第9話(後編) 花浅葱灯弥は、びしょ濡れになっても思慮を巡らす。

 「ハナヤちゃん、もうすぐだよ?」


 言って、彼女はくすくすと笑っている。


「…。」


「ちょっと前に雨落ち着いたし、もう浸水してないといいんだけど。ねー、ハナヤちゃん?」


「…。」


「ちょっとハナヤちゃーん、ウチの声聞こえてるー?」


「…。」


 明らかに挑発的な言葉の数々。これらに対してだんまりを決め込むのは決して批判されるべき行為ではないだろう。

 そもそも俺は、部室まで桜屋敷と同伴するつもりなど無かったのだが、俺たち二年生の教室がある三階から、職員室や科目教室のある二階を通って、一年生教室のある一階に降りた時、彼女に見つかってしまったのが運の尽きだった。


「でも、ハナヤちゃんのおかげで連絡通路が大変なことになってたの気付けて良かったよ。だからウチは、部室に置いてた置き傘持って玄関の方から校舎行ったんだよねー。」


 何の反応も示されていないのに、一人で話し続けている。もちろんそれは、無視という行為を反応のひとつに含めないのであれば、の話にはなるのだが…。


 そうこうしているうちに、俺たちは連絡通路へと辿り着く。桜屋敷の言ったとおり、少し前から雨が小康状態になっていたおかげで、通路の水は引いており、いつも通りのように通ることができた。

 しかし、実際にここまで来ると、それまでの数々の挑発は影を潜めたように、桜屋敷は何も言わない。流石になにも俺が言わないことに影響されて、後ろめたさでも感じたのだろうか。

 にしても、陸上部の女子部室へ行くのも随分慣れてきて、日常の一つになりつつある気がする。


「はい、鍵開けたよ。どうぞ。」


「…おう。」


 お言葉に甘えて、先に入らせてもらった。俺はいつも使っている席に腰を下ろす。その様子を見てから、桜屋敷も腰かけた。


「ハナヤちゃん。」


「ん?」


「さっそく、考えを聞かせてほしいんだけどさ、はじめに一個だけ聞かせて?」


 そう言って足を組む。 


「あぁ。なんだ?」


「考えがまとまったっていうのはさ、結論が出たってこと?それとも推論?」


「いや…。」


 そう呟いて彼女の顔をちらと見る。


「俺は別に推理とかそういうのが得意な人間ってわけじゃない。実際、推理小説とか読んでても、当てが外れることは正直多い。」


 ちなみに、推理ドラマは見ない。というか、そもそもドラマ自体あまり見たことが無い。


「ふーん。で?」


 何かが腑に落ちていないようで、桜屋敷は不満げだ。


「つまり、結局、俺は当事者もしくは当事者にごく近い人間というわけでもない。だから、当事者にごく近い人間として桜屋敷に、俺の開示した情報から、それが結果であるのか、結論であるのか、はたまた、ただの妄想であるのかを判断してほしい。」


「つまりハナヤちゃんの考えなのに、最後はウチに全部ゆだねるって事?回りくどくない?」


「そういうことにはなるな。申し訳ないが、そこの形式ははっきりさせたいんだ。」


「まぁ何でもいいけど。」


 そういって、先ほど組んだ足の上に肘を置いて、頬杖をつく。それを桜屋敷の聞く準備完了の合図だとみた俺は、体の正面が桜屋敷の方に向くように、椅子と体勢を変更して、話し始めた。


「俺がまずこの件で注目しようと思ったのは、木ツ女と、桜屋敷達のクラスメイトが目撃したという、おばけ又は雫さんのその時の状況だ。」


「…。」


「それで一つ、確定させておきたいんだが、結局、今日まで、美七崎さんが雫さんをびしょ濡れにさせている犯行現場を、実際に見たやつはいないんだな?」


 ことが起きたのは先週の話であり、今日に至るまで目撃情報が入っていないとは言い切れず、確認する。

 一方、問われた側の桜屋敷は、浅くではあるものの頷いて、同意を示してくれた。


「事件が起きた翌日に、桜屋敷から、クラスメイトがびしょ濡れになった雫さんを目撃した、って話を聞いて、木ツ女が目撃したおばけこそが彼女だったんじゃないか、という話になった時、俺はその話にまず違和感を覚えた。」


 俺の問いかけに賛したのか、否したのか、それとも疑問を持ったのか、表情からは窺えない。


「木ツ女がおばけだと勘違いした存在と、桜屋敷達のクラスメイトが目撃した雫さんを同一のものと捉えるなら、職員室がある二階ならまだしも、二年生の教室がある三階にいるのはおかしいんじゃないかと思ったんだ。」


