あの夏の日

 智昭とは、一年前にあたしがあいつをぶん殴ってから会っていない。

 彼氏とか、恋人とかいうより、どちらかといえばヒモだった。


 みゆきに連れて行かれた小さなライブハウスのステージに、智昭はいた。誰だか分からないようなひどい化粧をして、ギターをかき鳴らしていた。智昭は、ヴィジュアル系バンドのギターだった。

 みゆきに紹介され、あれよあれよと仲良くなり、気づいたら智昭はあたしの部屋に入り浸りになっていて、気づいたら智昭は、あたしのヒモになっていた。

 智昭は優しかった。穏やかで、にこにこしていて、ステージに立っている姿はニセモノなんじゃないかと思うほど、実はやる気のない男だった。

 バイトとライブで生計を立てていたはずが、いつしかバイトをしなくなった。月に数回あるバンドの練習には行くけど、別にプロになりたいわけでもない。

 いつからか、あたしが智昭を養うようになっていた。


 あたしはそんな二年もの生活に、知らないうちにいっぱいいっぱいになっていた。

 智昭は優しかったよ。

 仕事で疲れて帰ったら「おかえり。お疲れさま」って労ってくれて。簡単なご飯だって作ってくれていた。マッサージも上手くて、いつも立ちっぱなしの脚を揉みほぐしてくれた。お風呂から上がるといつも、これ、この、今流れてるBGMよ! これをね、いつもギターを爪弾きながら、英語の歌詞を口ずさんでいた。甘いものが好きで、熱いものが苦手で、時々一緒に食べるショートケーキが美味しかった。

 不満は、あるような、ないような。そんな感じで。


 それがあの日。あたしが「絶対に七時に起こしてね」って頼んでたあの日。

 すべてがひっくり返ることになるなんて、まったく思っていなかったあの日。


 あの日あたしは大事な大事なプレゼンを抱えていた。絶対に失敗できない。あたしが頑張らないといけない企画だった。

 だから、そこに行き着くまでに毎晩のように残業していて、最新のインテリアをいくつも吟味し、大量の模型を作り、パソコンとにらめっこして、会社の人たちとたくさん話し合って、すごく疲れていた。

 だから、寝る前に智昭にお願いしたの。

「明日は絶対に七時に起こしてね」

って。

 アラームもセットしていたし、あたしは安心して眠りについた。夏のはじめで、少し蒸し暑かった。エアコン代をけちった肌がしっとりと汗ばむのを感じながら、まるで気絶するみたいに意識を手放した。


 翌朝あたしが目覚めると、時計は八時前に差し掛かっていた。

 智昭は、あたしの眠るベッドの脇で床に座って、ギターを爪弾いていた。この、お気に入りの英語の歌詞を口ずさみながら。

 アラームは切られていた。

 あたしは一気に血の気が引いた。

「どうして起こしてくれなかったの!」

 慌てて服を着替えながらあたしが怒鳴ると、智昭は眉を下げながらこう言ったのだ。

「何度か声はかけたんだけど……。でも明子ちゃん、最近すごく疲れていたし……。気持ち良さそうに寝ていたから、起こすのが可哀想で」

 あたしは、頭がくらくらした。


 慌てて会社に連絡を入れてタクシーで会場に向かったけど、間に合わなかった。プレゼンは中止。あたしは上司にきつく叱られ、同僚にも部下にも頭を下げた。

 家に帰ったあたしは、くたびれたパンプスを脱ぐと真っ先に智昭を殴った。日ごろからいろいろ溜め込んでいたものが爆発した。

 人のことを拳でぶん殴ったのは、後にも先にもあの時しかない。

 智昭は不意打ちのあたしの拳をもろに食らって、後ろにふらついてローテーブルにぶつかって尻もちをついた。


 それ以来会っていない。

 

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