第9話(前編) 花浅葱灯弥は、びしょ濡れになっても思慮を巡らす。

 俺が想像していた以上に、校舎と部室棟の間に設けられた連絡通路は、酷いありさまだった。すのこによって形成されている足場は、浮き上がるにはぎりぎり足りない程度の水に侵されてしまっている。そして、もちろん注意を払うべきは足元のみに非ず。通路の幅より一回り程度しか大きくない簡易な屋根が、横殴りの雨に太刀打ちできるわけも無かったのは、言うまでも無いだろう。


「ふぅ…。」


 とりあえず、足場の状態を確認するために一歩踏み出してみると、すのこの足は擦り減りでもしているのか、手前と奥で微妙に高さが異なっているようで、足が乗ったことによる重心変化が、通路に水の波紋を作り出した。

 つまり、渡ったとしても水に浮きあがっているわけではないので、足場が沈んで上靴と靴下が台無しになることは、多分無い。目視以外の方法によってこれを確認した俺は、横殴りに降ってきている方向にハンカチを構えて、カニのような移動方法でダッシュすることで、この窮地を突破する計画を立案した。ふっ。我ながら完璧じゃないか?唯一にして最大の懸念は、その滑稽な体勢を誰かが目撃すると、めちゃくちゃ恥ずかしいという事だ。

 そうして俺は、連絡通路に飛び出した。


―~―~―~―~―~―~―~―~―~―~―~―~―


 「どしたんや灯弥!?お前、なんでジャージなんや?」


 「聞くな聞くな。色々あっただけだよ。」


「絶対、雨かなんか濡れて、保健室で借りて来たんやろ。」


「うるさい、うるさい。」


 まさか一番最後のすのこだけ、水に沈むとは…。結局、俺の連絡通路突破計画は、手前の足場しか確認できないという重大な欠陥によって、失敗に終わり、保健室で借りてきたジャージへ着替えることになってしまった。


「あ、てか、慧斗ー。」


「ん、どないしたん?」


「美七崎さんって三組だったよね?」


「せやで。なんかあったん?」


「いや、ちょっとこっちの私事。」


「ほーん。ならええけど。羽瑞希の件はもうとっくに解決しとるし、余計なことせんでええからな?」


 慧斗は、それまで食べていた卵サンドを口元から離して、真面目な顔で俺の方を見ている。


「あぁ、もちろん。心配しなくていいぞ。」


「ほーん。ならよあっはわ。」


 一転、既に卵サンドを口に含んでいた。

 

 昼食を再開した慧斗を放置して教室から廊下に出ると、これから向かおうとしていた隣の教室が何やら騒がしい。気になって中を覗いてみると、


――おい、本当に雨漏りしてるぞ。 

――え、ちょっと水降ってきてる!

――誰かバケツ―!

――雑巾もあった方が良いんじゃない?


 教室のど真ん中の天井から雨漏りが発生していた。俺はもっと悲惨な状況に陥ったんだ、雨漏りくらいで騒ぎすぎだろ、実際に雨漏りでびしょ濡れになった人いるのか?いないだろ?そんな感じで八つ当たりのようなことを考えながら、出口から一番近い人に、美七崎さんを呼んでほしいと頼んだところ、今それどころじゃないんだけど、というような感じに嫌な顔をされつつ、今はいないという事だけ教えてくれた。そのうち戻って来るだろうという事なので、扉の前で待っていると、教室の中から救世主降臨を求める声が漏れ聞こえてくる。


「そういえば、きこりんがこの間、防水の補修テープと水に触れても大丈夫な接着剤を帰りに薬局で買ってたから、もしかしたらそれで応急処置できるかもよ?」


「美七崎さんが?」


「うん。今日持ってきてるかは分かんないけど。」


「ちょっと誰か、美七崎さんどこに行ってるか知らない―?」


 ――ガヤガヤガヤ――。


 んー、いくら学校帰りに耐水の補修セットを買っていたとしても、もう学校には持ってこないだろうと俺は思う。それに縋るくらいだったらとりあえず先生を呼ぶのが先決なのではないだろうか。きっと先生を呼べば、最終的に用務員さんが出動することになり、その雨漏りを解決とまではいかなくとも応急処置は施してくれるだろう。


「あー、希子さっき、頭痛いから保健室行くって言ってたし、しばらく戻んないと思うぞ。」


「えー、そうなの?」


「ていうかさ、俺がいきなり口出すの変かもしれんが、希子待つより先に先生呼んだ方が良いんじゃねぇか?」


 ――ガヤガヤガヤ――。


 お。言い方はともかくだが、俺と同意見の人間もいたようだ。

 そんなことより、どうやら、美七崎さんは体調不良で保健室へ行ってしまったらしい。それが本当ならば、昼休みの残り時間で三組の教室に戻ってくる事はないだろう。まぁ、体調不良ならどうしようもない。これ以上、三組の前で待機し続ける意味は全くなさそうだ。そう諦めて、自分の教室に戻ろうとしたとき、


