第3話 まばたきをした日

 青年は自分が生まれた日の事を、一日たりとて忘れたことは無い。

 正しく言えば、忘れようとしてはいるがいつまでも出来ずにいたのだ。何度忘れようとしてもダメなのだ、こすってもこすっても落ちないシミのように頭の中にこびりついている。


 あの狂気にも似た歓声を。いいやあれは狂気そのものだった。誰も彼も狂っていた……はずだ。




 少女は彼を見て恐怖を隠すことが出来ないようだ。

 それもそのはずだ、目の前で人が撃たれる事すらかなりの衝撃なのに、撃たれた人間があっさりと起き上がったとなれば彼女の短い一生数個分の衝撃だ。

 今まで、少女が見て来た人間の中で頭を打ち抜かれ立ち上がった者はいなかった。


「怖いかよ?」


 彼は口元の血を拭い、地面に腰を下ろした。少女はようやく落ち着きを取り戻し、この奇妙かつ得体のしれない恩人に声をかけた。


「死な……ないの?」


「お前喋れんのか」

 

 初めて聞いた少女の声は、今にも消えてしまいそうなほどか細いものだった。

 青年は彼女の前にしゃがみ、改めて少女の顔を見た。

 細い糸のような白い髪、汚れの良く目立つ白い肌、それは今まで見て来た藁と大差ない、藁はいわば突然変異のようなものだ。

 残り火に対する耐性の無さ、低い免疫力、加えて白い髪に白い肌、それは全ての藁に共通する。

 だが一つ違うとすれば、それは目だろう。

 今まで見た藁の目はどれも曇り、濁っていた。

 全てを諦めて、何にも誰にも期待していない目。

 目の前の不幸に抗うでもなく、粛々と受け入れるだけの目。


 だがこの少女は違う、まだ全てを諦めきれない未練たらしい目をしている。

 今までの藁とは違う何かを、青年は自分の黒い瞳と重なる少女の青い瞳に感じていた

 

「ああ、見たまんまだ。どんな傷でも死にはしないし、おまけに年もこれ以上取らねえらしい」


「すごい……」


 それは嘘偽りのない、素直で悪意のない言葉だったがそれを青年は鼻で笑った。

 まるで何もわかってないと、少女を馬鹿にするような笑いだった。


「凄かねえさ、ろくなもんじゃねえぞ? 死ねねえってのも……ま、お前に言ったら嫌味になるな。わり」


 その言葉に少女は頭を大きく横に振る。どうやら気にしなくていいという意思を伝えたいらしい。


「さて、自由の身になったんだ。これからどうしたい?」


「……分からない。死にたくないとも思ったしここから出たいとも思ったけど……これからどうすればいいのか分からない」


「あぁ? なんかやりたい事はねぇのか?」


 そこから、頭を抱えて少女はうんうんとうなりながら悩みに悩みぬいた。彼が少しばかり退屈になってきた頃に何かを思い立ったように少女は顔を上げた。


「世界を見てみたい……かな」


 面白くもなんともない、なんともつまらない答えだ。

 もっと何か飛びぬけた事を勝手に期待していたのもどうかとは思うが、それでも余りにも平凡すぎる。


「世界ねぇ……見ても楽しいもんなんかなんも無いと思うんだけどなぁ……」


「それしか思いつかなくて……」


 そう呟いてうつむく少女を見ていると、なんだか自分が悪いことをしたような気分に彼はなってしまった。

 よく考えてみれば、世界を見たいというのはそこまで悪い事では無い、ありきたりではある事は否定できないが。


「そんじゃあ行くとするか」


 立ち上がった青年を少女は不思議そうに見つめる、その言葉の意味が分からなかったからだ。


「一緒に来てくれるの?」


「構わねえさ、どうせ単なる暇つぶしだ」


 --これは暇つぶしだ。こっから先の、くそつまんねえ俺の人生のな。


 彼はそんな冷めたような感情を、心の奥に潜ませていた。


「そうだ、お前の名前はなんて言うんだ?」


「名前? その……名前ないんだ」


 まずったか、青年は居心地悪さを感じずにはいられない。

 奴隷だった少女に名前が無い事など、少し考えれば容易に想像がつくはずだった。

 だがその少しが出来ていなかった、もう口から出てしまった言葉は無くせない。

 さてどうするか。


「じゃあ俺が付けてやるよ」


「ほんと!?」


 彼の言葉に少女の目が輝く、彼にとってはもうどうにでもなれと半ば投げやりな提案だった、だが少女の喜びようを見ていると、そんな事言えるはずも無かった。


「そうだなぁ……アイリスってのはどうだ」


「アイリス? どういう意味?」


「意味は知らねえ、昔に聞いた花の名前だ。まあ大事なのは語感だよ語感」


 アイリス、それは昔聞いた花の名前、それに意味があるのかは分からない。

 彼自身はその名前が好きだったわけではない、ただ真っ先にその名前が出て来ただけの事だ。


「ふーん……それじゃあ、あなたの名前は?」


「俺? あーっと……ニゲラってんだ。ニゲラ・ヨーネンフェルク」


 最後に名前を聞かれたのがあまりに遠い過去の事だったので、危うく自分の名前を忘れてしまいそうになっていた。といっても彼はこの『ニゲラ・ヨーネンフェルク』が自分の名前だという事に確信を持てない、確かに誰かが言った言葉なのだろうがその事を思い出そうとしても頭の中に靄がかかっているかのようにはっきりしない。


「いい名前だね」


「ん?」


「凄く好き、『ごかん』いいね」


 ニゲラは自分の名前を褒められた事など無い、それに今のように褒められたとしても大して嬉しくは無いが、覚えたての言葉をあどけなく使って名前を褒めてくれたアイリスの心遣いを理解できないわけでは無い。

 アイリスの頭をぽんぽんと撫でる。


「ありがとよ」


「う……ん」


 アイリスはうつむいて消えるような声で答えた。顔はよく見えないが少し頬が赤らんでいるのが伺えた、ニゲラはそれも仕方ないと思えた、たった数時間で人生が大きく変わったのだ。疲れが出ても仕方ないと。


 そんな二人の頭上を火が駆け抜けていく。通った場所に白い尾を残して、あても無くただただ無差別にどこかに飛んでいく。


「あれは何?」


 アイリスは天の火を見た事が無いわけでは無い、この時代に生きていれば誰でも一度は見る事になる物だ。

 だがそれが何かは今まで分からなかった、誰も教えてはくれないしそもそも誰にも聞けなかったからだ。


「あれか? 昔いた臆病な奴らが生み出しちまった物だ。くその役にも立たねえ、鉄の塊だ」


 そう言って歩き出したニゲラの後を、アイリスは小走りで追いかけた。

 


 これはただの暇つぶし。

 永遠を生きる彼にとって、藁である少女と過ごす期間などまばたきをする間の暗闇くらいなものなのだから。

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