『melody of "remember me"』

「一体なんのご用ですか」

 頬杖をついてそっぽを向いたまま、あたしは努めてつまらなさそうにそう訊いた。別れた男とわざわざ話すことなんてない。


「結婚してください」


「え、絶対いや」

 飛び出したのは想像だにしない突拍子もない言葉で、あたしはまた、間髪入れずに本音がこぼれた。思わず居直して顔を見てしまった。

 なに言ってんだこいつは。


「なに言ってんのいきなり」

「プロポーズしにきた。明子ちゃん、おれと直接連絡取ってくれないから、みゆきちゃんに相談してそれで、」

「当たり前でしょ! 別れた男と連絡取るばかがどこにいるのよ! え、なに、だからスーツ?」

「そうだよ、おれは本気なんだ、ちゃんと話を聞いてくれ!」

「ちょっと静かにしなさいよ!」

 あたしは自分も一緒になって騒いだのを棚に上げて智昭の大声を遮った。周囲をちらりと見ると、数少ない他のお客さんたちが物珍しそうにこっちを見ている。店員さんも。

 どうしてこうなった。

 あたしがその視線から逃げるように、気持ちを落ち着けようと深く息を吐くと、智昭も一度だけ深呼吸をした。それから、改めてあたしに向き合ってくる。

「聞いてほしいんだ、明子ちゃん。おれ、あれからバンド辞めて、就職したんだよ」

「……へぇ、良かったね、おめでとう」

 あたしがここで棒読みになるのは無理もないことだと思う。あんたのせいで無職になったあたしに、何故それを言う。

 ほんっと、そういうとこ配慮が足りない。

「あのあと友だちのところに転がり込んでさ。友だちには説教されるし、明子ちゃんは連絡つかなくなるし、家探したりとかしてて……。それで、自分で働き始めて改めて分かったんだ。明子ちゃんがあの頃どんな気持ちで働いてたのか。おれに対してどんな気持ちだったのか」

「あの、それと結婚と、どういう関係があるわけ?」

 あたしは早くこの話を終わらせたかった。わざわざここまで来てテーブルの隅を見つめてるような男と結婚なんてする気はないし、今はまずみゆきに抗議の電話をしたい。

 そんなあたしの気持ちなんて何も知らない店員さんが、智昭のためにホット珈琲を持ってくる。

「お待たせ致しました」

「ありがとうございます」

 几帳面に礼を言った智昭は、テーブル備え付けの砂糖の蓋をとって、スプーン山盛り3杯をそうっと珈琲に入れた。砂糖用のスプーンは丸くて小さい。ずっとギターを弾いてきた長い指には似つかわしくないほど。

 この光景を見るたびにいつも思っていた。近い将来、絶対に糖尿になる。

「忘れられないんだ、明子ちゃんのこと」

 智昭は、スプーンでぐるぐると珈琲をかき混ぜる。ざらざらした砂糖を熱で溶かすように。

「忘れられないんだ。確かにいろんなことがあったけど、でも良かったことしか思い出せない」

「便利な頭だね」

「ごめん。でも、今度は必ずおれがきみを助けるから」

 ああ、やっぱり良い声だ。

 あたしも思い出すよ。


 あたしはどんな音楽よりも、智昭の声が好きだった。ギターだったから、ライブではコーラスしか担当しなかったけど、ボーカルに重なる声がマイク越しに低く響いて、あたしはそれが大好きだった。

 家では、持ち歌とは全然違うバラードばっかり口ずさんでいて、その歌声は世界中であたしだけのもので。

 あの曲に合わせて、幸せだった時間だけが蘇る。


「だから、もう一度、おれとやり直してくれないかな。それで、いつかおれの本気がちゃんと伝わったら、その時はどうかおれと結婚してほしい」

 智昭は、あたしに懇願するように語りかける。スーツを着て、真面目な顔で。

 あたしの大好きな声で。

 でもさ、一年ぶりに、こんな急に現れて、そんなこといきなり言われてもさ。こっちはあの、ぶん殴った瞬間から時が止まったままなんだよ。ひとりで勝手に先に進まれても困る。

 あたしは目を合わせづらくて、自分のアイス珈琲をストローでぐるぐるとかき混ぜた。溶けた氷が珈琲と混ざるように。

「……殴ったことは、謝らないからね」

「いいよ、そんなこと望んでない」

「急にヨリは戻せない」

「じゃあ、どうしたらいい」

「あれ、また歌ってくれる?」

「あれ?」

「『melody of "remember me"』」

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