「ちょっと、君、花浅葱君だっけ?きこりんに何の用だったの?」


 先ほど、美七崎さんが帰りに耐水の補修セットを買っていたと、委員長らしき人物に伝えていた女子が強い語気で話しかけてきた。言うまでも無いが、知り合いではない。


「少し聞きたいことがあっただけだ。そういうそっちは何で、俺に敵意を向けてきてるんだ?」


「別に敵意を向けてるつもりは無いんだけど。それより、何が聞きたかったのか教えて!」


 そう言った相手に、俺は笑いかけた。


「なんでそれを名前すら知らない人に教えないといけないんだ。というか、知りたいことがあるのなら、それ相応の態度が必要だとは思わないのか?」


「なに。君、何様のつもり?」


「別に俺自身が偉いなんてこれっぽちも思って無い。単純なことだよ。あんたの態度に問題があるって、俺は言ってんだ。」


「何言ってんの?それこそブーメランなんじゃないの?」


「訳が分からないんだが…。敵意向けてきたのはそっちだろ。やられ返される覚悟も無いくらい軟弱な癖に、雑に突っかかって来るな。」


「はぁ!?やっぱり、そうやって、あなたが傷つけたから、きこりん、最近落ち込んでるんだ!」


「…。そうか、なるほど。あ、ちなみに、それは絶対俺じゃないぞ。ちょっと喧嘩売る感じになって申し訳ない。また今度、話聞かせてくれ。じゃあ。」


「ちょ、ちょっ!」


 雨漏りをどうにかする為に駆けつけてきた先生が視界のはじに見えたので、ここらでいいだろうと判断し、無理やり会話を切り上げて、自分の教室に逃げ込んだ。結局、話している相手の名前すら最後までわからなかったが、隣のクラスに戻った俺のところまで追いかけてこなかったのは幸いだった。

 結局、美七崎さんに話を聞くことは叶わなかったが、それでも、美七崎さんの友人Aから得られた情報は収穫といって良いだろう。ただ、俺が美七崎さんを傷つけたという点に対して否定する態度をとったことと、彼女に対して謝ったことの二点がしっかり耳に入っていればいいのだが…。あえてとはいえ、特に嫌いでもない相手に少し強い言葉を使いすぎてしまったのではないかと、後ろめたさを感じ、今更、ちょっと後悔した。


 それなりの情報を得られたので、桜屋敷のスマホに電話を入れると、切れるのではないかというギリギリのタイミングで、桜屋敷に繋がった。


「突然掛けてすまん。今ちょっとだけ大丈夫か?」


「ちょっとびっくりしたよ。今、部室出ようとしてたところだから、ちょっとなら。」


「本当に大丈夫か?次の授業、科学とかじゃないか?」


「うん、大丈夫。で、ハナヤちゃん、美七崎と話せた?」


「いや、あれだけ、これから行ってくるって息巻いてたのに、どうやら体調不良で保健室行ったらしくて、会うことすらできなかった。」


「え、じゃあ、なんで電話かけてきたの?」


 そのようなつもりが無いのは分かっているが、命令を完遂できなかったのに何故おめおめと帰って来やがったんだ!と怒られたような気分になってしまう。


「いや、ちょっとね。」


「何、その含みのある言い方ー。」


「まぁ、確かに会えなかったが、二つ情報を得られて、それなりに俺の考えがまとまったんだ。できれば放課後、俺の考えを聞いて欲しいと思ってて。もちろん雨でも部活あるんだったら、明日の朝でもいいんだが…。」


「いいよ。ウチ今日雨強くて部活中止だから、満足するまでハナヤちゃんの話聞いてあげる。」


 いや、どちらかというと俺じゃなくて、桜屋敷に満足というか納得してほしい…。


「よし。じゃあ放課後頼むよ。終わったらすぐ部室行く。じゃあ。」

 

「ウチより先に来ても、入れないけどね?あ、そういえばハナヤちゃん?」


 彼女はそう言うと、写真を一枚送りつけてくる。


「だいぶ、見てて間抜けで面白かったよ?でもハナヤちゃ…、」


 切ってやった。送られてきた写真は見なくとも、何が写されたものなのかは容易にわかる。どうしたらこのやるせない気持ちを発散することができるのだろうか。にしても、何故、その瞬間に連絡通路を見ていたんだ…。雫さんが話してくれそうになった時もそうだったが、全くもって桜屋敷のタイミングは文字通り、最悪すぎる。

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