「なんで?もしかしたら三階、四階に用があったのかもしれなくない?」


 俺は、桜屋敷が返してきた問いを完全に否定する為に、首を横に振る。


「いや、それは絶対ないはずだ。木ツ女によれば、その女子は泣いていたらしい。まぁ、放課後の人気ひとけがなくなりつつある時間帯に、誰かから水をぶっかけられたら、そうなってしまうのは分からなくもない。だから、泣いていたというのを真実であると仮定する。」


「…。」


「そんな精神状態で、一年生の教室がある一階ではなく、二年生以上の教室しかない三階より上の階にいるというのは、結構おかしい状況だとは思わないか?」


 そう言って、桜屋敷の方を見ると、疑問が解消しきれていない顔をしていたので、俺は一つ付け加えた。


「確かに、三階もしくは四階で犯行が行われたんだったら、雫さんが三階を歩いているのはおかしい話じゃない。けど、桜屋敷のクラスメイトによれば、雫さんは二階から三階の階段を上がっていったらしいよな。つまり、三階より上の階で水をかけられた場合の雫さんが移動するべき方向と、クラスメイトさんが目撃した雫さんの移動方向は明らかに逆になってるように思う。」


「うーん。確かに、ハナヤちゃんの言う通りな感じもするけど。そしたら、目撃情報がそもそも見間違いだったとか?」


「いや、一人が二階から三階に上がっていくところを目撃して、もう一人が三階の廊下で目撃したんだったら、その線も薄そうじゃないか?二人同時にある程度見慣れているはずの校舎内で、何かを見間違えるっていうのは、何か特殊な事情が無いと発生しそうにないと思う。」


 うーん。と、腕を組んで考える。


「それで、その違和感について少し考えた後、二つの可能性について考えたんだ。」


「二つの可能性?」


「一つ目が、そもそも事件自体が無かったっていう可能性と、二つ目は雫さん以外の誰かが被害者だったって可能性だ。」


 それを聞いた桜屋敷は眉をひそめた。


「…それってまさか、優桜は絶対、水をかけられた人間じゃないって思ってるって事?」


「あぁ。正直、俺はここまで考えてみて、雫さんが被害者っていうのは結構無理があるんじゃないかって思ってる。」


「んー………。まぁ、とりあえず、それで、その二つの可能性はどっちが高いと思うの?」


 雫さんが被害者ではないという事を、今更受け入れ辛いと感じているように見えるが、とりあえず俺の話に耳を傾けてくれるらしい。


「結論から言ってしまうと、俺は事件は絶対起きていて、その被害者は雫さんじゃないと思ってる。まぁ、だから、さっき上げた可能性のうち、後者の方があり得ることだと考えてるってことだ。」


 桜屋敷は、うーんと考え込んでいる。


「あ、ごめん。ちょっと考えてみたんだけど、ウチの持ってる情報では分かんないや。いいよ、続き。」


「ありがとう。ちょっと話が変わるんだが、さっき、というか昼休みの、桜屋敷と別れた後、」


「あ!あの通路の事件のあと?」


 俺は桜屋敷の言葉を公然と無視して続ける。


「美七崎さんに会いに行くって話を元々してたよな?」


「うん。してたね。」


「で、会えなかったって話も通話で、しただろ?」


「うん。」


「ただ、思わぬ収穫が二つもあったんだ。」


 桜屋敷は無言でこっちを見ているだけだが、その瞳は話の続きを催促している、そう感じた。


「一つ目は、美七崎さんの在籍している三組に行ったときに美七崎さんの友人Aとした話だ。」


「友人A?名前は?」


 意図的とはいえ、ちょっと喧嘩っぽくなっちゃって、それどころじゃなかったという事は、今は別に言わなくても説明には支障ないだろう。


「そんなたくさん話したわけじゃないから、名前までは聞けなかった。」


「で、それで?」


「その時、誰かと勘違いしたのか、『そうやって、あなたが傷つけたから、きこりん、最近落ち込んでるんだ!』って感じのことを言われたんだ。」


 それを聞いて桜屋敷は疑いの目を向けてきた。


「…美七崎が被害者だって言いたいの?」


「この点だけだともちろん、三階を歩いていたびしょ濡れの女子が美七崎さんだと断定することはできないが、間違いなく、誰かから何らかの被害に遭っているという事だけは推測できる。」


