
※
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