みゆきじゃない
あたしは、居づらくなって会社を辞めた。
たった一回の寝坊で無職になるなんて、想像もしていなかった。
しばらくのあいだ無職を謳歌したあたしは、少し前にようやくオペレーターの仕事にありついた。インテリアなんて全然関係ない仕事だし、派遣だけど。
ようやく、ようやく新しい生活を見つけたところなんだ。それなのにこのBGM。嫌でもあの日の記憶が蘇る。
「お待たせ致しました」
注文を取ったお兄さんが、珈琲一杯をあたしに運んでくる。
たっぷりの氷に透き通った琥珀色の珈琲。ストローを挿すとカラン、と氷が音を立てた。それと同時に、BGMは別の曲へと移り変わる。それにあたしは、ほっとする。
珈琲が半分くらいなくなった頃、みゆきからラインが届いた。
ブルーノートね。分かった。ちょっと待ってて。
そんな言葉と一緒に、いつものブサイクなうさぎのスタンプも送られてくる。顔の濃いうさぎが笑顔で親指を立てている。見慣れたけど、でもまあなんともいつも通り、
「……きもちわる」
あたしはラインを閉じた。
しばらくそうしてストローを咥えながら待っていると、窓ガラスの向こうの、人並みのなかに、見覚えのある顔が現れた。
あたしはその、こっちに向かって歩いてくる男に目を留めて、何度か瞬きを繰り返す。
いや。いやいや。いやいやいやいや。まさかまさか。
三度見した。でも見間違いじゃない。あれは、智昭だ。一年ぶりのその姿に、あたしは思わず身をかがめるようにして隠れた。
何故いる。何故こっちに向かってくる。しかもなんかスーツ着てた。別にそんなのどうでもいいけど、でもみゆきお願い早く来て。
窓ガラスと反対側に顔を向けて、智昭が視界から消えるのを待つ。顔を見ただけで、こんなに動揺するとは。早くどっか行けと思いながら天井の照明を眺めていると、開け放しの入り口から誰か入ってきた気配がして、店員さんが「いらっしゃいませ」と、その人に声をかけた。
照明は蛍光管とスポットライトを併用している。LEDは使わないのかしら。やっぱり色味と柔らかさが――
「明子ちゃん」
名前を呼ばれて反射的に振り向くと、智昭が立っていた。
一年ぶりに見たその顔は、なんだか少し精悍になっていて、真面目そうな顔をしてスーツを着ていて……何がなんだかよく分からない。
「久しぶり、明子ちゃん」
「なんでいんの……」
挨拶も返せず、思ったことが素直に口に出る。
「前、座っていいかな」
「え、いやです」
いやです、とわざわざ敬語で断ったにも関わらず、智昭は硬い表情のまま勝手にあたしの前の椅子に腰かけた。
さっきと同じ店員さんが、智昭に注文を取りに来る。
「ご注文は」
「ホット珈琲をお願いします」
「かしこまりました」
あたしは今日二度目の苦虫をかみ潰す。
ホット珈琲にする理由は知っている。シロップよりも砂糖のほうが好きだからだ。苦いのきらいなんだから、オレンジジュースにすればいいのに。
「あたし、みゆきと待ち合わせしてるだけなんだけど」
「うん、そのことなんだけど」
は。
……そのことなんだけど?
いやな予感がする。さっきみゆきから送られてきた、ブサイクなうさぎのスタンプを思い出す。顔の濃いうさぎが笑顔で親指を立てている。あいつ、やってくれたな。
「ああ、いい、言わなくていい。分かったから。」
あたしは自分のアイス珈琲をもう一度ストローで飲んで、顔をそむけた。
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