「まぁそれは確かにそうだけど、全然関係無いことかもしれないじゃん。」


 引き続き、疑いの目を向けられている。


「そこで二つ目の収穫なんだが、俺が三組に行ったとき、教室の真ん中の方の天井が、雨漏りしてたんだ。」


 疑いの目は、「それ関係ある?」と言いたげな、呆れを宿したまなざしへと変貌した。


「その時に、教室から漏れ聞こえてきたんだが、美七崎さんはどうやら先週、防水の補修テープと水に触れても大丈夫な接着剤を下校中に薬局で買ったらしいんだ。」


 桜屋敷が放っていた呆れのまなざしは、表情にまで現れて、理解不能な行動や言動を行った人物へ向けるものに、近似してきてしまっている。


「まぁ、とりあえず、今はわけわからんこと言ってやがるって思ってていいから、とりあえず、この美七崎が耐水の補修セットを買っていたことを覚えておいてくれ。」


「うん。でもちゃんと説明してね。」


「おう、で、話はまた飛んで、先週のことなんだが、俺は部活へ向かう直前の田嶋君と少し話をしたんだ。」


 桜屋敷は怪訝そうな顔になった。


「その時、ジャグ、まぁ、スポーツ用の水筒、商品名で言うとスクイーズと言うらしいんだが、それの新品を一つ開封し始めて、」


「…。」


「で、それを田嶋君に聞いてみたんだが、彼は、サッカー部では複数のジャグを共用で使っている、という事と、故意ではなくシュート練習でぶつけて壊してしまったからその分を急いで買ってきた、という事を教えてくれた。」 


「え、それって…。」


 何かに気付いたように声を出す。


「サッカー部で共用で使うものを練習中に仕方なく壊してしまった場合、それを個人の責任として、一人に新品を買わせるというのは明らかに違和感だと思う。ましてや、スクイーズはデザインさえ気にしなければ、400円、500円で買えるものであって、部員数のそれなりにいて、部費がそれなりに収集できるサッカー部が、それをたったの一つ程度、部費で賄わないのは明らかに不自然な感じがする。」


「そうだよね。」


「と、なるとなぜ、田嶋君は自分でスクイーズを買ってきたのか。それは全体の責任にはなりえない個人的な責任に留まってしまう、なんらかの理由で壊してしまった。そう考えるのが妥当であるように俺は思う。」


「…てことは…。」


 俺は唾を飲み込んだ。


「だから俺は、故意であるのかそうでないのかはわからないにしろ、田嶋君が投げつけたか、叩きつけたスクイーズが、破損したことで、中身が水しぶきとなり、美七崎さんがびしょ濡れになったんじゃないかと思ってる。そこでさっきの、美七崎さんが耐水の補修セットを買ったという情報は、壊れたスクイーズを直そうとしていたからと考えれば、俺の考えの信頼度に補強を加えてくれるはずだ。」


「…。」


「ここからは推測になるんだが、聞いて欲しい。」


 桜屋敷は頷く。


「中学の頃、もしかしたらそれ以前から、美七崎さんは田嶋君の事を好ましく思っていて、その思いが強すぎるあまり、田嶋君と関わった女子に片っ端から嫌がらせをしていた。多分これは推測ではなく、事実だと思う。で、先週、田嶋君は流石に美七崎さんの行為に耐え切れなくなって、止めるよう説得する為に、サッカー部の部室に誰もいなくなってから、彼女を呼び出した。しかし、話は平行線が続いて、田嶋君の怒りが頂点に達したとき、思わずスクイーズを床に叩きつけてしまう。これによって、水がかかってしまった美七崎さんは教室にタオルなのか荷物なのか、はたまた着替えなのかはわからないが、取りに戻ったんだと思う。そこを木ツ女とクラスメイトさんの二人に目撃された。この説明なら、美七崎さんの友人Aが言っていた、『きこりん、最近落ち込んでるんだ!』の言葉も、美七崎さんが意中の相手に拒絶されて落ち込んでいたからだと捉えられる。友人Aがそれを知らなかったのは、少し同情するが。」


 これは桜屋敷には言わないが、雫さんが田嶋君の事を好きになっているというのは、この間出かけたときの雰囲気を見る限り、勘違いな気がする。田嶋君が雫さんの筆箱を拾っているところを目撃した美七崎さんが誤解して、雫さんに嫌がらせを行おうとした場面の印象が強すぎて、そう強く思い込んでしまったのだろう。


「…。」


「以上が俺の考えなんだが、最初に伝えたように、どう考えるかは桜屋敷次第だ。それと、しっかりと雫さんと話してみてくれ。多分しっかり説得すれば、何か話してくれると思うぞ。」


「うん、分かった。」


―~―~―~―~―~―~―~―~―~―~―~―~―


 後日、桜屋敷によると、雫さんは、激高している桜屋敷に、水をかけられていない事実を伝えづらかったという事と、そのまま切り出すタイミングを失ってしまったという事の二点を、話してくれたようだ。ついでに、今も田嶋君の事を好きなのかと尋ねると、やはり、???という顔をされたらしい。

 

 結局、本当に田嶋君が美七崎さんを呼び出して、スクイーズを叩きつけてしまったのかはわからない。それを事実なのか本人たちに確認しようとも思わない。答え合わせは別にしなくたっていい。

 まぁでも、俺の考えが事実であったのなら、一途に思っていた相手に拒絶されたことで、美七崎さんの嫌がらせは、収まっていくはずだ。そうだったら良い、それくらいは流石に俺も思った。

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